4. サキュバスの術士

 特別部隊他世界監視室から支給された服に袖を通すと、エルゼは鏡の前で全身を映し出した。

 鮮やかな紫色の軍服。今まで着ていた新兵の薄茶色の野暮ったい服とは違い、シンプルだが女性らしいデザインのものだ。左胸には銀糸の刺繍。詰襟の上着は腰のあたりでキュッと締まり、後ろに長く燕尾が伸びる。細身のズボンにブーツ、どれも彼女の体のサイズに合わせたオーダーメイドでモデル顔負けの彼女のプロポーションを見事に引き立てていた。

 鏡の中の自分の姿に少女時代、姉と男のふりをしながら風の都のスラムで暮らしていた頃、一度だけ見た魔王軍の凛とした女性兵士の姿が重なる。

 まさか、あの軍服を自分が着ることになるとは思わなかったわ……。

 どん底の暮らしの中、青空のように眩しかったその女性……それに今、自分がなっていることを、どこか恥ずかしく思いながらエルゼはカバンを持ち、部屋を出て階下へと向かった。狭い階段を降りると厨房が見える。姉と義兄の手で、いつも綺麗に掃除されている、そこを横切りドアを開ける。香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐった。

「……これは見違えたな」

 穏やかな喫茶店の店内の光景と共に男の声がエルゼを迎える。

「とてもよく似合うわ」

 忙しいランチタイムが終わり、ティータイムまでの店が一番落ち着く時間。夫の淹れたコーヒーをカウンターで飲んでいた姉のジゼルが、これから家を出、所属部隊の宿舎に向かう妹を隣に座るように手招く。ジゼルの元へと向かいながら、エルゼは店を見回した。

 ブライとジゼルの居心地の良い小さな喫茶店を営みたい、という夢を具現化した店。木の一枚板のカウンターの向こうの棚には二人が休みの度に陶器市で買い集める洒落たコーヒーカップとソーサーが並び、入り口近くにはジゼルの作った素朴なお菓子をビンに入れて並べた小さな量り売りのコーナーがある。このお菓子はコーヒーにセットで添えることもあり、それがまたよく合うと評判で王都の下町では隠れた名店として知られていた。

 エルゼはカウンター越しに嬉しそうに、自分を見ているブライの前に立ち、改めて深々と頭を下げた。

「義兄さん、本当に今までありがとうございました」

 スラムでの暮らしの中、この男に出会い、エルゼ姉妹は救われたのだ。

 両親を早くに亡くし、親戚の家を転々としていた姉妹は、ある家でサキュバスだからと育てる代わりに、その家の男共の慰み者になるよう強要されたとき、二人だけで生きていく決心をし、家を飛び出した。

 その後、風の都の吹き溜まりのような、ならず者達の街でひたすら女だとバレないように神経を使いながら、路上で暮らしていた二人を拾ったのがブライなのだ。

「以前も言ったように私は、私の心を慰める為に気紛れでお前達を拾っただけだ」

 静かに答えるブライに、今は一人は妻、一人は義妹となった姉妹が首を横に振る。

「それでもあなたに拾われて、初めて安心出来る暮らしが送れるようになったのだもの」

 彼が両親を亡くした姉妹に、次の『家』を与えてくれた。『外』で身の危険を感じる男達もさすがにオーガ族の元魔王軍兵士の『所有物』には手を出さなかった。

 ジゼルの感謝の笑みにブライが黙って、義妹の分のコーヒーを淹れ始める。それが彼の照れだと解っている二人は、こっそり顔を見合わせて微笑んだ。

 エルゼに術士の才能があることに気が付いたのもブライだ。術士になりたいと望んだエルゼの為に師を探し、それに掛かる学費を出してくれたのも彼。最もブライに言わせれば『受け取りたくもなかった金を有意義に使いたかっただけだ』ということらしいが。

 エルゼのお気に入りのカップがカウンターに置かれる。その前に座るとエルゼはゆっくりとコーヒーを口に運んだ。極上の香りに深い味わい。義兄のコーヒーは他では味わえない深さがあるとファンが多い。

