第149話 史上最大の決戦―始まりの原風景―⑥

 瞼を閉じれば、いつだって思い出せる。

 俺にとっての始まりを。


 脳裏に浮かぶのは誰もいない夜の海。

 遠い灯台の光がかすかに見え、波の音が静かに木霊している。


 コテージは海に面していて、そのバルコニーに俺はいる。

 子供の頃、ここで約束をした。


 そして誓ったんだ、唯花ゆいかを一生守る。


「そうだ。それがおれだ。何一つ迷うことなんてないはずだ」


 声がして隣を向くと、子供の頃の俺がいた。

 何よりも強い、真っ直ぐな眼差しで見つめてくる。


「おれはゆいかを守る。ぜったいに守る。誠司せいじさんみたいになるんだ。そのために頑張って、頑張って、頑張り続けて、たどり着いた俺がお前だろ? 違うっていうのか!?」

「それは……」


 子供の頃の俺に強く言われ、たじろいだ。

 言い負かされたような雰囲気でおずおずと頷く。


「……違わない。俺は誠司さんを目指して歩んできた。お前の誓いの果てにいるのが、今の俺だ」

「だったら迷うな」


 今の俺よりもずっと強い眼差しで、昔の俺が言う。


「たとえ誰がピンチになってようが、ゆいかが『いかないで』って言ったらいかない。『そばにいて』って言ったらそばにいる。それがおれだ、おれたちだ、三上奏太だ!」

「そう……だよ、な……」


 視線を逸らすように海へ目を向ける。

 星の光を水面に映した、輝くような海。


 この場所で、あの日、守ると誓った。

 唯花を守るということは、唯花の心を守るということだ。

 だったらどこにもいってはいけない。ずっとそばにいるべきだ。


「――本当にそうか?」

「え……」


 また声がした。

 振り向くと子供の頃の俺とは逆側に、もうひとり俺が立っていた。


 背丈や雰囲気は今の俺とまったく変わらない。

 ただ制服のワイシャツの上にジャンパーを引っかけている。


 ああ、これは……とすぐに分かった。


 数日前の俺だ。

 伊織いおりを京都に送り届けるため、みんなの力を貸してもらった時の俺だ。


「もう知っているはずだろ? みんなと力を合わせるからこそ出来ることがあるって」


 その一言をきっかけにして、景色が切り替わった。

 夜の海が蜃気楼のように消え、代わりに現れたのは、あの夜の伊織の部屋。


 カーテンの向こうから月の光が柔らかく差し込み、俺たちを照らす。


 ジャンパーを着た俺が苦笑を浮かべ、こっちの胸を叩く。


「あの夜、番長がバイクを持ってきてくれたから伊織を乗せて走り出せた。会長が連絡を取りまとめてくれて、学級委員長がヘリを使わせてくれたからあおいのもとに間に合った。バスケ部の部長先輩やアー子さんや店長や、みんながいてくれたから伊織を助けられたんだ」


 どこか諭すような眼差しで言われる。


「もしもあの時、京都に連れていけなかったら、伊織は葵にフラれたショックを引きずってずるずると引きこもってたかもしれないぞ? そんなことになったら唯花がどれだけ哀しむか、分からない俺じゃないだろ?」

「それは……」


「伊織を助けるってことは、唯花の世界を守るってことだ。違うか?」

「……違わない」


「それが出来たのはみんながいてくれたからだ。そうだろ?」

「ああ……」


 俺は月灯りのなかで俯く。


 そもそも俺が人助けを始めたのは、みんなに『唯花の味方』になってほしかったからだ。


 俺が誰かを助け、その誰かが唯花を受け入れてくれて……そんなことをずっと続けていけば、いつかきっと唯花にとっての『本当の優しい世界』が訪れる。


 そう願って走り続け、気づけば多くの仲間に恵まれた。

 けれど。


「それで唯花に淋しい思いをさせていたら意味がない……」


 いかないで、というのはそういう意味だ。

 俺はその場にうずくまる。


 また景色が変わっていく。

 月灯りが消え、伊織の部屋が姿を消し、何もない真っ黒な空間だけが残った。


 子供の頃の俺も、ジャンパーを着た俺も、もういない。

 まるでこれまでの自分から切り離されたような気持ちで途方に暮れる。


「――いっこだけ間違えてるよ、奏太は」


 ふいに頭上から声をがした。

 俺の声じゃない。

 え、と顔を上げる。


 そこにいたのは、唯花。

 今よりも少し背が低い。昔の制服を着ている。


 中学校時代の唯花だ。


 俺が何を間違えてるって言うんだ?

