四十三 比企尼
承安2年、春。伊豆国国府。
国司館に居る源頼朝の元に、ひとつの報せが舞い込んできた。
「一大事です、頼朝様ぁ!」
持ち込んできたのは、頼朝の従者、藤九郎だ。
目端が利き、教養もあり、度胸もある。
この信頼できる従者が取り乱すなど、尋常のことではない。
「どうしました、藤九郎?」
頼朝が尋ねる。
「――政子殿がまた問題を起こしたのですか?」
思いつくものといえば、それしかない。
なにせ政子があの性格である。
本人にその気はなくても、細かいいさかいは日常茶飯事だ。
その折衝役を藤九郎にぶん投げているので、彼では処理できない問題が起きたのだろうと予想したのだが。
「いえ」
藤九郎は首を横に振る。
「実は、ですな。義母上からぁ、先ほど報せがありまして」
「あなたの義母……
頼朝の乳母の一人である。
流人時代の頼朝に、十年間、欠かすことなく仕送りを続けただけでなく、娘婿の藤九郎を頼朝の従者とし、伊豆の大豪族、伊東氏に娘を嫁がせるなど、献身的に支援を続けた女性だ。
あたりまえだが、頼朝はまったく頭が上がらない。
「義母上は、その、頼朝様の嫁を検分したいと……それで、伊豆に来るということで……」
「ふむ」
頼朝は眉をひそめた。
結婚の折、彼女には文を送っている。
政子に関しては、伊豆豪族北条家の娘で、八条院の猶子、とだけ記して。
赦免とあわせて、良縁に恵まれたことを非常に喜んでくれたのだが……
「……政子殿は?」
「いつも通り、居所が知れません」
あらためて、現実を突きつけられて。
頼朝は天を仰いで嘆息した。
◆
その頃、北条政子がどこに居たのかというと、
伊豆国北条、
「うみゅ。やはり湯は気持ち良いものよ」
このところ、特に訓練が激しかった。
見かけ以上に丈夫とはいえ、幼い少女の体には負担がかかる。
だから、近場に温泉があるのを幸い、政子は時折湯治に来ているのだ。
「……しかし、伸びぬな」
しみじみと、政子はため息をつく。
すでに政子は十六歳である。だというのに見た目は童女のままだ。月のものも来ていない。
とはいえ、それは政子にとっては、まだたいした問題ではない。
頼朝にとっては大問題だが。
「せめて、もう
政子が忌々しげに両手をぶんぶん振りまわしていると。
「おや、先客ですかえ?」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、四十がらみの上品な女性が、ゆるゆると近づいて来る。
湯帷子を着ているところを見ると、目的は湯治だろう。
政子は従者を連れて来なかったので、知らずに入ってきてしまったに違いない。
「先客よ」
政子はあえて魔王オーラを抑えず、女に目を向けた。
べつに風呂がいっしょになったとて気にはしないが、湯の中で倒れられては面倒である。
それゆえ、わざと加減をしなかったのだが……予想に反して、悲鳴は上がらなかった。
魔王オーラ滾る政子に、かなり驚いた様子だったが、女はあらためて、にこりと微笑みかけてくる。
「おや、かわいらしい童でございますね。ご一緒してよろしゅうございますか?」
「……好きにせよ」
政子が言うと、女は政子の横に座り、湯に身を浸した。
しばし、たがいに無言で、湯に浸かる。
「それにしても」
ややあって、女が口を開いた。
「尋常の人じゃございませんな。何者でございますか?」
「わしか? 北条の修羅姫よ」
政子はそう名乗った。
伊豆で最も通りのいい名だ。
だが、女に動じた様子はない。
「ほ。自ら修羅と名乗りますのか。その資格は……あるようでございますが」
「わかるか?」
「わかりますともさ……あなた様が頼朝様の妻、政子殿、でございますね?」
「うむ。ぬしは?」
「
――
どうりで腹が据わっている、と政子は内心納得した。
女ながらに比企一族を指導して頼朝を援け、鎌倉幕府設立に尽力した女性だ。
この時代、女性の権力は強く、夫が先立った折には、家長として一族を率いることすらある。
「頼朝に会いに来たか」
「いえ」
政子の問いに、比企尼は首を横に振る。
「北条政子様。あなた様に、会いに来たのでございます」
「ほう……?」
政子は楽しげに口の端をつり上げる。
「わしに会ってなんとする」
「頼朝様にふさわしい女か、見極めようと思うてございます」
挑むように問うと、比企尼はそう答えた。
さらりと答えたようで、言葉には強い芯を感じる。
――どこまでも頼朝大事の人間、であるか。
政子はこういう人間が嫌いではない。
「シテ、どうか」
「破格にて、わたくしでは量れませぬ」
お手上げだ、というように手を挙げ――比企尼は、深々と頭を下げる。
「――頼朝様を、どうかよろしくお願いいたしまする」
「デアルカ。任された」
政子は笑って応じる。
「――頼朝は、わしの同志よ」
「それは、なによりでございまする」
比企尼も笑った。
◆
承安2年夏、摂津国福原、
近年整備された国際貿易港、
碁盤を前に、白黒二色の碁石を抱えて、清盛は涼やかに笑う。
「――これがボクだ」
乾いた音とともに、右上隅の高い位置に白石が置かれる。
「これが
「畿内、
盤面が白黒二色の石で埋められていく。
圧倒的に白が優勢。
だが、左辺から左下隅に来て、清盛の手がぴたりと止まった。
「……院も、はた迷惑な」
言って、左辺に黒石を打つ。
低い位置に、三間ビラキに置かれた黒石。
「伊豆守頼朝、北条政子――そして」
左下隅に、黒石が置かれる。
「藤原秀衡」
大勢力を示すように、黒石が並ぶ。
「盤面は白の圧勝、あえて喧嘩をすることはない。それぞれ辺地で小さく生かしてやれば、なにも出来やしない。でも、それじゃ面白くない」
清盛は笑う。碁盤の向こうに一人の少女が座る、あり得ない想像を楽しみながら。
「こんな手はどうだい?」
ぱちり、と。
清盛は、左辺の黒石を覗く位置に、白石を置いた。
◆
比企尼……源頼朝の乳母の一人。武蔵国に強い影響力を持つようになる豪族、比企氏の主導権を握る。難読字の塊みたいな猶子が居る。※比企能員
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