蝉しぐれ

 ミーン、ミン、ミン、ミン、ミン、ミーン……。

 真っ青に広がる空、青々と茂る鎮守の森……と呼ぶには少な過ぎる木々の集まりと 周りを囲む背の高い建物に覆い被さるような入道雲。夏の盛りの小さな神社には、ここに祭られた土地神の眷属の蝉達が今日も朝から元気に鳴いていた。

「みーん、みん、みん、みん、みん、みーん……」

 夏休みの補習授業が終わり、ご機嫌を伺いに来た瑞穂の横で子犬ほどの大きさの蝉の幼虫が尻をふりふり、周囲の声に合わせて一生懸命に鳴いている。

「みーん、みん、みん、みん、みん、みーん……」

 けほ、けほほ……。鳴き疲れ、喉が枯れたのか麿様が身体を丸めて咳をする。瑞穂は小さな背中を撫でると水筒を開けて、家から持って来た冷たい麦茶をコップに注いだ。

「麿様、お茶です」

「うむ」

 麿様が彼女を振り返り、コップに中に細い針のような口を入れる。キンとした冷たさに「甘露でおじゃる」と目を細めた。

「ところで瑞穂。そなた受験勉強とやらでしばらく来れなくなるのではなかったのかの?」

「はい、確かに勉強の時間が増えて、こちらに来られる時間は少なくなりましたが、こうして麿様のお顔を拝見する時間くらいはあります」

 瑞穂は今年中学三年生。既に学校では三年生は部活動を卒業し、本格的な受験勉強に入っている。瑞穂も夏休みになってからは補習授業と通い始めた塾に神社の掃除をほとんど祖父母に代わって貰っていた。

「うむ、麿の巫女としての心掛け天晴れでおじゃる」

 麿様が鋭い爪のついた鎌型の前足を振り上げる。コップの麦茶を飲み干して、麿様はまた蝉達の鳴く広葉樹の梢を見上げた。

「では、もう一鳴きするでおじゃる」

「はい。ご苦労様です」

「みーん、みん、みん、みん、みん、みーん……」

 可愛らしい男の子の声が、普通の人には聞こえない鳴き声が、蝉の大合唱に混じる。尻をふりふり鳴く麿様の後ろ姿に瑞穂は小さく眉をひそめた。



『まろさま、まろさまは、どうして、かみさまになったのですか?』

 麿様の巫女になって初めての夏、神社を掃除する祖父を手伝いながら瑞穂は今日のように社の縁で木々を見上げて鳴く麿様に訊いたことがある。少女の素朴な疑問に麿様は鳴くのを止め、きょとんと彼女を振り返るとしばし考えて答えた。

『知らん。いつの間にかそうなっていたでおじゃる』

『え~っ!! かみさまなのに、わかんないのぉ~!』

『巫女が仕える神に『え~っ!!』とはなんじゃ!!』

 ピクンと目の脇の触覚を立てる麿様に、ゴミの始末していた祖父が慌てて飛んでくる。

『申し訳ありません! 何せなったばかりの幼い巫女なもので……』

 頭を下げて謝る祖父に麿様は少し機嫌を直したのか、瑞穂を隣に座らせると言い聞かせるように話し出した。

『麿は元はこの地に育つ、ごく普通の蝉の子であった』

 七年の月日を土の中で木の根から汁を吸いつつ過ごし、ようやく巡った夏の日に地上に出、背中を割り大人になる為に仲間達と木の幹に登ったのだが……。

『何故か麿の背中は割れなかったでおじゃる』

 そのときは月日の数えを間違えたかと思い、再び土の中に戻った。だが、八年、九年、十年経っても背中が割れない。ただ、むくむくと身体ばかりが大きくなる。

 十年、十一年、十二年……何度、夏が来る度に木に登り、大人になろうとしても背が割れない。どれだけ年を重ねたか、子犬ほどの大きさになり、毎年木に登りつつも背が割れず、土の中に戻る蝉の子を見た人達は彼をこう呼び始めた。これは不可思議な力を持った『神』に違いないと。

『それからでおじゃる。麿が『神』になったのは』

 人は蝉にならない蝉の子のいる林に小さな社を建て、拝み始めた。それに呼応するように蝉の子のいる辺りの土地は豊かになり、豊作が続くようになった。そうなると更に拝む人が増える。長い長い年月を拝まれ、蝉の子は人語を操るようになり、この地の地力、そのものになったのだ。

『そういえば、せんせいがいってました。ここのつちは、とてもいいつちなので、このつちでおはなをそだてるときれいにさくって』

『それは麿のおかげでおじゃる』

 麿様がえへんと胸を張る。

『しかしの……』

 憧れを込めた目で成虫になった蝉のたくさん止まる木の梢を見上げると麿様はポツリと言った。

『時々、羨ましく思うのでおじゃる。空を飛び、精一杯鳴いて、子を成し、去っていく眷属達を』



「みーん、みん、みん、みん、みん、みーん……」

 今年も背中の割れない蝉の子が一生懸命声を張り上げ鳴いている。その後ろ姿を見ながら、瑞穂は小さく息を吐いた。

 もしかしたら……。

 あの話以来、毎年夏になり蝉の合唱を聞くと浮かぶ思いが胸を過ぎる。

 麿様は『神』になるより、梢に止まる一匹の蝉になりたかったのかもしれない。

 短い命を精一杯生き、死んでいく蝉に。

「みーん、みん、みん、みん、みん、みーん……」

 どこか悲しい声が緑の揺れる神社に響く。

 瑞穂の視界の端をチチ……と鳴いて蝉が一匹、青空に飛んでいった。

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