エピローグ
エピローグ・1 使者なう
神聖暦752年花月中旬のある日。
冬が過ぎ、春になり、薄ら寒かったレイヨンの街もだいぶ暖かく、過ごしやすい気候になった。
そろそろジャケットはしまってもいいかもしれないな、そう考えながら俺は手元のスマホをいじる。
「えーと、芽月の宿泊者数は合計235人、売上総利益が353万2000ルフ、経常利益が85万0000ルフ、ってところか」
俺のスマホにはクレマンから報告されてくる先月の営業報告が届いている。
オーナー室のある管理事務所には大型の
ちなみにルフはチェルパで流通する通貨単位で、10円=1ルフだ。850万円の利益を計上した形になる。
俺とクレマンはオーナー・館長報酬として、この利益から1万ルフずつ貰う手はずになっている。
俺は一人身だし5000ルフでいいと言ったのだけれど、クレマンに押し切られてしまった。お陰で口座に貯まる一方である。
この世界の金銭感覚として、5000ルフで家族4人が一ヶ月不自由なく暮らせるくらいなので、旅館の3ヶ月目としてはなかなかいい具合だ。
ヴェノ特区市のヴァン・デルフィーヌが入浴料で軽銀貨3枚、つまり30ルフでやっていたのは、ある程度懐に余裕がある人間をターゲットにしていたからというのもあるらしい。
市民向けの公衆浴場は大体10ルフで入れるとのこと。
道理で外装から内装から派手な造りをしていたわけである。
実際、オープンしてから3ヶ月と半月ちょっと、温泉旅館「オオゼキ」は常に満室状態だった。
土日にあたる影の日と衝の日が満室になることこそ想定内だが、平日にあたる火の日から光の日にかけても宿泊客が途絶えることは無い。
予約も次々舞い込んできて、2ヶ月先の波月30日まで、予約でいっぱいだ。
「マコトさん、お茶が入りましたよ」
「あぁ、ありがとうございます」
家付きメイドの一人、ボニーが俺の自室へとお茶を運んできた。
入居して当初の昨年冬の時期こそ「マコト様」呼びでよそよそしかったメイドや使用人も、慣れた今は程よい距離感で接してくれている。
特にボニーは料理が上手く、俺は今ではすっかり、その腕前の虜になってしまった。先日「カツ丼を食べたい」と言って、随分困らせてしまったが。
「(そういえば、カツ丼とか卵かけご飯とか、しばらく食べていないな……米は結構手に入るんだけど)」
ボニーに淹れてもらったアグロ連合国産のグリーンティーを飲みながら、スマホに視線を落とす俺。
よしんばアグロ連合国には鮮度のいい卵があったりして、かつ丼に似た料理があったりしないかなぁ、いっそこのスマホで検索できないだろうか、などと思案しつつ茶をすすっていると。
廊下をバタバタと走ってくる音が聞こえた。そして開いたままの扉から、使用人のジュリアンが慌てた様子で駆け込んでくる。
「マコトさん、緊急のお手紙です!魔導省から!」
「魔導省から!?」
ジュリアンが差し出した手紙を、俺は奪い取るように手に取った。
魔導省が俺宛てに緊急の手紙を出す用件など、思いつく限り
封蝋を破って手紙を広げ、その内容に目を走らせる。
内容が頭の中に入ってきた瞬間に、俺は。
「うぉぉぉぉぉ~~~!!」
無意識のうちに手紙を握りつぶして、快哉の雄叫びを上げたのだった。
手の中でぐしゃぐしゃにされてしまった手紙には、簡潔にこう書かれていた。
――君の世界から、君を帰すための使者がやってきた。
――可及的速やかに、ヴェノ特区市の「異局」へと来ること。
俺はメイドと使用人にしばらくの間家を空けること、もし一月の間俺が帰らなかったらクレマンに頼ることを伝え、必要最低限の身支度を整えてヴェノ行きの馬車に飛び乗った。
今俺の手元にあるのはスマホ、そこそこの金貨に銀貨に軽銀貨、こちらの世界に来た時に持っていた通学用のカバンのみである。
服装については普段着にしている市民服だが、まぁこの格好なら
そうして馬車に乗ること一日。俺はヴェノ特区市の通りの石畳を、再びこの足で踏んだ。
思えばここに来るのも、「オオゼキ」オープンにあたって異局に情報を登録するために来た時以来だ。
ずっとレイヨンで暮らしていたから、街の喧騒がなんとも懐かしい。
そうして記憶を頼りに、街の入り口から異局への道を歩く。そうして異局の石造りの建物の前まで来た俺を出迎えたのは、意外な人物だった。
「へ……陛下??」
「おぉ、マコトよ。久しいな、健勝なようでなによりだ」
そう、神聖クラリス帝国皇帝、エドゥアール8世である。
そしてその傍ら、エドゥアール8世の隣に立つ犬の
しかし、この女性が
図案がプリントされたUネックのTシャツに、パーカーに、デニムのスカート。
Tシャツからクリーム色の毛が生えた首が覗き、頭部がレトリバー犬のそれでなければ、スカートの上から尻尾が生えていなければ、東京でごまんと見る若者の姿だっただろう。
ファンタジー世界まんまな存在が、地球まんまの服装でそこに立っている。ミスマッチなはずなのに、違和感無く着こなしていて逆に只者じゃない。
俺はエドゥアール8世へと、疑問符を頭上に浮かべんばかりの表情をしながら顔を向けた。
「まぁ、私はこの通り健康ですが……それで陛下、こちらの方は?陛下のお知り合いで?」
「おぉそうか、マコトは知らなんだな。
彼女はジーナ・カマンサック。大陸東方のシュマル王国の人間で、今回その方を地球より迎えに来た者だ。
およそ三年前より、
「はぁ……は!?」
エドゥアール8世の言葉に、俺は顎が外れそうになった。
チェルパの人間が。犬の
いったい何をどうしたらそんな状況になり得るのか。さっぱり訳が分からない。
目を白黒させる俺を見て、女性――ジーナが小さく肩をすくめた。
「そりゃーそうよね、私だって俄かには信じられないわ。
まぁ、新宿区役所の臨時職員ってやつよ。そのお陰で、私もこうして大手を振って貴方を迎えに来ることが出来るんだけど」
あっけらかんとしたジーナの発言に、俺は完全についていけていなかった。
彼女の弟というからには、弟さんもチェルパの、シュマル王国出身の人間で、犬の
そういう立場の人なら日本の役所の転移課と繋がりが出来るのも容易に想像ができるけれど。
口をぽかんと開けたまま突っ立っている俺へと、ジーナがずいと顔を近づけてきた。
そしてアーモンド形の目を俺にまっすぐ向けて、口を開く。
「で、シュマルの王室と、クラリスの皇帝家に問い合わせたら、クラリスのレイヨンで普通に生活してるっていうじゃない?
こうして居場所も分かったことだし、帰らせるための環境も整ったってことで、こうして迎えに来たわけね。
どうする?
ジーナの簡潔明瞭な問いかけに、俺は。
答えに窮し、口を開くことが出来なかった。
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