第152話 ふたり、いつか海の見える家で

 くし、くし。


「えへへ」


 くし、くし、くし。


「えっへへー」


 俺が髪にクシを通す度、唯花ゆいかは嬉しそうに身をよじる。


「あのなぁ。動くと危ないぞ?」

「だって奏太そうたがくしくししてくれるの、気持ちいいだもん♪」


 くしくしってなんだ。

 まあ、とにかくお姫様はご満悦である。

 ……まだ腰は抜けてるようだが。


 ついさっき、俺と唯花は人生四度目のキスをした。

 しかも舌まで入っちゃうキスである。


 まあ、舌が入ったのは予期せぬ事故で、俺がふざけて背伸びをしたところに唯花がフライハイしてきて、勢いで唇だけでなく舌まで……という顛末だ。


 おかげで唯花は腰砕け。

 生まれて初めてのアダルトな感触にやられてしまい、立てなくなってしまった。


 仕方ないのでベッドに寝かしたところ、俺の太ももに頭を載せてきて、「髪梳かしてー」と甘えてきた次第である。


 つまり俺は今、唯花に膝枕をしてやり、せっせと髪を梳かしてやってる最中だ。


「寝転んでるからあんまり意味なさそうだけどな。梳かしてもすぐほつれるぞ?」

「いいのー。熾烈な戦いを終えた唯花ちゃんには、こういう安らぎの時間が必要なのです」


 だからくしくし、と太ももの上で頭を揺らしてねだる。

 へいへい、と俺はクシを通していく。


「しかしだな、ソルジャー唯花。お前だけでなく、俺も熾烈な戦いを終えたばかりなのだが?」

「むむ? それはつまりソルジャー奏太にも安らぎの時間が必要であると?」


「しかり。平和とは平等の下に築かれるのではなかろうか?」

「一理ありけり。――だったらぁ」


 ふっと唯花が腕を伸ばしてきた。

 俺の頭を抱えるように引き寄せて、そのまま――。


「はい、安らぎのちゅー♪」

「――っ!?」


 当たり前みたいにキスされた。

 もちろん唇だ。


 柔らかい唇の感触に鼓動が一気に跳ね上がる。

 しかも、キスしながら頭を愛おしそうになでなでされた。


「……っ!?」


 なでなで。

 

 く……っ、これは反則だ。

 今の今までダダ甘えだったくせに、撫で方が慈しむようなお姉さんモードで、ギャップにやられてしまう。


 なでなで。なでなで。ちゅっちゅ。なでなで。


 ……おのれ、ずっとこうしていたいぞ。

 けど、息が続かん……!


 俺はクロールで泳いだ後のように、息も絶え絶えで顔を上げる。

 すると唯花が膝から微笑んだ。


「安らいだかな?」


 してやったり、な大人の微笑だった。

 こっちは赤い顔で目を逸らす。大変悔しいが……。


「……はい、安らぎました」


 思わず敬語になってしまった。

 いかん、唯花がなんかレベルアップしてるぞ。大人のキスを経て、何やら成長したらしい。


 これは俺も負けてられん。

 髪を梳かすフリをして、耳でも攻め立ててくれようか……とか思っていたら、ふいに唯花が口を開いた。


「ねえ、奏太……」


 ゆっくりと目を伏せて。

 どこか謡うように。


「あたし、デートがしたいな」


 デート?

 一瞬、首を傾げ、しかしすぐに頷く。


「ああ、いいぞ。だったら今からおうちデートな」

「ううん、そうじゃなくて」

「ん?」


 意味が分からず、目を瞬く。

 一方、唯花は瞼を開き、ゆっくりと視線を向けた。


 この部屋の、窓の方へ。


「奏太、いつか言ってたでしょう? あたしが引きこもってる間に街のなかにデートスポットがいくつも出来たって」


 確かに言った。

 唯花が引きこもって、一年半。


 そのなかで街も様々に変わり、唯花の好きそうなぬいぐるみショップが出来たり、唯花のテンションが上がりそうなアニメの聖地が出来たり、一般的な夜景スポットや流行りの店なんかもずいぶん増えた。


