5. すれ違い
海辺の美しい街並みを燦々と夏の眩しい日差しが降り注ぐ。自分達が住む街の近くにある高位貴族の避暑地を、師匠の使いを終えたエルゼは歩いていた。真っ白な石が積まれて出来た家々。所々には南国の大きな葉を持つ木が植えられ、テラテラと夏の光を弾きながら海風に揺れている。
小麦色の肌によく似合う白いサマードレス、シンプルに布を縫い合わせただけの服だが、彼女のはつらつとした顔立ちと肢体にこれ以上はないほど似合っている。つば広の麦わら帽子を被り、大きな編みバッグを肩に掛け歩く姿は、まさに夏の化身といっても良い美少女だった。
その顔が曇る。通りの小道から身なりだけは良い男が二人出てくる。二人は品定めをするようにエルゼを舐めるように見た後、にやりと笑った。
「サキュバスか……」
それだけで自分達のモノであるかのように、笑いながら近寄ってくる男達にエルゼが顔を強ばらせて後ずさる。そのときバサリと翼が風を切る音がした。
「エルゼ!!」
バッドが黒い烏のような翼をはためかせて、やってくる。
両手を突き出す。途端に白い石畳の道に鋭い風が吹き抜けた。風に服を切られ、男達が焦る。
その隙にエルゼも呪文を唱える。風が更に舞い、周囲の乾いた砂や小石を巻き込んだ。男達が両腕で顔を覆う。
「バッド!!」
彼女も蝙蝠の翼を広げ、空に舞い上がる。術が治まらないうちに、急いで逃げる。自分達の街の上空まで来て、二人はようやく息をつき、スピードを緩めた。
「助けに来てくれて、ありがとうバッド」
「恋人として当然だよ」
バッドが逞しい笑みを返した。
「まただわ……」
深い溜息が、まだ夜が明けやらぬ部屋に流れる。
「一体、どういうことなの……」
さっき夢に見た一件で、また一段とバッドを信じるようになってしまったエルゼは書き溜めておいた大事な術式を全部、彼に請われるまま見せてしまった。それを彼が写し取り、彼の実力では到底なれるはずが無かった上級術士の試験に合格したのだ。
後で知り、愕然とした彼女に彼はいけしゃあしゃあと言った。
『見せた方がバカだ』
唇を噛んでうつむく。忘れていた傷の痛みが胸をえぐる。
……あれは本当にバッドなのかしら……。
昨日夕刻見た、彼の姿を思い浮かべたとき「エルゼ……」隣でアッシュの声がした。
「どうしたんだい? もしかして昨日のケヴィン兄さんの話が気に掛かる?」
優しい赤金色の瞳が自分を見つめる。バッドのものとは違う、優しさを装うことなど出来ない真っ直ぐな瞳。
「ええ、ちょっと……ね」
なのに、また戸惑いと忘れたはずの黒い疑念が渦巻くのを感じながら、エルゼは小さく微笑んだ。
「ごめん」
逞しい腕が彼女を抱き寄せる。
「こんなことにエルゼを巻き込んで」
「……ううん。大丈夫よ」
腕が力を込めて彼女を抱く。エルゼの胸の痛みが更に強くなる。それを打ち払うように彼女は彼の胸に顔を伏せた。
黒い髪を赤い手が撫でる。恋人をしっかり抱き締めながらも、アッシュも浮かぬ顔のまま眉根をそっとひそめた。
カタカタカタ……。座卓の上に置かれたノートパソコンのキーボードが鳴る。今日は昼から講義の正樹は赤い指が十本、軽快に走るのをおかしそうに見ていた。
「魔族って器用なんですね」
「オレの場合、アッシュとシオンに教えて貰った、付け焼き刃だけどね」
ケヴィンは画面を見ながら答えた。
画面には、出会い系サイトが開いている。そこにはサイトに登録している男のHNがずらりと並んでいた。それを見ながらケヴィンは死神が自殺した二人の女性から聞き出した、男のHNを入れては検索していた。
「オレは力が無いから、捜索には加われないしね」
「どういう意味ですか?」
正樹が不思議そうに聞き返す。「オレは落ちこぼれの次男坊なんだよ」 ケヴィンは玄庵が持ってきたお茶を礼を言って受け取った。
「アッシュとは反対にブランデル家の者としては、余りに火の力が弱過ぎるんだ」
『火の王』を名乗るに相応しい力と、抜群の制御力を持つ長兄、強大な力を持つ末弟に比べ、ケヴィンはサラマンドラ族の最低ラインにようやく届くくらいの力しかない。彼は小さく息をつくと茶を啜った。