 言葉にせずとも視線だけで問いが伝わったらしい。


 スカートの膝に手を当てて、蹲っている俺を見下ろし、唯花は目を細める。


「あたしが引きこもる前から、奏太は人助けしまくりだったじゃん」


 途端、景色が目まぐるしく移ろい始めた。

 中学校の春夏秋冬、教室や体育館や校庭や下駄箱。

 同じく小学校時代の雨の日や風の日や晴れの日、そのプールや屋上や通学路。


 見れば、その景色のなかで俺は陽が暮れるまで誰かの探し物を手伝ったり、喧嘩を止めに割って入ったり、告白の背中を押したりしていた。


 景色に合わせて、唯花の姿も変わっていく。

 中学生だった姿はランドセルを背負った小学生になり、黄色い帽子にスモッグを着た幼稚園生になり、やがて……一緒に海を見た、あの夜のワンピース姿になった。


「それにね」


 小さな手がなでなでと俺の頭を撫でる。

 

「引きこもる前どころか、あたしが溺れる前から奏太は人助けしまくりだったよー?」

「なに……?」


 思わず顔を上げる。

 蹲っているから、子供の唯花とちょうど同じくらいの目線になっていた。


「唯花が溺れる前から……? でも俺が生き方を決めたのは――」

「気づいてないだけだよ」


 景色が流れる。

 そのなかに現れるのは、4歳くらいのガキんちょの俺。


 公園では友達を助けようと近所の小学生に立ち向かっていて、道端では捨て猫の入った段ボールの上で傘を差していて、商店街ではおばあさんの荷物を持って一緒に歩いていた。


 そのすべての景色には唯花がいて、『やれやれ、まーた人助けしてるのです』という顔をしている。


「あたしは知ってる。ずっと見てきた。奏太は生まれた時からそういう人、、、、、なんだよ」


 また景色が移ろう。

 でも今度は俺の心象風景じゃない。


 ――まぎれもない現実だ。


 ゆっくりと瞼を開く。

 瞳に映るのは、慣れ親しんだ唯花の部屋。


 目の前にはツインテールを下ろし、いつものパジャマ姿に戻った唯花がいた。


 いつメイド服から着替えたんだ……? と一瞬思ったが、俺が瞼を閉じて懊悩おうのうしてる間に着替えたのだろ。


「奏太はずっとそういう人だった。あたしはね、世界中の誰より奏太のことに詳しいの。奏太自身より、ずっとずっとね」


 まるで心を読んだかのように語り掛けてきた。

 実際、俺の考えていることなんて筒抜けなのだろう。


 唯花の両手が頬に触れる。

 

「三上奏太は困ってる人を放っておけない。誰かがピンチに陥ってれば、いつでも飛んでいって助けてあげる。そういう人」

「いや待ってくれよ、唯花。それじゃあまるで……っ」


 まるで唯花もたまたま会った『困っている人』のひとりだった、みたいな言い方じゃないか。

 と思った瞬間、鋭くデコピンされた。


「天誅ーっ!」

「あいてっ!? 何すんだよぅ!?」


「愚か者。心がぐらぐらし過ぎなのです。奏太にとってあたしはすぺしゃる・ぷれしゃす・ぷりんせすに決まってるでしょーが。唯花ちゃんこそ最優先事項、圧倒的ぶっちぎりの第一位。その栄冠は揺るぎません」

