恐怖

 コンコン……。控えめなノックの音が分厚い豪奢な扉の向こうから聞こえる。

「入れ」

 ベッドから身を起こすと端正な顔立ちの男は鷹揚な口調で扉の向こうに命じた。気だるげな顔で隣に横になっている女に「帰れ」と追い払うように手を振る。

 音も無く扉を開けて入ってきた彼の執事は社交界で名を馳せる美女が、薄物一枚で通り過ぎる姿にピクリとも眉を動かさず、クローゼットからガウンを取り出すとベッドへ向かった。乱れたベッドに座ったままの裸の男にガウンを着せる。

「アレでは治まりませんか?」

「ああ」

 執事は棚からワインを出すと静かにボトルからディキャンダに移した。

「ヤツはどうなった」

「ボリス様の裁定で少年監獄に送られました」

「ボリスめ、残り少ない当主代理の権限を、ここぞとばかり使っているな」

 男が喉を鳴らす。執事は澱がディキャンダの底に降りたのを見て、グラスにワインを注いだ。盆に乗せ、一礼して男に差し出す。男はグラスを受け取ると口に運んだ。

「例の冥界と通じる娘は解ったか?」

「いえ……たぶん、再従弟様の記憶が一部消去されているようなので、知ったとは思われますが、それを消したのが玄武一族の元長老故、記憶の復活はまず不可能かと……」

 男が忌々しげに舌を鳴らす。

「申し訳ありません」

 執事は深々と頭を下げると「代わりに……」と男に鈍色に曇った小さな玉を渡した。

「軍の懲罰委員の手の者が、再従弟様の異界での記憶をコピーしたものです」

「うむ」

 男は空いている手で玉を受け取ると、立ち上がり窓辺に立って額に押し当てた。

 男も良く知るミノタウロスの男に、亀魔人の老爺の姿が脳内に映し込まれる。『水の王』アルベルト・グランフォードのお気に入りだというレッドグローブの少年兵に、再従弟の術を力を借りてとはいえ、一発で破ったサキュバスの術士。そして、白い軍服に白いマントをひる返した、若いサラマンドラの男の姿が飛び込む。その男の発した鮮烈な火気に、それまでふてぶてしい笑みを浮かべていた男の顔が強張った。

 心に深く刻まれた火気と、よく似た火気に男の瞳に怯えが走る。逞しい長身の体躯がぶるりと震える。男はワインがまだ入ったままのグラスと鈍色の玉を床に投げ捨て、両手で自らの身体を抱き締めた。

 

 

 柔らかな雲の浮かんだ青い空から、うらうらとした春の日の光が差し込む。蔓薔薇の美しく咲いた、高位貴族の少年少女が学ぶ学園の中庭を、男子寮のサロンからベヒモス族の少年が眺めていた。

 黒い髪がゆるやかにカールした、端正な顔立ちの美少年だ。サロンの一番眺めの良いソファに気だるげに腰掛けた彼の脇には、学園でも美しさで一、二を争う女子部の少女がはべっている。周りのソファには、それぞれに少女を連れた彼の取り巻き達が座っている。彼等は昼間から彼女達の身体を撫で回し、サロンは甘い嬌声で満ちていた。

 本来、男子寮は女子禁制。しかもサロンは昼間だろうが夜だろうが、こんな醜態を晒して良い場所ではない。だが、彼に関しては誰も、教授さえも止めようとはしなかった。今や、魔王すらも凌ぐ勢力を持つ『土の王』を祖父に持つ、彼の権力は学園では絶大だ。学園長も彼には逆らうことが出来ない。

 その少年の眉が微かに曇った。中庭に人影が一団入ってくる。自堕落な彼等とは違い、週末の休日を自主的に勉学や訓練に励んできたのか、分厚い本や剣を手にした少年少女達だ。彼等は背の高い凛々しい顔立ちの少年を中心に歩いている。その少年を見たとき彼の顔が歪んだ。

「エドワード……」

 彼と同学年の生徒、火の一族の第一種族サラマンドラ族の総統ブランデル公爵家の世継ぎ、エドワード・ブランデル。

 品行方正、すらりとした長身で容姿にも難一つ無く、成績は優秀で学業、スポーツ、武術から、馬術、礼儀作法、ダンスに至るまで、全て学園一の成績を納めている。そのせいで少年は全てに置いて彼の二番手に甘んじてきていた。

 その『火の若君』、『完璧過ぎる世継ぎ』と呼ばれているエドワードが友人達を連れて歩いて来る。ここは身分が高い貴族の子息、子女ばかりが通う学園だが、その中でも選り好みして、より身分の高いもの、見目麗しいものしか相手にしない少年に比べ、エドワードは自身の切磋琢磨になるなら人を選ばない上、三兄弟の長兄のせいか面倒見も良く、自然に人が集まってくるのだ。

 自分の周りで談笑しながら歩いている少年少女を、エドワードが優しい笑みを浮かべて見ている。その横顔に「素敵……」少年の横にはべっていた少女がうっとりと呟いた。少年は少女を引っ叩いた。そのままソファから蹴り落とす。悲鳴と共にゴロゴロと床に転がり落ちた少女を見て、取り巻きの少年達が彼の怒りを納めようと、わらわらと集まってきた。