「……不安か?」

 棚のカップを磨き始めたブライが、黙ってコーヒーを飲むエルゼにぽつりと訊く。

「義兄さんには隠し事は出来ないわね」

 エルゼは小さく息をついた。

「うまくやっていけるかな~、とかいろいろと考えちゃって……」

 ジゼルが、そっとうつむくエルゼの腕に手を置いた。

 三年間の新兵の訓練を終え、術士の上級試験にも受かったエルゼはこの春から、破壊防止班のハーモン班に所属する。班長のモウン・ハーモンは一年程この家に住んでいたのもあって、義兄同様見た目はいかついが、気の良い男だというのは解っている。二年半前から自分の師になってくれている元魔術師長の玄庵も、術には厳しいが普段はひょうひょうとした好好爺だ。だが……半年前ハーモン班にはサラマンドラ族を除名されたブランデル公爵家の三男が入隊していた。

「公爵様の御子息と一緒なんて……」

 身分を絶対とする魔界では、サキュバスにとっては声を掛けるどころか、一緒の空間にいることさえ、はばかられる相手だ。怯えた顔をする義妹にブライが牙の突き出た武骨な唇をほころばせた。

「アッシュ様なら心配ない。お前が術士の試験で忙しくて帰って来れなかった間、何度もハーモン先輩と、この店に来たが真面目な良い御方だった」

「公爵家の三男様だけあって、お坊ちゃま育ちの優しい方よ」

 ジゼルがちょっとふざけた顔で妹にウインクする。

「……そうなの?」

「身分がどうとかは心配ない。お前は術士としての才能を、あの玄庵様に認められた弟子だ。胸を張りなさい」

 義兄の言葉に勢いをつけるように、ぐっとコーヒーを飲み干して、エルゼは立ち上がった。

「じゃあ、行って来ます。試験も無事合格したし、破防班は宿舎も近いし、また休みにはお店の手伝いに来るわ」

「ああ、頼む。お前がいると店にお客が増えるからな」

 ブライが元気な顔になった義妹に珍しくおどけてみせる。

「あら? ブライ、それどういうこと? 私じゃ、お客は来ないってわけ?」

 妻に色っぽい目で睨まれて、あやうく磨いていたカップを落とし掛ける。エルゼは思わず吹き出した。

「行って来ます!」

 カバンを持ち、店のドアを開ける。振り返ると二人が自分を見送っている。この世界でたった二人だけの家族にエルゼは笑顔を向けると、もう一度深くお辞儀をした。



 魔王軍特別部隊破壊活動防止班。その部屋の剥げた真鍮のノブの前でエルゼは大きく深呼吸をした。いよいよまた新しいスタートだ。軍服の衿を直し、古ぼけたドアを開ける。ドアと同じ年季の入った石造りの部屋が視界に広がった。

 違和感の漂うおかしな部屋だ。窓に掛かったカーテンはどれも古く、しかも一窓ごとに柄が違う。部屋は木や紙、布……これまた様々な材質も形も異なる衝立が沢山、あちらこちらに配置されていた。不思議に思って、近くの衝立の向こうを覗く。そこには寄せ集めたようなサイズの違うデスクが五つ、くっつけあうようにして置かれていた。

「……ここ、魔王軍内よね……?」

 思わずエルゼの口から訝しげな声が漏れる。今までいた新兵の部屋の方が、ここよりよっぽど綺麗で整然としている。

 エルゼも後に知ることになるが、特別部隊はとにかく予算が少ない。その下位組織である破壊活動防止班は、班のほとんどが護るべき世界で一般人に紛れて暮らしているので、魔界本部には部屋を必要としない。故に班ごとの個々の部屋が用意されておらず、備品も他の部隊の使い回しを寄せ集めたものなのだ。この部屋にいるのは、他界に派遣される規定のメンバー五人を、なんらかの理由で満たせず、他班のサポートをしている班だけだった。

 空っぽの五つのデスクを衝立で仕切っただけの部屋を歩く。部屋に人影はほとんど無い。奥に土の気に水の気、そして若々しい火の気を感じ、エルゼはそちらに足を向けた。

「班長!! だから、今日提出の書類はどこにやったのですか!!」

 突然奥から若い男の怒鳴り声が部屋に響き渡り、エルゼはビクリと立ち止まった。

「いや、確か……この引出しの中に……」

 バサバサという音と一緒に聞き覚えのあるモウンの声が聞こえる。エルゼは小さく安堵の息をつき、再び歩み始めた。声は一番奥の窓際の一角からしている。その前の布の衝立の前で立ち止まった。

