六十三 一人碁



 平清盛。

 天下に冠たる実力者の死は、平家一門だけでなく、都人の心にまでも、暗い影を落としていた。



「清盛様が亡くならはったって」


「こんな折にのう」


「高倉院に続いて……こりゃあ、南都を焼いた仏罰に違いないぞ」


「それか、讃岐院(崇徳院)の祟りか……恐ろしや」


「飢饉に大火に大風……近ごろ都は休まらん。あのきらびやかだった都が、まるで廃墟のあり様ではないか」


「坂東の反乱も収まらんという……まったく、末法の世よ」


「反乱というが、東夷あずまえびすどもを率いておるのは八条院の猶子むすめ君であらせられると聞くぞ」


「それも、元は東夷の娘ではないか」


「だが、夫君はあの後白河院の懐刀。右中将頼朝様だぞ。これは、天下を巻き込んだ“平治の乱”なのではないか?」


「だとすると、此度は平家が落ちぶれる側か?」


「しぃっ! どこで禿童かむろが聞いておるかわからんぞ! ……ところが、そうとも限らんのだ」


「ほう?」


「後白河院も、平家に反感をもつ公達きんだち方も、清盛入道の怨霊を恐れて動けんらしい」


「どういうことだ?」


「死の間際に入道は“清盛死すとも悪鬼と化して平家の敵に祟らん”とおっしゃったという。後白河院は入道の御霊を鎮めようと必死で奔走しておられるらしい。とても平家を敵に回す気にはなれぬだろう」