「高位魔族の家系といえども、常に一定の力を持つ者が産まれてくるわけではない。アッシュのように並外れた強い力の者が産まれてくることもあれば、ケヴィン様のように並外れた弱い力の者が産まれてくることもあるんじゃよ」
『術』の一族の長老の言葉に、思わず苦笑する。
「そう、だからオレはみそっかすの次男として、兄さんやアッシュと違って過激派からも相手にされなかったんだ」
「それって辛くないですか?」
正樹の問いに、ケヴィンは肩を竦めた。
「小さい頃はね、そりゃあ辛かったさ。何かというと力のことを言われて、嘆かれたり、バカにされたからね。家族は絶対しなかったけど、やはり一族は第一種族としてのプライドが高かったからね」
また男のHNを入れて、enterキーを押す。
「でも、オレを『オレ』として見てくれる人がいたから」
勿論、家族と幼馴染の兄嫁はそうだったが、ケヴィンは学生時代にもう一人、そんな少女と出会った。
『今度の魔法薬学の試験、絶対に負けないから!!』
いつも自分と学校の勉学でトップを争っていた少女。ライバルとして、ケヴィンの魔力以外の才能を認めていた彼女が卒業後、秘書として就職先を探していると聞いて、みそっかすの次男の遠慮で親に頼み事をしたことの無いケヴィンは、初めて父に頼み込んだ。
『あの子をオレの秘書にして欲しい。その代わり、オレ、父さんと兄さんを助けて公爵家の管理をするから!』
今思えば本末転倒だが彼女に助けられ、公爵家の領地の管理や雑事をやっているうちに、ケヴィンは自分はそちら方面の仕事に向いていることを知った。
「その子は、今もケヴィンさんの秘書を?」
「ああ。今はオレの奥さんと秘書を兼任しているよ」
ケロリと笑うケヴィンに正樹も思わず微笑む。
ケヴィンがパソコンの画面をスクロールして呟く。
「ここにはいないか……」
新しい出会いサイトを開いて、ふと思いついたように顔を上げた。
「玄さん、エルゼは?」
「エルゼなら部屋にいると思いますがの」
彼女には朝食の席でアッシュが口を酸っぱくして、捜査は自分達がするから家から出るなと言っていた。
「……あの二人が少しおかしいのはいつから?」
新しいサイトに再び男のHNを打ち込みながら、ケヴィンがぼそりと訊く。
「……気づかれておられましたかの」
玄庵が赤茶色の瞳をひそめる。
「……班長と玄さんがあえて放置しているのもね」
「……さすがは『火の王の懐刀』」
玄庵がケヴィンの魔界での、もう一つの呼び名を口にする。
「アッシュはともかく、エルゼには術士として越えて貰わねばなりませんのでな」
自分からモウンに無視してくれるように頼んだのだと玄庵は言った。
「玄さん……」
二人の会話に、正樹が戸惑う。
「正樹、お前さんも気にしないふりをして、気付き始めている優香を頼むぞ」
「……二人への試練ってことかな?」
ケヴィンが呟いてenterキーを叩く。
「見つけた」
ケヴィンの赤金色の瞳がパソコンの画面を睨み付けた。
「師匠!! それは、どういうことなのですか!?」
エルゼの悲鳴にも似た叫び声が、師と弟子、三人が暮らしている家のリビングに響く。リビングのソファで彼女の淹れたお茶を飲みながら、自分宛にきた手紙を開封していた師は小さく首を横に振った。
「どういうことって、そういうことだよ」
師が真っ白な便箋を彼女に渡す。隅に領主の家紋が箔押しされた便箋には、近々エルゼが勤めるはずだった、領主の娘の家庭教師の仕事を断る文面が書かれていた。
「……そんな……」
ようやく決まった仕事。義兄と師が探しに探して、見つけてくれた仕事が断られ、手紙を持つ腕が落ちる。
「……どうしてなんですか?」
「誰かが、エルゼの根も葉も無い悪い噂を領主の耳に入るように流したらしいね」
師が深く溜息をつく。
最近、妙な男に絡まれたり、自分を見る近所の人の目がおかしかったのは、そのせいだったのか。思い当たる節にエルゼは唇を噛んだ。
「正直、若い娘には聞かせられないような噂だよ」
