10 戦う理由(1)
ユーラは水浴びをしている最中だったのだろう。服を着ず、息を切らしている姿に、慌ててこちらに駆けつけたことがわかる。体を隠す濡れた外套から覗く素肌が扇情的だった。
「ユーラ」
イサムの口から安堵の呟きが漏れる。
そしてユーラの姿に一瞬見惚れるが、すぐに今の状況を思い出して我に返った。立ち上がって石壁の後ろに回り込めば、そこには壁に頭を打ち付けて倒れている豚と、その様子を窺うオルモルがいた。
「コレは……、ドウスルんだ?」
イサムは地面に横たわった豚を見下ろしながら、その処遇を豚の脇にしゃがみ込んだオルモルへ問い掛ける。
豚は失神しているだけで、まだ息があった。
襲ってきたのは相手からだ。命を奪っても構わないのではないか。見下ろす豚にそんなことを思うと、止めなら任せろとでも言いたげに、イサムの首元で蛇がその存在を主張してくる。
「放って置こう」
オルモルはそう言うなり立ち上がった。
肉は昨日獲ったばかりのものがある。だがそれだけが理由ではきっとない。イサムの脳裏には、先ほどの猪とのやり取りが思い浮かぶ。これ以上、面倒を増やしたくないのはイサムも同じ気持ちだった。
イサムとオルモルが豚の様子を確認している間に、ユーラは着替えを済ませてきた。
着替えと洗い物は別にしていたようで、イサムと違ってその服は濡れていない。既にイサムとオルモルも既に体、服ともに乾いており、この場に留まる必要はなくなった。
そうして三人と一匹は、豚が目を覚ます前にこの場を後にした。
キキョウの待つ小屋への帰り道。
オルモルが先頭を歩き、その後ろをイサムとユーラが横に並んで付いていく。
『ユーラが川に行った後、猪みたいなのが豚の集団を引き連れて来た。俺達が狩った奴を探してるって。それをオルモルが挑発して、明日、戦うとか。その後は、猪はすぐに去ったけど豚が一匹だけ残った』
「その豚が襲ってきたのね」
『ああ』
足を進めながら、イサムはユーラへ先ほどあったことを説明していた。
「明日、どうするつもりなのかしら」
イサムとユーラは前を歩くオルモルを見る。しかしその背中からは何を考えているのか、読み取れない。
明日、戦う。そして呼ばれたのはオルモルだけでなく、自分もだ。それを思うと、イサムは不安がせり上がってきて息苦しさを覚えた。
「すまない」
ユーラの声が聞こえたのか、オルモルが前を向いたままに声を掛けてくる。
「あの時は、上手くいくとそう思ったんだ……」
オルモルは足を止めて、イサム達を振り返った。
「どうするつもりなの?」
「森を通っている道を教える。明日、俺が猪を引き付けてる間にそっちへ向かってくれ」
その言葉に、ユーラの目つきが険しくなる。
「……あなた、死ぬ気?」
「さっき何もできなかったのは武器がなかったからだ。ちゃんと準備すれば、どうとでもなる」
先ほど猪を目の当たりにすれば、オルモルの言葉を素直に受け入れることはできなかった。それはイサムだけでなく、魔物をよく知るユーラも同様だろう。
しかしオルモルに真剣な眼差しを向けられて、二人は何も言えずにいた。
「……村の仇なんだ」
二人が黙っていると、オルモルは静かに言葉を続けた。
話の長くなりそうな気配にユーラが促して、三人は近くの手頃な木の根や岩に腰掛けた。
「俺の生まれは、今は猪の縄張りになっている廃村だ。昔は母さんもドニスも、その村で暮らしていた。
だが十五年前のある日、俺が病に掛かった。月日が経ってもそれは治らず、悪くなる一方だった。治療法も見つからず、村人達は病が移ることを恐れて、俺を森に隔離することを決めたんだ。
それで最初は俺一人で暮らすことになってたんだが、心配した母さんとドニスが一緒に暮らすと付いてきて、今の生活が始まった」
家族だけでこんな森の中で暮らしているのだ、それなりの事情があるとは思っていた。けれど憤ればいいのか、同情すればいいのか、複雑な事情にイサムは言葉が見つからない。
話すオルモルは遠い目をして、当時を思い出しているようだった。
「あの小屋は村の荷物置き場だったんだ。そこを借りて生活を始めて、その頃にはもう俺は村のどの友人よりも力が強かった。だから森の暮らしもどうにかできると思ってたが、何分経験がなかった。
森に慣れているドニスと母さんに助けてもらって、ようやく暮らしていけて、しばらくすれば俺も慣れて生活は安定した」
オルモルの口元に小さく笑みが浮かんだ。イサムはそれを見て、つらいだけの日々ではなかったのだろうと思いたかった。
只、オルモルが一つ呼吸を置くと、その笑みはすぐに消えた。
「五年前だ。それまで森に姿を見せなかった村人が逃げてきた。聞けば、村に猪の化け物が攻めてきた、追い返せずに村人は皆他所の村を目指して森へ逃げた、と。
村からは年々猟師が減っていたらしい。昔は人を恐れて村の近くには来なかった獣も、その頃には畑を荒らしに来るまでになっていた。そしてその日、とうとう魔物が村を襲った。
俺はその村人を見送った後、村へ向かった。生まれ育った故郷だ。疑ったわけではないが、自分の目で確かめたかったんだ。
だがその日は村の近くまでしか進めなかった。村に近付けば明らかに目に入る豚の数が増えて、その鳴き声も大きくなった。村まで行かなくても、その話が事実だとわかったんだ。