「死せる相国、生ける院を走らす、といったところか」


「お、説三分さんごくしだな。はたして天下は誰の手に……だがまあ、わしらにとっちゃあ、今日の飯のが大事か」


「また米穀の値が上がっておるのう。宋銭で物が買えるのも、いつまでのことか……」



 そんな都の噂話を人づてに聞いて、病床の平重盛は思う。

 父、平清盛は、死してなお、平家を守ってくれていると。


 だが、怨霊を恐れるものばかりではない。

 その最たるものが、東の果て、坂東に居る。

 東の空を見ながら、重盛は、父に託された言葉を思い出す。



 ――北条政子。あの娘は、ボクの敵だ。だけど、北条政子の敵は……ひょっとして、ボクたちじゃないかもしれない。



 北条政子の敵は、果たして誰なのだろうか。


 想いを馳せながら、重盛は咳払いする。

 重盛の容体は、快方に向かっている。







 平清盛の訃報が坂東に伝わった、ちょうどその頃。

 坂東の首脳陣は伊豆国国府。政子の居る国司館に集まっていた。



「みな、よくぞ集まった」



 左右に坂東の首脳陣を並べて、政子は仏頂面で口の端を歪めている。

 見るからに不機嫌な様子に、木曽義仲きそよしなかが隣の足利義兼あしかがよしかねにそっと声をかける。



「……おい、義兼殿よ。あねさんはどうしちまったんだ? 凄まじく不機嫌だぜ」


「わかりませんが、平清盛の訃報を聞いてから、ずっと不機嫌で」


「そこ、うるさいぞっ!」



 政子が怒鳴りつけると、二人はあわてて頭を下げた。

 居並ぶ男たちが、それを見て背筋を伸ばす。

 その様を見やりながら、政子は頬杖をつく。



 ――人は、みな死ぬ。



 当たり前だ。

 ましてや平清盛は敵である。寿命もわかっていた。

 だというのに、政子は、恐ろしいまでの喪失感に苛まれていた。



 ――頼朝は、共に天下を語るに足る男であった。清盛は、天下を舞台にした対等な打ち手であった。



 その、どちらも。すでにこの世にない。

 北条宗時も義時も、藤九郎とて、政子と同じ視点は持てない。

 足利義兼は、かろうじて語るに足る人材だが、それとて頼朝の教えを受けて、政子の視点をなんとか想像できているにすぎない。



 ――そうか。



 政子は、ふと気づく。



 ――常に敵でありながら、あの男は、織田信長第一の理解者――斎藤道三さいとうどうさんのごとくであったか。



「……尼御台あまみだい様?」


「おお、すまぬ。ちと呆けておったわ!」



 声をかけられて、政子は笑う。

 その目には、紅蓮のごとき光が宿っている。

 場を圧する気に、慣れているはずの北条兄弟までもが息をのんだ。



「清盛は死んだ。そして畿内西国の飢饉は今年も続く。ゆえに動けぬ」



 この大飢饉は、後に養和ようわの大飢饉と呼ばれる。

 養和とは今年――治承5年7月から用いられる元号である。

 つまり現在の惨状は、これから起こる大飢饉の、前哨戦に過ぎないのだ。



「――ゆえに、まずは動けるほうを叩く。北陸の源義経よ」


「お言葉ですが、御台様」



 兄、北条宗時が口を挟む。



「我々も義経殿も、敵を同じくする身なれば、力を合わせてさきに平家を討つことに専心しては?」



 宗時の提案は、皆が思うところだった。

 政子の勘気にふれることを恐れて、疑問が解消されぬままに事が進むことを危惧した宗時の、あえての質問だろう。



「そうしたいところだが、色よい返事が来ぬ……まったく。わしのかわいい保子いもうとのどこが不満だというのだ……」



 義経との根本的な意識の齟齬がわかっていない政子は、不機嫌につぶやく。



「ならば、義経殿は北陸。我々は東海道、東山道から競って都に向かう――つまり、おたがいを利用しながら平家と戦ってはいかがです?」


「その場合義経を止める手段がない。飢饉の中、都に突っ込んで自滅するのが目に見えるわ。後々のことを考えると、彼奴等きゃつらは要るのだ。ゆえに、奥州藤原氏から切り離す」


「切り離す……ですか?」



 宗時は戸惑ったように疑問を呈す。



「義経殿が率いる兵は、ほとんどが奥州の者。奥州の主、藤原秀衡ふじわらのひでひらの息子たちも軍に加わっているようですが」


「すでに清――平家が離間の一手を打っておろう。やつらは後白河院を抱えておる。義経は後白河院の院宣を盾に兵を集めておったらしいが、藤原秀衡との関係が悪化したいま、新たな院宣は、義経への支援を拒む格好の口実であろうよ」


「そうすると、義経殿は孤立無援で越中えっちゅう国で足止めをくらうことになる、と?」



 宗時の問いに、政子はうなずかない。



「さて、それでも野心のある者、戦好きの武辺は残るであろうよ。厄介なことに、義経も為朝も、戦にはめっぽう強い」


「となれば、さらなる一手を……?」


「うむ――行家」


「ははあっ!」


 政子の呼びかけに、新たに騎下加わった新宮行家しんぐうゆきいえが、額をこすりつけんばかりに平伏しながら応じた。


 源頼朝の叔父で、源為朝の弟だ。

 八条院に仕えており、以仁王の反乱計画にも加わっている。

 乱以降、独自に動いていたが、情勢を見て政子のもとに馳せ参じていた。



「手段は任す。白山はくさんをぶつけよ」


「はっ。白山……で、ございますか?」



 白山――白山神社。

 比叡山に繋がる、北陸の巨大寺社勢力だ。

 後白河院の近臣と争った白山事件が記憶に新しい。



「義経らが北陸に蓋をすれば、延暦寺すら飢えかねん。奥州が義経支援の手を引けば、危機感はいや増そう。せいぜい煽れ」


「承知つかまつりましてございますっ!」



 甥の嫁というより、八条院の猶子という認識が強いのだろう。

 行家の言行は過剰なまでに丁寧だ。


 ひれ伏す行家に、うむ、とうなずいてから、政子は木曽義仲に視線を転じる。



「義仲。義経の暴発が坂東こちらに向くとすれば、矛先は信濃国ぞ。存分に備えよ」


「おうさっ!」


「義兼。奥州との交渉は任す。存分に脅して藤原秀衡に楽をさせてやれ」


「はっ! お任せを!」


「各地の武士のまとめは、これまで通りぬしらに任す。平家の圧力が減じたいま、統制のタガが緩む頃合いだ。みな、心して取りまとめよ。訴訟があればこちらに上げよ。あえて兵馬に訴えるような者があればわしが潰す。心せよ! とくに範頼のりより。小山の一党にはしつこいくらい釘をさしておけ!」


「はっ! 承知いたしました、義姉上っ!」


「それから、新たに馬廻りを募る。有望な者を選んで寄越せ。これからのことを考えれば、馬廻りが北条や伊豆の者ばかりというわけにもいくまい」


「ははっ!」



 つぎつぎに命令を下して、政子は左右に視線を送る。

 覇気は場を圧し、紅蓮の視線は豪胆な武人たちを威竦める。



「みな、覚悟せよ! これより我らが相手とするは天下ぞ! 平家を破り、朝廷に我らを認めさせ――我らの天下を勝ち取ってやろうぞ!」


「おおっ!」



 冷や汗を浮かべながら、一同が叫ぶように応じる。

 そんな中、兄の宗時は、もの問いたげな視線を、政子に向けていた。

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