第73話 弟に彼女ができたお姉ちゃんの変化

 俺からの報告を聞き、唯花ゆいかは難しい顔で「むむむ」と唸った。


「まさかあおいちゃんが実在したなんて……」

「ちゃんと実在したぞ。なんせ真正面から直球でお説教されたからな……」


 俺は屍のように床に倒れている。

 もうHPがゼロなので、相槌の声も大変小さい。


 葵ちゃんを家路の途中――中学校の前辺りまで送った後、俺は如月きさらぎ家に引き返してきた。家までのエスコートは伊織いおりに任せてある。

 せっかく恋人になったんだし、2人っきりで話したいこともあるだろう。


 つまり、あとは若い人同士で……みたいなノリを地でやった感じだ。決して葵ちゃんからのダメージがでかかったからじゃないぞ? 断じてないぞ?


「えーと、奏太そうた、平気? あたしのお膝使う?」


 唯花が気づかわしげに自分の膝をぽんぽんと叩く。

 その太ももの甘美さは特大アーチのホームラン級なので、ぜひとも享受したいところだが……俺はどうにか誘惑を振り払って体を起こした。


「いや今日はやめとくわ。そんなしょっちゅう唯花に慰められてるわけにもいかないからな」

「いいの? そんなにヘコんでるのに」

「まあ、女子中学生にガチ説教されたら確かにべっこりヘコむが……そこでめげ続けてたら情けないにも程がある。男としてやせ我慢せねばならん」

「ほえー」


 大仰に腕を組む俺と、よく分かんないですという顔の唯花。

 とりあえず葵ちゃんからの忠告は真摯に受け止めねばと思う。その上で反省を今後に生かしていくのだ。


 ……実際、今回の件で痛感したが、この家、マジで声が筒抜けだからな。伊織に変な声を聞かせないように気をつけねば。

 そのためにも唯花と倫理的にアウトな展開にはならないようにする。よし、頑張ろう。


 さておき、『弟に彼女ができた』というこの状況。唯花にとって小さい出来事ではないはずだ。だから俺が慰められてる場合じゃない。


 床から起き上がって座り直すと、思った通り唯花はそわそわし始めた。

 黒髪の毛先をいじりながら視線を逸らす。


「本当に膝枕しなくていいの?」

「いいぞ。俺はガラスのハートを持つ男だからな」

「それって砕け散っちゃうんじゃ……」

「――倒してしまっても構わんのだろう?」

「あ、『体は剣で出来ている』って話ね。納得」


 唯花は逸らしていた視線を戻す。

 そして太ももの間に手を入れて、小さく肩をすぼめた。

 こちらの顔色を伺うような表情でつぶやく。

 じゃあさ、と前置きし、恥ずかしそうに頬を染めて。



「……あたしが甘えんぼしてもいいですか?」



 いつもダダ甘えな唯花だが、こうして口に出して甘えてくることは実は多くない。よって俺は自分の膝を叩いて手招きする。


「おう、こっち来い」

「……うん。ゆく」


 素直に頷き、唯花はそばにくると、あぐらをかいた俺の膝に乗って、ぎゅーっとしがみついてきた。


「コアラの抱っこみたいだな」

「甘えんぼ中だからいいんだもん」

「ああ、いいよ。お前の好きなように甘えていい」


 俺の首筋に顔をうずめ、唯花は囁く。


「……ごめんね」

「んー? 何がだ?」

「あたしのせいで……奏太が葵ちゃんに怒られちゃった」

「お前のせいじゃないさ」


 ぽんぽん、とパジャマの背中を優しく叩いてやる。

 実際、葵ちゃんが俺にお説教した要因には、おもらしうんぬんの誤解も大きなウェイトを占めていそうだった。


 だから唯花のせいじゃないし、誤解から始まったことだとすれば、いつか葵ちゃんの心にも雪解けの日がやってくるはずだ。俺はそう信じている。信じたいと切実に願っている。

 

「……ね、葵ちゃんってどんな子だった?」

「可愛い子だったぞ。それに本当に伊織のこと好きなんだろうなって伝わってきた。そりゃもうがっつりと」

「そっか、良かった」

「しかし伊織に彼女ができるなんてなぁ……」

「先越されちゃったね、兄貴分さん」

「お姉ちゃんさんもな」


 はぁ、と二人同時にため息をこぼし、くくっ、と二人同時に笑みがこぼれた。

 無念さもあるが、それ以上にやっぱり嬉しさの方が大きい。

 俺たちの大切な伊織が輝かしい青春を送ってくれるなら、こんなに嬉しいことはない。


「伊織は? デレデレしてる?」

「してない、してない。のろけてる伊織なんて想像できるか?」

「だって、そもそも彼女持ちになった伊織が想像できないもん。どんなことだって起こりうるって思ちゃうよ、あたしは」


「どんなことって、たとえば?」

「葵ちゃんの肩を抱きながら、『奏太兄ちゃん、女ってのはさぁ……』って語っちゃう伊織とか」

「うっわ、ぜってーやだ! 今、サングラス掛けて革ジャン着てる伊織が見えた! 絶対いやだ、そんなの俺の伊織じゃねえよ……っ」


「ふっ、残念だったね。伊織はもはや奏太のものじゃない。葵ちゃんのものなのよ! つまり葵ちゃんの趣味によってはサングラス&革ジャン伊織も爆誕する可能性が大いにあり!」

