7. 優しい思い出
「えっ!!」
正直に驚きの声を上げた自分に、目の前の同僚は赤い顔を更に赤く染めて、頭を掻いた。
「……急にそんなことを言われても……」
戸惑うエルゼに、アッシュが謝る。
「やっぱり急過ぎたかな……ごめん。エルゼがあんまりモテるから心配になって……」
しどろもどろの口調で取り繕う彼に思わず苦笑する。
「大丈夫よ。私、当分……ううん、誰とも付き合わないつもりだから」
ようやく身分差にも慣れた砕けた口調で答える「えっ!!」今度はアッシュが驚いた顔でこちらを見た。
「……もう、恋人はこりごりなの……」
瞳が後悔に震えそうになるのに気付いて、目を伏せる。
「……そう」
アッシュは残念そうに呟くと、いつも優しい笑顔で彼女に笑い掛けた。
「解った。無理に考えなくて良いよ。……でも、オレが君のこと好きなのだけは心に留めて置いて貰えるかな?」
「ええ……」
申し訳ない思いで頷く。そんなエルゼにアッシュは小さなバスケットと水筒を渡した。
「これ、何?」
「お弁当。エルゼ、これから術士の特別訓練を受けにいくんだろ」
「ええ」
アッシュは料理好きで、本当に上手い。それは今まで班に所属してから、モウンや玄庵と何度も彼の部屋でご馳走になって知っていた。
「……ありがとう」
礼を言って受け取ると、顔が赤く染まる。
「頑張って!」
「はい」
アッシュが赤い顔のまま、じゃあと手を振って帰る。
エルゼは微かに胸を過ぎる、久しぶりに感じる甘酸っぱい思いに戸惑いながら、お弁当を手にデスクから立ち上がると訓練場へと向かった。
晩秋の昼前の暖かな日が、ここ数日の雨風で、すっかり葉を落とし、冬芽を付けた木々に囲まれた離れに差し込んでいる。その日溜まりで、まるで胎児のように丸くなって眠っていたエルゼは、ふと側を通った気配に目を開けた。
「ごめん、起こしてしまったかい?」
身を起こすと、ケヴィンが申し訳なさそうにこちらを見ている。
畳の上で眠っていたエルゼに毛布を掛けて、開いていたガラス戸を閉めていたらしい。
「日は暖かいけど、風が冷たいから」
「いいえ、私こそ、また寝てしまって。この頃、本当に眠くてしょうがなくて……」
モウンに自宅謹慎を命じられて二週間。エルゼは、ずっと家事をしつつ、家に籠もる日々を過ごしている。
「……何か良い匂い……」
流れてくるシナモンの匂いに周囲を見るとエルゼが術式を書くのに使っている、木目の美しい文机の上に大振りのカップが乗っていた。
「これは?」
「エルゼに持ってきたんだけど」
ケヴィンが軽くウインクする。彼女はカップを手に取った。琥珀色の液体が入っている。器からはツンと香るシナモンの他に濃厚な甘い香りもしていた。
「シナモンティー……ですか?」
エルゼが探るようにケヴィンを見る。
「味は保証するよ」
笑うケヴィンに、カップに口を付けた。確かに彼は、時々とんでもないモノを作るが全て美味しい。同じく料理を趣味とし、プロ顔負けの繊細で完璧な料理を作る、長兄エドワードが『これを天才というのだろうな』と感心していた。
シナモンと紅茶の味の中に、もう一つ癖のある力強い甘みを感じる。
「……黒砂糖……ですか?」
「当たり」
ケヴィンは微笑んだ。
「……美味しい」
ゆっくりと味わう。身体の奥に凝り固まっていた疲れが溶けていくようで、エルゼはほっと息をついた。
「何か良い夢見てた?」
ケヴィンがエルゼの横にあぐらをかいて座る。
「ええ、ちょっと……アッシュと付き合う前の夢を」
あれはハーモン班に入って半年、初めてアッシュに告白された夢だ。バッドとのことがあって、恋愛にひどく臆病になっていたエルゼは思わず断ってしまったが、それからもアッシュは優しく、エルゼが再び恋が出来るようになるまで辛抱強く好きでいてくれた。