 

「そういえば、この前のエドワードの婚約披露パーティに行きましたか?」

 少年同様エドワードを快く思わない者達が、最近良く口にする話題を集まった少年達が口にする。それぞれの属性の第一種族ともなると、強い魔力を次世代に継ぐ為、子供、下手をすると生まれる前から将来の結婚相手が決められるのが常だ。彼等は親や一族に決められた相手と婚姻を結び、子を成すと、後は義理は果たしたとばかりに双方とも幾人もの愛人を作る。

 だが、ブランデル公爵家と、水の一族の第一種族クラーケン族の総統家グランフォード公爵家は、家訓で総統家の者とその配偶者に関しては一夫一妻が義務付けられていた。

 ブランデル公爵家は遠い昔、世継ぎで魔界全体を巻き込む騒乱を起こした苦い過去から、グランフォード公爵家は元々クラーケン族は多産な種族なので、世継ぎの際に余計な混乱を起こさない為だ。それ故、この二家の者は、少しでも連れ添い易い相手と結婚する為に、一般の庶民同様、思春期から青年期に掛けて、自らの意思で相手を選ぶ。

 エドワードが選んだのは、父の友人の侯爵家の姫君で、幼い頃から妹のように可愛がっていた娘だった。そのお披露目を兼ねた婚約パーティが先日、ブランデル公爵家の居城で行われたのだが、それに出席した人々は初めて見た彼の婚約者に唖然とした。

 社交界デビュー前、まさに箱入り娘のエドワードの婚約者マールは『完璧過ぎる世継ぎ』には全く相応しくない娘だったのだ。思春期を迎えたばかりとはいえ、身体はスレンダーというより貧弱。容貌も平凡この上なく、まさに子供に少し毛が生えたような少女だった。

 だが、エドワードはこのマールを『マールねえさんを泣かせたら、兄さんにその場で灰にされる』と彼の二人の弟が首を竦めるほど溺愛しているらしい。パーティでもまるで雛鳥を守る親鳥にように、彼女をやっかむ娘から、好奇心からちょっかいを出す男達から守っていたと、面白おかしく語る取り巻き達に少年はようやく柳眉を緩めた。

「……全く、エドワードは女を見る目が無いようで……」

 ニヤニヤと笑う取り巻きの一人に「そうでもないぞ」と彼が答える。驚く少年達を彼は鼻で笑った。確かにパーティで見たエドワードの婚約者は、平凡過ぎる娘のようだったが、この歳にして多くの女を周りにはべらせてきた彼には、エドワードがその娘を選んだ理由が解った。

 マールはエドワード同様、高位貴族の娘として大切に育てられてきている。それは所謂、蝶よ花よと甘やかされて、乳母日傘に育てられたのではなく、貴族の娘として恥ずかしくないよう、厳しいしつけと教育をされてのことだった。その上で、心柔らかな素直で優しい娘に育つよう、嫉妬や悪意といった負の感情とは出来るだけ隔離されて育てられている。それは彼女の浮かべる無垢な笑顔に表れていた。

 おそらくエドワードはあれを愛でたのだ。そう思うと子供の頃から彼が持つある欲望が頭をもたげてくる。何年か間隔を置いて発作のように湧いてくる、彼の飢餓感すら感じる欲望。少年はマールを見るエドワードの顔を思い返してほくそ笑んだ。

 あの娘を汚してやろう。

 ありったけの考えられる全ての負の行為で、大切に大切にされてきた無垢な娘を潰す。そして、それをあの『完璧過ぎる世継ぎ』に見せ付けてやる。エドワードの顔が驚愕と怒りに染まるのを想像し、心の中で少年が哄笑したとき、取り巻きの一人が「エドワードが来たぞ!」と声を上げた。

 

 

 男子寮の前で女子部の少女達と別れたエドワードが男子生徒だけを連れて寮に入ってくる。寮の入り口からそれぞれの寮生の部屋に行くにはこのサロンの横の廊下を通らなければならない。片手に本、腰に剣を刷き、一分の隙もなく制服を着こなしたエドワードが廊下を通る。その前に取り巻きを連れ少年は立ち塞がった。

「何か用か!?」

 エドワードの隣を歩いていたクラーケンの少年が声を荒げる。

 彼はクラウド・グランフォード。エドワードは親友である彼の兄から、彼の面倒を頼まれており、またクラウドもエドワードを頼りにするよう言い聞かされているのもあって、いつも側についている。いきり立つクラウドをエドワードは制した。

「何の用だ」

 落ち着いた声が廊下に響く。少年は内心笑いながら、心にも無い言葉を告げた。

「御婚約おめでとう」

 エドワードの顔が一瞬虚につかれる。だが、このところ言われ慣れている言葉なのだろう「ありがとう」 そつなく返した。

「素敵な婚約者だね」

 次の少年の言葉にも軽く驚いた顔をする。しかし、溺愛している婚約者を褒められたせいかエドワードの顔に素直な喜びが広がった。

「彼女については、口さがないことを言う者もいるが、見かけによらず芯はとても強い娘なのだ。彼女なら公爵夫人として、公爵家当主となった私をしっかりと支えてくれると思う」