師が重い口を開く。それは多分エルゼの気持ちを考慮した、中でも軽い噂だったのだろう。しかし、それでも彼女の心を打ち砕くには十分な破壊力だった。
エルゼが一緒に暮らしている弟弟子だけでなく、近所の男と老若問わず関係を持ち、しかもその卑しい姿が多数目撃されている。そんな話を下賤なポルノ小説ばりの描写で言いふらされていると知って、まだ男性経験の無いエルゼの顔から血の気が引く。ふらふらと倒れそうになった彼女を、師が隣のソファに座らせてくれた。
「領主様の御指名は花嫁修行中の娘にふさわしい、身の堅い術士だったからね」
それで噂を聞いた領主が、師の推していたエルゼに断り状を送ってきたらしい。
「エルゼ、これは言いにくいんだけど……」
師がためらいながらも話し出した。
「術士の請負も、ある意味、人気商売だからね……」
暗に出て行ってくれと言われていると気付いて、更なるショックに目の前が暗くなる。
「すなまいね……」
詫びる師にエルゼは顔を上げると、気丈に立ち上がり、頭を下げた。
「今まで、本当にお世話になりました」
晩秋らしい雲に覆われた鉛色の空。出勤通学の人々の途絶えた街は、アーケードに設置されたスピーカーから、クリスマスソングが流れている。
部屋にいると息が詰まりそうになる不安から、こっそり出てきたエルゼは冷たい木枯らしが通りを吹き抜ける中、痛い過去を思い返して息をついた。白い息が風に飛ばされていく。
あの後、王都の下町の姉夫婦の店に逃げるように帰ったエルゼは、喫茶店の常連の耳聡い客から、バッドがエルゼのつくはずだった職についたことを知った。
あのポルノ小説まがいのエルゼの噂を流したのは、実力以上に良い職場につきたかった彼だったのだ。
『浮ついた恋心と引き替えに、私は三十年間、頑張ってきたこと全てを失ったの……!!』
恋人の更なる裏切りに嘆き悲しむ妹をジゼルが必死に慰め
『それでもお前の術士としての技術が失われたことにはならないだろう?』
ブライが知り合いを通じて、自分を魔王軍の魔術士部隊に新兵として入隊させてくれた。そして新兵の訓練に慣れ始めた頃、彼女はバッドが仕えていた領主の娘を妊娠させ、激怒した領主に水牢に放り込まれ死んだと聞いたのだ。
『因果応報だな』
休日に宿舎から店に手伝いにきた義妹に、ブライが溜息混じりに教えてくれた。
娘さんの方は婚約を破棄された後、家臣に降嫁されて、生まれた二人の子供は使用人の子として遠方に養子に出されたらしいけど……。
本来は侯爵夫人として将来が約束されていた娘と、その子になるはずだった子供にはむごい処分だ。
そのバッドが生きていた……。ゾクリと背筋に寒気が走る。
昨夜、バッドを見掛けた雑居ビルが見えてくる。開店に少し早いビルの周辺は人気が無い。エルゼは、その前に立つと目を閉じた。コートのポケットの中で印を結び、口の中で探索術の呪文を唱える。慎重に昨夜会ったバッドの魔気が残ってないかを探る。通りを抜ける木枯らしが彼女の黒い髪を揺らし、ゆっくりと透明な渦が周囲を回り始めたとき
「エルゼ!!」
突然掛けられた大声と鮮烈な火気に、エルゼは思わず術を解いた。
「どうしてここに!!」
向こうのアーケードから、通りを斜めに渡ってアッシュが駆けて来る。彼は、彼女の前に息を切らせて立つと穏やかな顔をしかめた。
「家にいるように、あんなに注意しただろう!!」
常にない大きな声を浴びせられる。
心配故の声に、いつもなら素直に恋人に謝るはずのエルゼの瞳が揺れた。
容姿も性格も声も似ても似つかぬはずなのに、何故かエルゼの脳裏に甘い恋人としての笑顔から一変、自分を嘲笑うバッドの顔が浮かぶ。
「とにかく、君は狙われているんだ!! さあ、一緒に帰ろう!!」
アッシュがエルゼの腕を掴む。
「……いや!!」
思わずエルゼは腕を払いのけた。
「……エルゼ……」
思ってもみなかった反応にアッシュの瞳が驚きに赤金色に戻る。エルゼは瞳を震わせたまま、ただ呆然と彼を見ていた。
「……私、何を……」
ぽつりと呟き、突然、身をひるがえし走り出す。
「エルゼ!!」
「来ないで!!」
悲痛な響きを帯びた声が返り、アッシュは走り出そうとした足を止めた。
