第9話 溢れ出した涙のわけは(2)
「待たせたな」
ポットがごとりとテーブルの上に置かれます。大神さんが持つには不似合いの、とても素敵なティーカップとソーサーも一緒に。
「……またレモンティーですか?」
「またってなんだ。好きだろう、レモンティー」
好きですけれど。
まあ、確かにあれだけごくごく飲んでいて、今さら「好きじゃありませんでした」なんて有り得ない話ですよね。……でも、昨日最後に飲んだレモンティーが、あまりにも苦くて。そのイメージばかりが、わたしの脳を揺さぶります。
「……わたしは」
「ん?」
「なんでも甘いほうが好みです」
「……なら、はちみつを入れるか?」
ええと。そういうことではないのですが……。
まあ、はちみつレモンティーもおいしそうなので、それはそれで。
こぽこぽと音を立て、ティーカップの中にレモンティーが注がれます。ほんのりとレモンの香りがしてきました。それから、とろとろのはちみつを入れて、掻き混ぜて。大神さんのカップにも、同じようにティーが注がれていきます。また、こぽこぽと、小さな音を立てながら。白い湯気がゆぅらゆらと立ち上っているのがうかがえます。……それ、ずいぶんと熱そうですね。
「大神さん」
「なんだ」
「今日はこんなにも暑いのに、どうしてホットなのですか」
わたしが首をかたむけてそう問うと、大神さんは目を大きく見開いてこちらを見てきました。焦げ茶色のガラス玉のような瞳が、わたしをしっかりとらえています。わたしも思わず見返しました。さあ、見合って見合って……。
……ああ、ほら、注いでいるレモンティーが溢れてしまいそうですよ。
指を差すと、大神さんはそれに気づいて慌ててカップに注ぐ手を止めました。ポットを持ったまま、再びわたしを見て問いかけます。
「……暑い、だと?」
「ええ、今日はとっても暑いですよね。まるで初夏の陽射しに照らされたみたいに」
堂々と首肯します。眉根を寄せた大神さんは怪訝な表情でわたしを見つめました。そしてゆっくりとポットをテーブルの上に置き、確かめるように訊き返します。
「……そんなことあるか。おまえ、今日の天気予報を見たか?」
「いいえ。見ていません」
「じゃあ知らないのか」
「なにをですか」
大神さんは半ば呆れたような口調で、わたしにこんなことを言ったのです。
「今日は今季いちばんの寒さだぞ?」
ええっ。そんな、まさか。
思わず口もとを押さえました。だってわたしはこんなにも暑いのにですよ。今日が今季いちばんの寒さ……ですか? またまた、冗談ばかり言って。有り得ませんよ。わたしなんて暑さのせいで、頬はぽうっと熱いし、頭もぼーっとするしで、寒さなんてまったく感じないのですよ? 春を飛び越して夏のような暑さだなあと思っていたくらいです。なのに寒いだなんてそんなこと。
「これ、酒じゃないよな……?」
ポットの中の匂いを犬のようにくんくんと嗅いでいる彼に、それを作ったのはあなたでしょう、とツッコミをいれてあげたくなりました。だいたいまだそれ飲んでいませんからね、わたし。
――それにしても。
ああ、なんだかふわふわした気分になってきました。大神さんに会ったからでしょうか。まだ謝ってもいないのに、わたしってばダメですね。
うん。けれど、なんだか嬉しいのです。だってもう会えないとすら思っていましたから。
だから、こうしてお話しできるのが、本当に、本当に嬉しくて。
そう思うと、なんだか……。
「う」
あ、ダメです。
「うう」
いけません、いけませんってば。
「ううう」
……ああ、もう、こらえきれません。
「ううううー……」
「おまえ、さっきからなにを唸って――って!」
なんでしょうね、これ。
……なぜか、涙が溢れて、仕方がないのです。
「な、なにを泣いて、え?」
「だ、だって、だって」
両手で目を必死にこすりながら流れる涙を止めようとします。けれど、そんなことをしたって止まるわけはありません。ただただずっと、ぽたり、ぽたりとテーブルに雫を落としていきます。
「わたし、寂しかったです。悲しかったです。大神さんにはもう、一生会えないと思っていました」
困ったような、驚いたような、そんな表情で大神さんはわたしを見ます。眉尻が下がっていて、情けない顔にも見えます。それでも……。
それがなんだか、今はとってもいとおしく感じます。
「『もう会えなくてもかまわない』なんて、そんな冷たい言葉でわたしを突き放さないでください。痛いです。苦しいです。どうしていいかわからなくなってしまいます」
大神さんは小さく口を開いたあと、なにも言わずにかたくくちびるを結びます。少しだけ、テーブルの上のこぶしが震えているように見えました。
わたしはまだ、喋ることをやめません。
「あのときわたしはどうすればよかったのですか。笑えばよかったのですか。怒ればよかったのですか。いまだに、その答えが見つかりません」
わたしはまだ、人生十七年しか生きていません。けれどあなたは、わたしより八年も長く生きています。そのあいだいろんなことがあったでしょう。悲しいことも、つらいことも。嬉しいことも、楽しいことも。学んだことも、数えきれないほどにあるのでしょう。
だから、あなたならわかるはずです。
「教えてください、大神さん」
あのとき、触れようとしたわけを。
そのとき、冷たい態度をとったわけを。
今このとき、とめどなく流れる涙のわけを。
あなたなら、全部知っているはずです。
大きな手がゆっくりと差し伸べられます。わたしの髪を撫でようと、おそるおそる近づいてくるのです。けれど、その手はわたしに届きません。触れることなく、またゆっくりと、大神さんは手を引きました。
嫌です。ダメです。
「行かないでください」
大神さんが息をのむのがわかりました。
だけど、わたしは自分を止められません。
行かないでください、どうか、どうか。わたしは霞む視界の中で腕を伸ばし、あたたかな彼の左手を見つけだし、優しく両手で包みました。わたしのほうが体温が高いのでしょうか。大神さんの手は、少しばかり冷たく感じます。
わたしは、その手を自分の頬へとあてがいました。重ねるように、そっと。
「ねえ、大神さん」
わたし、あなたと出逢った瞬間から、なんだかちょっとおかしいです。どきどきしたり、わくわくしたり、ふわふわしたり、ずきずきしたり――。まるでなにかの病気にかかったみたいに。
これっていったい、なんなのでしょうか。
この感情は。
この思いは。
これって、もしかして……。
「わたし、あなたのことを――」
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