「……いきたいな。連れてってほしい」

「や、けど……大丈夫なのか?」


 あは、と小さく笑う。


「……正直、分かんない。ひょっとしたら、またすぐ倒れちゃうかも。でも……」


 唯花は手を伸ばしていく。

 ガラスで隔てられた、窓の向こうへと。


「……いつの間にか、やりたいことがたくさん出来ちゃったんだ」


 瞳を細め、囁く。


「伊織に逢いたい。葵ちゃんと付き合えたこと、ちゃんと目を見て『おめでとう』って言ってあげたい」


 言葉と共に、窓から夕陽が差し込んできた。

 優しい光が唯花の手のひらを照らす。

 温かく迎えるかのように。


「お母さんに逢いたい。『リビングでの会話、いつも聞こえてたんだからね? あれわざとでしょー?』って言って、笑いながら一緒にお菓子を食べたい」


 唯花の指先は震えていた。

 まるで外の光に怯えるように。

 でも止まりはしない。手を伸ばし続ける。


「お父さんに逢いたい。『どう? 奏太も強くなったよ。あたしが成長させたの。もうお父さんにだって勝っちゃうかもねー』って、胸を張って今の奏太を自慢したい」


 伸ばした手を自分できゅっと握りしめる。

 俺の膝から頭を上げ、唯花はベッドから下りていく。


「葵ちゃんにも逢いたい。『伊織のこと、よろしくね』ってお願いして、あたしと、奏太と、伊織と、葵ちゃんと……四人で一緒に写真を撮りたい」


 床を踏みしめ、唯花は自分の足で立とうとする。


「奏太の友達にだって逢いたいよ。京都の時、奏太と一緒に伊織を助けてくれた人たちがいたんでしょう? だから……ちゃんとお礼を言いたいの」

「唯花……」


 俺の仲間にまで……、と胸が震えた。


「それから……あっ」


 唯花がよろけた。

 慌ててこっちもベッドから飛び降りる。

 しかし支えようとすると、手をかざして止められた。


「大丈夫。ちゃんと立てるから」


 半端に伸ばしていた俺の手に、ぽんと何かが置かれた。


 唯花のスマホだった。


「なんだ? なんでスマホを……」

「見てみて」


 画面に表示されていたのは、小説投稿サイト。

 唯花が初めて小説を投稿した時、一緒に観たサイトだった。


 しかしあの時とは違うことがある。

 たった一話だけだった小説が今や百話以上になっていた。


 それどころか、あの時、5しかなかった閲覧数が今や――数万倍にも達していた。

 さすがに驚いた。


「お、おいっ。これ……!」

「えへへ、ずっと地道に書き続けてたの。奏太から見えないところでもちゃんとあたしは進んでたんだよ。びっくりした?」


「びっくりするわ! だってこれ……どんだけの人が読んでるんだ!?」

「んー、きっといっぱい。たくさんの人が読んでくれてる」


 唯花は顔を上げ、歩きだした。

 黒髪をなびかせ、胸を張って。

 

「あたしを見てくれている人たちがいる。あたしの逢いたい人たちがいる。だからあたしは――世界と繋がっている」


 指先がガラスに触れた。

 窓が勢いよく開かれ、強い風が吹き込む。


「そして世界と繋がったあたしには……おっきな夢がある。いつか、奏太と海の見える家に住むの!」


 夕焼けを背にして、唯花が振り向く。

 黒髪が艶やかに舞い、向けられたのは満面の笑顔。


「だからいくよ。頑張ってみせるよ。怖くても恐ろしくても、それ以上に希望が溢れてるって、今はもう信じられるから」


 だからね、奏太。

 と囁き、彼女は言葉を紡ぐ。


 自分の足でちゃんと立って。

 誇らしげな笑顔を浮かべて。

 さあ、と手を伸ばして。



「あたしをこの部屋から連れ出して!」



 一気に視界が滲んだ。

 世界を恐れていた彼女は、長い時間を掛け、世界に散らばった希望の欠片を拾い集めたのだ。


 そして、その果てに。

 止まっていた時間がついに動きだす――。

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