「あの~」

 マヌケかな? と思いつつも布を叩くわけにもいかず、エルゼが声を掛けると同時に また男の声が響く。

「だからデスクは整頓しておいて下さいって、いつも言ってるでしょう!! それか、もう書類は受け取ると同時にオレに渡して下さい!!」

 もう一度書類を貰ってきます!! 声がして衝立から赤いトカゲ頭の若い男が飛び出してくる。仕切りの向こうを伺っていたエルゼとぶつかりそうになり、慌てて身を引いた男が赤金色の瞳を見開いた。

「あの……ハーモン班の方ですか?」

 エルゼの問いに何故か男は答えず、ただ彼女を見詰めている。

「あの……」

 重ねて問う彼女の声が聞こえたのか、それとも風の気を感じたのか、衝立の向こうから 深緑のローブを着た玄庵が顔を出した。

「おお、エルゼ、来たかの」

 こっちにおいでと穏やかな顔が招く。ほっとして男の脇をすり抜け、玄庵の元に向かうと、その後ろを彼女を凝視したまま男がついてくる。それに気が付き、おかしそうに丸い肩を震わせると玄庵は、だらしなく黒い軍服を着崩して椅子に座り、書類が乱雑に詰め込まれた引出しを探っているモウンの前に彼女を連れていった。

「エルゼ、来たか」

 モウンが嬉しそうな笑みを浮かべ、彼女を見上げる。

「エルゼ・レイヤードです。今日からハーモン班に配属されました」

 エルゼがこれから上司になる男に敬礼をする。彼女に手を差し出し握手をしながら、モウンは飛び出していったはずの副長が、まるで操り人形のようにぎくしゃくしながらエルゼの後ろにいることに首を傾げた。

「まあ、堅苦しいことは無しだ。これから宜しく頼む」

「はい」

「先の試験の結果を見たぞ。見事な成績だったな。師匠の玄庵も鼻高々だった」

 モウンの隣に並んだ玄庵が顔をほころばせる。

「相変わらず攻撃術は散々な成績でしたが……」

「何、お前は攻撃術には向いておらん、それだけじゃ」

 今度の試験で間違いなく、エルゼが自分と同じ方面を得手としていることを再確認出来たらしく、玄庵が「これからもっと鍛えるぞ」笑顔で告げる。エルゼが真剣な面持ちで頷いた。

 玄庵が同じ班員としてエルゼと握手を交わす。手を離した後、楽しげに班長をつついた。

「班長、副長に新しい班員を紹介しませんと」

 玄庵のいたずらな顔を見、さっきから彼女から目を離そうとしない副長を見、モウンは ニヤリと笑うと立ち上がり、エルゼの細い肩に両手を置いて、クルリと振り向かせた。 突然目の前で正面を向き合った彼女に「うわっ!」と驚いた声を上げ、男が二、三歩後ろに下がる。

「アッシュ、俺の後輩の妻の妹で、この班のもう一人の術士エルゼだ。後方支援の玄庵に対して、彼女には前衛で防御と補助を担当してもらう」

「よろしくお願いします」

 エルゼが頭を下げる。 顔を上げるとアッシュは慌てた顔で自分も頭を下げた。

「……ア……アッシュ・ブランデル兵長です。この班の副長をしています。……よろしく」

 しどろもどろに自己紹介するアッシュに玄庵が喉を鳴らす。

「手は握らんのかの?」

「手ぇっ!? 手を握るってぇ!?」

「何を赤くなっているんだ。握手だ握手。やはりここは同じ班員だと示す為に身分の高いお前から彼女に握手を求めるものだろう」

 モウンがわざとらしい呆れ顔で肩を竦める。

「いえ、嫌なら良いです。こんな下位のしかもサキュバスの女に握手なんて……お嫌ですよね」

 エルゼに伺うように上目使いに見られて、アッシュの顔が真っ赤に染まった。

「いや! そっそんなことない! そうじゃなくて……」

 おどつきながらアッシュが手を差し出す。

「その……オレ……いや、私は一族を除名された身だから、身分は気にせず同じ班員として付き合って欲しい」

「はい」

 エルゼが差し出された手をそっと握る。その瞬間アッシュの顔がこれ以上ないほど赤くなる。二人の様子にモウンと玄庵は背を向けると声を立てないように必死に笑い声を抑えた。



 その後、ぼ~っとしたまま、エルゼに班の活動内容やこれからの訓練、兵舎の案内をしたアッシュはそのまま書類の提出を忘れ……一週間後、班長と共に室長にこってりとしぼられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る