後で改めて確かめもした。もうそこは人っ子一人いない、廃村だった」
オルモルはイサム達へ向けていた顔を森へ向ける。
恐らくその方角に村があったのだろう。
「村人が戻ってくるわけじゃないことはわかっている。それでも取り戻したいんだ」
強く言い切るオルモルの口調は、イサム達へ本気だと示すのに十分だった。
今となっては十年以上も前のこと。けれどもオルモルはそこで確かに育ち、暮らしていたのだ。仲の良かった友人も、いろいろ助けてもらった恩人もそこにはきっといたはずだ。思い入れがあるのは当然だった。
だがそれでも、果たして命を懸けるほどのことなのか。
「今まで戦ってこなかったんでしょう、今になってどうして?」
ユーラの疑問の言葉は、イサムのそれでもあった。
猪があの場に現れたきっかけは自分達だ。あの豚を殺した、そんな自分達の存在がもしも戦いの理由になっているのならば、オルモルだけを戦わせて逃げるのはばつが悪いとイサムは思った。
「武器がなかったからな。さすがに素手だと勝ち目がない」
オルモルが腰に右手をやると、そこには鞘に収まった短剣がある。
「少し前に森で死体を見つけた。その傍に武器が落ちていて、それが思った以上に質がいい。これがあれば、あいつらを倒せるんじゃないかと前から考えてたんだ」
どうやら準備をすればという先ほどの言葉は、全くの出任せというわけではないらしい。
「ごめんなさい。私達が口を挟むことじゃなかったわね」
そこまで聞くと納得したのか、ユーラは問うのを止めた。
その一方で、イサムはオルモルの話の中に気になった言葉があった。
「ビョウキって?」
拙い言葉ながらも、イサムはオルモルへ問い掛ける。
異界にはイサムの知る病院はないだろう。今後のことを考えれば、病気や怪我という言葉には敏感になってしまう。
「これだ」
オルモルはそれだけ言うと、腰にあった右手をイサムの前に開き、突き出す。
影だけ見れば、それは五本指の人の手と変わらなかった。けれど手や腕の表皮はすっかり毛で覆われて、やはり獣のようにしか思えない。
「この顔も。信じられるかわからないが、俺も十五年前までは普通の人間だったんだ」
そう口にしたオルモルは表情を変えずにいる。
イサムは驚き、真実か確かめるようにオルモルの目を見た。そしてその目の暗く沈んだ色を見て、後悔した。
単に異界の病気のことを知りたかっただけだった。しかしそれはユーラにだって聞けたことだ。今までの話の流れで気付けたはずなのに、軽率な質問でオルモルを傷付けた。
「獣化病よ」
オルモルの言葉を引き継いで、ユーラが話し始める。
「年齢が十二歳に差し掛かる頃、それは突然発症する。生まれた場所や育った場所は関係ない。両親の健康も、それまでの自身の健康も。ある日、本当に突然、選ばれた子供の体が徐々に人から離れていくの。
その変化も私みたいなちょっとしたものから、オルモルみたいに大きく変わったり、いろいろよ」
「……ソレデ?」
イサムはユーラへ顔を向けて、説明の続きを促した。
またユーラの言葉を待ちながら、自身の愚かさと先入観に後悔をより深くする。
魔術があるのだ。小説や漫画、ゲームのようにエルフや獣人も当然いるのだろうと、疑問すら抱かずにそう思っていた。この異界を勝手に自分の知っている創作の世界に重ねていた。
「それだけよ」
イサムと目を合わせると、ユーラはそう言葉を返してくる。
「見た目が変化する。獣化病の症状はそれだけなの。感染力もなくて、隔離する必要もない。これはもう、今は沢山の人が知ってる事実よ」
その説明に、イサムは獣化病の何が恐ろしいのかを考えた。
外形が変化する病気はイサムにとって未知のものではない。只、魔術という何を起こしてもおかしくない存在があることで、獣に容姿が変化するということがその一種に思えてしまう。獣化病と忌避されない魔術との差異が考えてもよくわからなかった。
また感染力がないとなれば殊更恐れる必要もなく、症状自体を取ってみてもオルモルの生活に不都合があるようには見えなかった。
だが実際の変化を目の当たりにした人々はどう思ったのか。そこに何か影響を受けてしまったのではないだろうか。
森に囲まれた村の中で、人が自分らの食べていた獣や襲ってくる魔物と同じような姿に変化する。その状況では外形だけの変化と思えなかったのかもしれない。だからこそ今、オルモル達は森の中で暮らしている。
恐ろしいのはきっと病気ではなく、なったことによりそれまでと変わる周りの反応だった。
オルモルの様子を確かめれば、ユーラの話を聞きながらじっと目を瞑っている。
獣化病となった当時を思い出しているのか、その顔色は悪く見えた。
只、それでもオルモルは村の仇だと言った。イサムにはその胸中を想像することすらできない。もしかしたらユーラはそこまでわかっていて、口を挟むことではないと言ったのかもしれない。
「スマナイ」
他に口にできる言葉が、イサムにはなかった。
「別に構わない。俺もイサムを巻き込んだしな」
オルモルはそう言うと、軽く笑った。
そうして三人と一匹は、再び小屋への帰路を歩き出した。
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