「そ、そうか、良かった……」


 自分のことなのに唯花に断言されて安心するなんて変な話だ。

 でも本当に心がぐらついている。自分のことをどう捉えていいか分からない。

 つい尋ねてしまう。


「俺はどうすればいいんだ……?」

「どうすればいいと思う?」


 即座に質問を質問で返され、言葉に詰まった。

 深呼吸をして気持ちを落ち着ける。


 ……言われてみれば、確かに俺は子供の頃から周囲のトラブルに首を突っ込むことが多かったかもしれない。


 唯花の仲間作りのためにやり始めたと思っていたが、本当はずっと昔から俺はあちこち駆けずりまわっていたのだ。


 誠司さんの背中が始まりじゃなかった。

 すべては最初から俺のなかにあった。


 でも。

 だとすれば。

 もう弁解の余地なんてない。


 唯花の『いかないで』という言葉を振り切って誰かのもとへ駆けつけようとするのなら、それは純然たるワガママだ。


 大義なんてない。


 仲間を守ることが唯花の世界を守ることだとか。

 いつか誠司さんの背中に追いつくためだとか。

 そんなことはもう言えない。


 駆けつける理由、それは――俺がそうしたいから。


 誰かが泣いてる姿を見たくないから。

 その涙を止めてあげたいから。


 唯花とはまったく関係ない理由。

 俺自身のなかから生まれた、俺の理由。


 指先が震えた。

 

 自分で自分が許せない。

 子供の頃の俺が心のなかで叫んでいる。


 ――お前は唯花のために生きるんじゃないのかよ!?


 でも自分で自分が間違っているとも思えない。

 ジャンパー姿の俺が静かに断言する。


 ――仲間を見捨てない。これから仲間になるかもしれない誰かも見捨てない。つまり俺は……。


 その瞬間、はっとした。

 気づいてはいけない想いが胸にせり上がってきた。


「奏太」


 目の前で唯花が柔らかく微笑む。


「何か分かった?」


 包み込むような問いかけが逆に辛かった。

 思わず後ずさる。


「唯花、俺は……っ」

「いいよ。言ってみて?」

「お、俺は……っ」


 自覚してなかったわけじゃない。

 頭の隅ではいつも考えていた。


 だがあえて言う必要のないことだ。

 今までも、これからも、わざわざ言葉にする意味はない。


 なのに、想いがどうしようもなく突き上げてくる。

 形にしなければ、という焦燥感に突き動かされる。


「俺は……っ」


 苦渋いっぱいに叫んだ。


「すまん、俺はこの世界が好きなんだ!」

 

 たぶん生まれた時からそうだった。

 一歩部屋から踏み出せば、あっちにもこっちにも気のいい奴らが山ほどいる。

 俺はずっと昔からそれを知っていた。


 子供の頃、公園でケンカした小学生とはマブダチになって、今でも同じバイト先にいる。

 段ボールのなかの捨て猫は、俺を見かねた近所のお姉さんが拾ってくれて大事に育ててくれてるらしい。

 商店街のばあちゃんは今でも家のそばを通ると駄菓子をくれる。


 こんな世界が俺は好きだ。

 でも唯花は逆だ。

 唯花は世界を恐れて、怖がって、怯えて、引きこもりになった。


「さあ、ここで奏太にもう一度問題です」


 静かに、とても静かに声が響いた。

 水晶のように透き通る瞳で、唯花が問う。


「ある日、奏太の友達が『助けて』と言ってきました。でも海の見えるお家で、あたしが『いかないで、そばにいて』と言いました。――さあ、奏太はどうする?」

「……っ」


 どうしようもなく表情が歪んだ。

 最初に問われた時よりも、その意味はずっと重みを増している。


 世界を好きだと言う俺。

 世界を恐れ、そばにいてと言う唯花。


 答えを出さなくてはいけない。


 この先もずっと唯花といたいのなら。

 いつか海の見える家に一緒に住みたいのなら。


 2人の方向がぶつかった時、どうするべきなのか。

 これはいつか必ず直面する問題のはずだから、逃げることはできない。


 俺は試されているのだ。

 唯花ではなく、他ならぬ俺自身に。

 