 にこやか述べるエドワードの横でクラウドが「……兄上からはエドワード様は、これから社交界に出るマール姫が、自分以外の男に目を付けられるのが心配で、急いで婚約したと聞いていますが……」とぼやく。赤金色の瞳でギロリと睨まれ、慌てて口をつぐんだ。

「なるほど……噂とおり、婚約者殿を大変、愛していらっしゃるらしい……」

 二人のやり取りに少年がクク……と喉を鳴らす。

「是非、私もお近づきになりたい。どうでしょう、彼女を私の『島の別荘』に御招待致したいが」

 彼の口から『島の別荘』という言葉が出た瞬間、エドワードとクラウドの顔が強張った。少年が祖父から貰った『島の別荘』は、少年のあの欲望を満たす場所だ。

 彼の一族がひた隠しにするそれを、火と水の総統家の二人は知っているらしい。

 逃げることの出来ない断崖絶壁の孤島に建った別荘は、少年が行く度に海風に大の大人でさえ耳を塞ぎたくなるような声が混じるという。

 エドワードの顔が固まる。赤金色の瞳が少年を睨む。次の瞬間、少年の顔から笑みが消えた。急に蒼白になり硬直した少年に、エドワードは先程とは一変した冷たい声を放った。

「忠告する。私のマールに手を出すな。お前のおぞましい手が彼女の髪一筋にでも触れようなら、それ相応の代償を支払って頂く」

 エドワードが友人達を促し、通り過ぎる。ざわめく取り巻きの少年達の中、彼は震える手で制服のジャケットのボタンを外した。取り巻き達が息を呑む。

 少年のシャツの左胸のポケットを止めるボタンが消えていた。そこには彼が制服の地味なボタンを嫌がって、祖父にねだった宝石であつらえたボタンが掛かっていたはずだ。

「……まさか……」

「いや、糸が切れて落ちただけだろう」

 取り巻き達がボタンを探して廊下をうろつく。だが、少年は動けないまま、残った止め糸を見ていた。

 一瞬だがあのとき、エドワードが自分を睨んだときに鋭い火気を感じた。その一瞬でエドワードは彼のジャケットの下のボタンを蒸発させたのだ。

『もし、彼女に手を出したら、ボタン同様、お前の心臓を一瞬で焼き尽くしてやる』

 という警告として。

 少年の身体がガタガタと震え始める。エドワードはシャツも止め糸すら傷つけずに、硬度の高いボタンのみを蒸発させた。その技量は少年を遥かに超える高みにある。そして、初めて自分に突きつけられた本物の殺意。

 震える身体を両手で抱く。取り巻きの少年達がいぶかしげに掛ける声すら耳に入らず、少年は自らの身体を抱き震え続けていた。

 

「大丈夫だ……奴は、エドワードではない……。そう違う……」

 ようやく両腕を解いた主人に、床に散ったガラスの欠片とワインを綺麗に片付けた執事が新しいワイングラスを差し出す。それを一気に飲み干し息をつく。

 あれから何度、この恐怖から逃れる為にエドワードに復讐しようと試みたか。それは全て彼と彼の次弟により阻止されている。今、エドワードは妻となったマールと幼い娘を、彼のしつこい恨みから守る為、実家の城の父と次弟の庇護下に置いている。

 エドワードの長男は昔、彼らが通った学園にいる。学長が代わり、厳格さを取り戻した学園で、クラウドの娘やボリスの息子を良き友、良き好敵手として切磋琢磨しているらしい。大将である三人の父親の目が光る彼に手を出すのも不可能だ。

 ならば……。

 男は執事が手の平に戻した鈍色の玉を見詰めた。そこから脳裏に写った男をもう一度よみがえらす。確かに兄弟、顔も火気もよく似ているが奴には兄達に無い甘さが漂う。男の口がゆっくりと曲線を描いた。

「しかし、この奴等に手を貸したという土地神の力は侮れんな」

「すでにそれを取り除くべく、腕の立つ魔術士や兵士を集めております」

「……そうか、作戦は私が立てる。それを遂行出来る者を選別しろ」

「はい」

 執事は男に一礼して尋ねた。

「では『島の別荘』の方は?」

「用意しておけ。これほど優秀な破防班を彼等の守る世界ごと潰すのだ。準備にも時間が掛かる。それまでには気晴らしが必要だ」

「はい」

 男はもう一度、頭に鈍色の玉を付けた。土地神の力を貰い、再従弟を下した男の姿が浮かぶ。昔、友人と後輩を助ける為にたった一人で『島の別荘』に飛び込んだ男だ。そして、唯一正気を保っていたオモチャを別荘から救い出した男。

「……必ず、お前達をこの手で潰してやる……」

 執事が男にまたワインを差し出す。それを呷って男が低く笑う。紅玉色の瞳が窓の外の闇を睨み付けた。

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