「……そっか……」
義妹の話にケヴィンが笑む。
「……でも、今更ながら思うんです。よく、ブランデル公爵家がサキュバスの私を認めてくれたなぁって」
「あ――、悪いけど、一応、エルゼのことは調べさせて貰ったよ。あの当時、アッシュはまだ破壊部隊の心の傷を引きずっていて精神安定剤に頼っていたし」
ケヴィンがバツ悪そうに頭を掻く。夢の中のアッシュと同じ仕草、同じ顔をする彼に、エルゼは吹き出した。
「知ってます。アッシュが教えてくれました」
隠されることで、彼女がまた傷つくといけないからと、彼は全部教えてくれた。
「義姉さんと会ったの覚えてる?」
「ええ、エディ義兄様と一緒に。義兄さんのお店で」
下町の小さな喫茶店を、物珍しそうに眺めていた公爵夫人が注文を取りに来たエルゼを一目見て『アッシュには、もったいないほどの良いお嬢さんだわ』と微笑んだのを覚えてる。そういえば、その後から、露骨には出さないものの、どこか自分を探っていたエドワードの視線がとても優しくなったのも。
「義姉さんはうちの『守り神』だから。その義姉さんが『良いお嬢さん』って言ったら、本物の良い娘さんだからね」
調べているうちにエルゼの悪い噂が出てきたときも、マールは『あの子が、そんなことをすることなんて絶対に無いわ』ケヴィンにもっと詳しく調査するように勧めた。そして更に調べたところ、悪い噂がエルゼの前の恋人が、彼女から職を奪う為に流したものと解ったのだ。
「そのバッドについてだけどね」
ケヴィンは、エルゼに一言一言、言い聞かせるように口にした。
「実は死亡したと言われているが、死体が確認されてないんだ」
「えっ……」
「雇われ先の令嬢を妊娠させるなんて、重罪を犯した場合、死体は見せしめとして晒されるのが普通だ」
死んで尚、屈辱を与える為に。そして領民に、領主に手を出せばこうなるのだと知らしめる為に。
「それがバッドには無かったらしい」
ケヴィンはさっきまでの陽気な笑みを消し、真剣な顔で告げる。
「もしかしたら、彼は死んでない可能性もある」
……じゃあ、やっぱりあれは……。
本物の生きているバッド。エルゼはぐっと手を握り締めた。
「オレの方で更に調べを進めておく。とにかく、今エルゼには、バーン家の次期当主とバッド、二人の敵がいるかもしれないことを頭に置いておいて欲しい」
「はい」
「じゃあ、オレはお昼の支度があるから」
ケヴィンは、エルゼの飲み終えたカップを持つと離れを出て行った。
ふう……。離れから母屋に向かう廊下の途中で、ケヴィンは大きく息をついた。
「あの様子だと、仕掛けは床下かな?」
微かに離れに漂っていた力の波動に顔をしかめる。
「エルゼは多分、無意識に気付いている」
この頃、よく眠るのは術士としての防衛本能が働き、無意識に抵抗している疲れの為、そして……。
「精神の安定を保つ為に選ばれているのが、アッシュとの思い出か……」
少しは落ち着いたものの、相変わらず落ち込み気味の弟の情けない顔を思い返して笑う。
「愛されているじゃないか」
しかし……。
「肝心のアイツが気付いてないとはね」
我が弟ながら情けない。深く溜息をつく。
「いくら、自分の強過ぎる力が邪魔しているからといって……これが兄さんだったら、とっくに『この愚弟が!!』と殴られているぞ」
ケヴィンは苦笑を浮かべると、やれやれと首を振り母屋へと歩いていった。
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