エルゼの姿がアーケードの奥の狭い路地に消える。はっと気を取り直して慌てて追う。だが、バサリと空気を打つ音がして、黒い蝙蝠の翼を広げた彼女はビル街の上空へと姿を消した。
「……エルゼ……」
アッシュはぐっと拳を握ると大きく首を振って、スマホを取り出した。自分と同じく、今、この寒空の下を魔族の捜索に出ているモウンとシオンに、エルゼを見つけてくれるようにメッセージを送る。
「……エルゼ……」
このところ彼女は確かにおかしい。
『……バッド……』
ここ数日、彼女が夜中に寝ていて、隣で口にする昔の恋人の名が耳に響き、アッシュは思わず沸きそうになる焦がれるような思いを打ち消した。
『……もう、恋人はこりごりなの……』
自分が出会って半年後に彼女が好きだと告白した後、断った彼女が目を伏せて言った言葉を思い出す。
そう、彼女の前の恋人は本当に酷い男だった。後から教えて貰ったが、クズのような男だった。その男につけられた傷のせいで、それから何年も自分がずっと彼女を思い続けていたにも関わらす、なかなか受け入れて貰えなかったほどに。
……なのに……どうしてなんだ……エルゼ……。
ギリ……奥歯が鳴る。
アッシュは、握り締めていたスマホから滞在中用に、兄ケヴィンに渡したプリペイドのスマホに電話を掛けた。
『どうした? アッシュ』
コールの後、次兄の声が聞こえる。
「ケヴィン兄さん、悪いけど少し調べて欲しいことがあるんだ」
『何をだ?』
公爵家当主名代として領土を管理しているケヴィンは広い伝手を持っている。そして『火の王の懐刀』という別名を持つように、彼は探索事を得意としていた。
「バッドという男について。ケヴィン兄さんも知っている、エルゼの前の恋人だよ」
『………解った』
しばらく沈黙があった後、ケヴィンの答えが返る。
「エルゼ……」
通話を切る。アッシュは彼女に拒否された右手を見詰め、深く息をつくと彼女の消えた方角へと歩き出した。
夕刻、小粋なカフェのテーブルでコーヒーを飲んでいた次期当主の男の脇に現れたのは、大人しげな黒髪の女だった。会社帰りらしい、紺のスカートに黒のタイツ、ベージュのだぼっとしたコートを羽織った女は「すみません」と、おもちゃ……もとい恋人が現れず、戸惑いを浮かべている男に謝った。
「彼女の同僚の友人です。彼女にこれを渡すように頼まれました」
女は男に淡い緑色の封筒を渡した。
中にはシンプルな横書きの便箋が入っている。そこにはおもちゃ……恋人の字で、母が倒れたので、その看病に遠方にある実家に帰るということが、くどくどと書かれていた。
男の顔が不機嫌に歪む。カフェのテーブルに封筒と便箋を投げ出す。
「……では、私はこれで……」
女が身を返し、カフェを出て行く。その後ろ姿をじっと見送って、男はニヤリと笑った。
「ちょっと待ってくれ」
レジでコーヒーの代金を払い、足早に女を追い掛ける。
「これも何かの縁だ。食事でもどうかね」
女の前に回ると、この手の地味で男と付き合ったことの無さそうな気の弱い女がよく落ちる、優しげな笑みを浮かべた。
「……え……」
女が戸惑いつつも「……結構です……」と断る。
それに
「困ったな……」
男は心底困った顔をしてみせた。
「実はレストランを予約してるんだ。一人で行くわけにも行かないし、今からだとキャンセル料も掛かる。すまんが、助けると思って……」
暗に君があんな手紙を持ってきたから、困っているのだと匂わせる。はぁ、はぁ、と返事を返す女に、男は自分の加虐心が動くのを感じながら、やんわりと攻めた。
「……解りました。食事だけなら……」
女が頷く。
男は内心口笛を吹くと、暮れ始めた街を女と歩き出した。
クリスマスカラーに飾り付けされた、ショーウインドウの前を、仕立ての良いスーツとコートの男と、地味な黒髪の女が通り過ぎる。
一瞬、ウインドウのガラスに、女の真っ直ぐに揃えられた前髪の下の金色の猫の瞳が映った。
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