「ぎゃーっ、やめてくれ! 葵ちゃん、それだけはやめてくれぇーっ!」

「はっはっはっ! 遅い! もう遅いのだよ! 聖杯はすでに満ちてしまったのだーっ!」


 弟の色恋話で大いに盛り上がってしまう俺たち。

 そうしてひとしきり高笑いを上げると、唯花はまたこてっと俺の首筋に頭を預けてきた。

 まだ笑みの気配を残しながら、けれど少しだけ淋しな色をにじませる。


「……みんな、変わってくんだね。普段は奏太のおかげで気にせずにいられるけど、この部屋の外ではちゃんと時が流れてる。こうして、いつの間にかみんなに置いてかれちゃうのかな……」

「置いてかれるのは嫌か?」

「……分かんない。でも……」


 感情が溢れて、首筋に額が押しつけられる感触。


「面と向かって、伊織に『おめでとう』も言ってあげられないのは……ちょっと悔しいかな」


 水面に雫を落とすように、その言葉は互いの心へ静かに響いた。

 俺と、そしておそらくは唯花本人にも。

 かすかな、けれど確かな変化を感じた。


 悔しい。

 伊織の顔を見て祝ってやれないことを。

 それが出来ない今の自分を。

 唯花は悔しいと言った。


 それは今までにない変化だ。

 唯花はさらにつぶやく。

 

「奏太、あたし……強くなりたい」

「どうして?」

「伊織に伝えたいの。伊織が幸せになってくれること、お姉ちゃんは嬉しいよって」

「そうか」


 流れるように黒髪を撫でる。


「なれるさ。その気持ちがあるなら絶対、唯花は強くなれる」

「なれるかな?」

「ああ。強くなりたいと思った時、もう人は強くなり始めてるんだ」

「暗殺チームの兄貴の台詞?」

「いや」


 首筋に視線をやり、唯花の目を見つめてにやりと笑む。


「伊織の兄貴分である俺の台詞」


 唯花が小さく噴き出す。


「つまり保証はどこにもないわけね?」

「そう、保証はないから頑張ってなんとかするしかない。俺とお前で一緒にな」

「……うん。だったらやったりますか」


 黒髪が揺れ、唯花は跳ねるように顔を上げた。

 そして、じっと見つめてくる。


「お願いがあるの。聞いてくれる?」

「なんだ?」

「……ちゅーして下さい」


 頬を染めておねだりする唯花さん。

 一方、苦悩させられる俺。


「……なぜ、そうなる?」

「これから頑張るためにエネルギー充電するの」

「今のハグ状態じゃ充電されないのか?」


「ハグで100%充電。ちゅーで120%充電なのです」

「過充電じゃねえか。電池壊れちゃうぞ」

「唯花ちゃん電池は壊れないのー。ねー、ちゅー、ちゅーっ」


 せがむように膝の上でジタバタする。

 倫理的にアウトなことばっかしてるって、葵ちゃんにお説教されたばっかりなんだが……。

 いやでもまあ、これから頑張るためだし、良い……か? 一応、伊織もまだ帰ってきてないことだし……。


「分かった、分かった。横向け、横」


 さすがに唇は『いかんぜよ』と思うので、唯花のあごに手を添えてくいっと横を向かせた。そして頬へ一瞬口づけする。

 途端、唯花はにへらと相好を崩した。


「えへへー」

「嬉しそうな顔をしおって……ご満足頂けましたか? お姫様」

「まだー。もっかいして、もっかい」

「もう一回!? これ結構恥ずかしいんだぞ」

「だって、まだエネルギー101%だもん。120%までもっと充電しなきゃだもん」

「あと19回しろってことか!?」

「嬉しい?」

「恥ずかしい!」


 えー、と唇を尖らせるワガママお姫様。


「しょうがないなぁ。じゃあ……あたしもしてあげるっ」


 言うが早いか、チュッと頬にキスされた。


「なっ!? なっ、おま……おまっ!」

「おー、言語に絶するとはこのことか、みたいな顔」

「い、いきなりすんなよ、いきなり!」


 顔がどんどん熱くなってくる。

 血圧も上昇し、胸の動悸が加速する。


「自分だっていつもいきなりするくせにー」

「そりゃそうかもしれんが……っ」

「ふふふ、動揺してますな、三上氏?」

「するわ! だって、その……お前からしてきたのなんて初めてだろ、たぶん……っ」


 柔らかい唇の感触が残る頬についつい手で触れてしまう。

 俺からキスしたり、キスさせられたりしたことは何度かある。


 でも唯花からしてきたことなんて今までなかった。そんなんどうしたって動揺する。だがあまりにストレートに言い過ぎたらしい。目の前の唯花も赤くなる。


「そ、そんなにはっきりと言わなくても……やめてよ、照れるじゃない」

「いや、お前がやったことだろうが!? そっちこそ照れたりしないでくれよ!? お互いにそんな感じになったら照れくささで死んでしまうわ!」

「じゃあ、死なないように慣れないとねっ。はい、あたしからもっかい! ――ちゅっ」

「わ、ばかっ」


 また頬にキスされた。

 照れくささが加速する。動悸も一気に加速する。いかん、このままでは本当に死んでしまう!


「調子に乗りおって……っ。お前もこの動揺を味わえ!」


 あまりに腹が立ったので、こっちもキスをし返してやった。連続で雨のように頬に触れる。


「きゃーっ! あはは、くすぐったいよぉ。お返しだっ、えい!」

「うおっ!? 危なっ!? 今、唇に当たりそうになったよな!? 気をつけろよ!?」

「気をつけてますー。奏太がビクッてするから危なかったんだよー。ふふ、このビビリさんめ」

「ビビッてねえし! 見てろ、このヤロー!」

「きゃははっ、ああっ、また連続はずるいよーっ。くすぐったーい!」



 結局、謎の勝負は伊織が帰ってくるまで続き、最終的に唯花のエネルギーは120%を大幅に超えて充電されていた。

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