四十二 布石
嘉応三年、改元して
平清盛の娘、
着々と足場を固めていく清盛の動静を見守りながら、伊豆の政子は不機嫌だった。
清盛に関してではない。
平家の伸張は、歴史を知る政子には織り込み済みだ。
政子の不機嫌の原因は。
「奥州の弟――
頼朝が言った。
図星である。素直にうなずくのが癪で、政子はぷいと背を向けた。
奥州に行った義経の動向は、奥州の商人、
流人扱いではあるものの、奥州の主、
「おにょれぇ……」
誘いを蹴られたのも癪に障るが、義経たちをまんまと奪われたのは、輪をかけて腹立たしい。
「仕方ありませんよ。奥州に流罪、というのは、間違いなく後白河院の策です。おいそれと断れるものじゃありません」
「おにょれ。大人しくわしに任せておけばいいものを……」
「策の多さは不安の多さのあらわれでしょう。そう考えれば、私の昇進も、やはり早い」
先日、頼朝は従五位上に昇進している。
昇進自体は慶事に際したもので、特に不自然ではない。
摂関家や院の寵愛を受けた近臣のような、異常な出世とは言えないが、やはり、どこか後白河院の焦りを感じさせる。
「で、あるか」
不承不承、というふうに、政子はうなずいた。
「まあ、院もわかってらっしゃる。伊豆守はしばらく私で動きません。安心して足元を固めていられます」
「この上任地替えなぞされれば、反乱を起こしてやるわ」
「やめてくださいね? いまは、まだ」
「わかっておるわ」
物騒きわまる会話である。
ともあれ、いまは順風満帆の時だ。
外から見てもわかるのだろう。南坂東――源義朝の旧勢力圏の豪族たちが、ぽつり、ぽつりと挨拶に訪れ始めた。
流人時代に思いっきり冷遇してくれた
――いや、どう考えても許しておらんよな。
政子は思ったが、べつに経俊に興味はないので黙っておいた。
◆
さて、北条家は多忙である。
国司である頼朝の中核官僚として動いているので、当然といえば当然だ。
余裕のある長男、
「お兄様のことも、いたわってあげてくださいね?」
妹の保子は言うが、出来る人間を休ませておくほどもったいない事はない、という思考の政子が聞くはずがない。
父、時政はといえば、自分が一族から浮き上がっている現状をみて、さすがに焦りを覚え始めたのだろう。
絵空事のような放言はなりをひそめて、
――ふむ。ようやく家が、わしの望むように回り始めたか。
それが一年目の実感だった。
そして、年明けて承安2年の早春。
この日、野山を駆け回っていた政子は、北条屋敷で休息をとっていた。
「――農具のことが、うわさになってます」
と、声を聞いて、政子は顔を上げた。
気づけば弟、義時が、いつの間にか政子の近くで座っている。
「義時。居ったのか」
「いや、さっき来たところです! 来た時ちゃんと言いました!」
相変わらず影が薄い少年である。
とはいえ、それも善し悪しなのだろう。
義時は、いろんな所に気づかれずに潜りこんでは、様々な情報を拾ってくる。
――間諜に向いておるのであろうか?
などと思うが、将来の
ともあれ、義時は報告を続ける。
「姉上が改良した鋤、鍬、鎌なんかの農具、北条郷では好評ですが、それがうわさになって広まってます。うちでも使いたいってところも出て来るんじゃないでしょうか?」
「ほう? 早いな。興味を持ちはじめるのは、もう少し先と睨んでおったが」
「まあ、姉上が農具を作らせてるのは、みんな知ってましたしね。都の最先端の農具だと思っているのでは?」
北条家の人間は、政子が変なことをやりだすのはいつものことなので、慣れてしまっている。
「デアルカ。ならばよい。最先端、というのは間違っておらぬしな」
なにしろ四百年後の形である。政子自身、知っているのは外面だけだが、いろいろと便利になっているのは間違いない。
「
無茶な観測だが、頼朝ならばやる。
「いったい何なんですかあの方……」
「わしが聞きたいわ……まあ、商売に持っていくにはさらに5年……いや、3年で形にさせよう。
「いますっごい無茶言ってません?」
「その頃には
「あれも酷い無茶ぶりでした。兄上ちょっと涙目でしたし」
義時がしみじみと言った。
抗議はすでにあきらめられている。
「――まあ、意外と土が肥えるというので、手伝ってる民の方がやる気になってるみたいですけど。今年は、もう少し範囲を広げてやるみたいです」
「デアルカ」
政子はうなずくと、にやりと口の端をつり上げた。
地固めは順調に進んでいる。
――さて、たった一手の働きとしては、上々であろうが。
虚空に視線をやりながら、京の情勢に思いを馳せる。
天下の情勢を囲碁に擬するなら、頼朝や政子は後白河院が打った布石のひとつだ。
――それが、見えておらぬわけでもあるまい。動くか、それとも静観するか……どう出る、清盛?
挑むように、政子は心で語りかけた。
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