 三上奏太は本当に如月唯花の隣に立てる男なのか、と。


「俺は……っ!」


 きっと答えは最初から出ている。

 なのに即答できなかったのは、『俺がそばにいないと駄目なんだ』と思い込んでいたから。


 でもきっと違うんだ。

 俺にこんな意地の悪い問題を言えた時点で、唯花はもう昔のような引きこもり娘じゃない。


 如月唯花はもう前を向いて歩き始めている。


 だから。

 これから俺がしなくちゃいけないのは、きっと――唯花を信じること。


 固く拳を握り締め、真っ直ぐに前を見据える。

 そして告げた。


「俺は仲間を助けにいく! だからすまん! 待っていてくれ!」


 がばっと頭を下げ、叫んだ。

 俺の本気の答えを。



「唯花、俺のために、、、、、我慢してくれ……っ!」



 その声は部屋中に木霊した。

 たぶんこんなことを言うのは初めてだ。


 唯花が俺にワガママを言うのはなく、俺が唯花にワガママを言うなんて。


 仲間を助けたいという気持ちは、唯花でも誠司さんでもなく、俺自身のなかから生まれたものだった。


 それを貫くために、『そばにいて』という唯花に我慢を強いる。

 これは純然たる俺のワガママだ。けれど。

 

「よくできました」


 ふいに頭を撫でられた。

 手のひらに促されて顔を上げると、唯花が満面の笑みを浮かべていた。


「大正解っ! 奏太のやりたいこと、ちゃーんと言えたねっ!」


 本当に嬉しそうな、屈託のない笑み。

 あ……、と吐息がこぼれた。


 思い出すのはここ最近、ずっと言われていたこと。『奏太にだってやりたいことがあるでしょ?』とか『あたしには弱いところ見せていいんだよ』と、唯花はずっと言っていた。

 

 ……このことだったのか。


「待ってるよ、あたし。奏太が心からやりたいことのためなら、あたしはいつまでだって良い子で待っててあげる」

「唯花……」


 あの淋しがり屋の甘えん坊な幼馴染が俺のためにこんなことを言ってくれるなんて……。

 気を抜くと涙が出そうになった。


「奏太はね、どこかに困っている人がいたら、地球の裏だってびゅーんって助けにいくの。そして必ずあたしのところに帰ってくる。海が見えて、あたしが待ってる、2人のお家にね」


 そう告げて、にこっと笑う。

 唯花の言葉は胸の真ん中に真っ直ぐ沁み込んできた。


「ああ、そうか……」


 驚くほど納得できた。


 それが三上奏太の形。

 葵のヒーローを目指す、伊織とは違う。

 撫子さんのヒーローになった、誠司さんとも違う。


 俺のなかから生まれた、俺だけの在り方。


 その形に唯花は最初から気づいていたんだ。


「……お前、なんでそんなに鋭いんだよ」

「決まってるじゃない」


 パジャマの胸を張って、たいへん偉そうに宣言。


「だって幼馴染だもん! さいきょー美少女幼馴染の唯花ちゃんこそ、世界で一番の奏太の理解者なのだぜ!」


 ぐうの音も出なかった。


 ……ああ、こりゃ参ったな。

 どうやら俺が保護者面できる時代はもう終わりのようだ。


 唯花が俺にワガママを言い、俺も唯花にワガママを言う。

 それは対等な関係だ。

 たぶん俺たちは今、ようやくスタートラインに立てたのだろう。


「なあ、唯花」

「うみゅ?」


 肩の力を抜き、とても自然な気持ちで言う。


「キスしないか?」

「うみゅ!?」


「もう決戦とかそういうの関係なしに……俺、お前とキスしたい」

「う、うみゅう……っ」


 見る間に頬が赤くなり、唯花の余裕がなくなっていく。

 その肩を俺はそっと抱き寄せた。


                       次回更新:3/24(火)予定

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