第6話(後編) 遭遇と対面



「あああーもう!」


 真依は、周囲を気にして音量を抑えつつ、吐き捨てるように呟いた。


 凛の言うところの宣戦布告から1週間が経過していた。しかし、特に変わった動きはなく、この嘆きの原因は別のところにあった。



ーーもう、なんで終業前になってこんなことを言うのよ。



 来週の月曜日までにまとめるよう言われていた資料を、明日の始業時に欲しいと言われたのだ。


 全く手をつけていない訳ではなかったが、それでも物事には順序があり、この資料は明日完成させる予定だった。



ーー絶対忘れてたんだから。



 上司の気まずそうな表情を思いだし、真依は思った。あの顔は、資料が急に必要になって焦っているというより、うっかり言うの忘れていた、というものに見えた。




 時計を見る。終業まであと20分。残業は確定だった。



 ここまできたら焦っても仕方がないので、コーヒーでも飲んで落ち着こうとフロアを出て休憩室へ向かう。



 自動販売機の前に立ち、普段はあまり選ばないカフェオレを選ぶ。糖分を摂取したい気分だった。


 机に戻る気が起きなくて、椅子に腰を下ろす。一口ふくむ。温かいカフェオレが喉から胸に染み渡る。


それでも



ーーやっぱり缶コーヒーだと物足りないなあ



 本当は、佐野の店に行く予定にしていたため、余計に物足りなさを感じてしまった。





 最後の一口を飲み終わった。



ーーよし、やるか!


心の中で気合いを入れて真依は自分の席に向かった。



「あれ、石井くん。」


 フロアには、石井がいた。


 真依の部署があるフロアでは、定時帰りが推奨されているため、誰もいないと思っていた。



「帰らないの?」



「あ、うん。これをまとめたら帰るよ。」


 簡単なやり取りを済ませる。


 今日は、他にも数人フロアに残っていた。明日急に資料が必要になったのは真依の部署だけではないのかもしれなかった。




ーー疑ってごめんなさい


 思わず心の中で上司に謝って、真依は資料づくりを始めた。




◇◇◇◇◇◇



「ねえ、木原さん」



 作業を始めて1時間が経とうとしたとき、石井が真依に声をかけてきた。フロアは石井と真依だけになっていた。


「うん?」と真依は振り返る。


 石井と真依は部署は違うが、実は席は近い。

 お互い反対を向いた配置であるため、いつもはそれほど意識しないが、振り返れば席を立たなくても会話ができるほどだ。





「木原さんは、白木が好きなの?」




「……うわぁ」

 前置きも何もないストレートな質問に、真依は驚きの言葉を口から漏らしてしまった。



「茅野さんにも尋ねたんだけど、やっぱり直接聞きたくて。」


と石井はいう。


 本人に確認をとる生真面目さに、石井らしさを感じた真依だったが、その様子を見ると、表情はどこか緊張しているようで、そわそわしているようにも見えた。


 いつも冷静で、落ち着いている印象の石井が、こんなふうになるなんて、恋ってすごい、と他人事のように思った真依だったが、他人事ではない。


 この質問は真依に向けられているものだからだ。



「……どうかしら。正直分からない……けど、もっと知りたいと思っているわ」


 誤魔化すでもなく、建前でもなく、正直に答えてしまったのは、石井につられたのだろうか。



 真依の答えを聞いた石井は、


「じゃあ僕も、もっと知りたいと思ってもらえるように頑張らないとね」


と言った。そして、


「白木に、君には負けないって言ってしまったんだ」

と言う。



ーー本当に正直な人



 思わず微笑んでしまいそうになったが、


「参考までに教えて欲しいな、僕と白木は何が違ったのかな?」


続けられた質問に真依は困ってしまった。


 真依が石井の告白を断ったことを言っているのだ、ということはすぐにわかった。


「違い……」


 白木と「付き合って」いるのだって、半ば勢いに押されて思わず、という感じがある。白木が良くて、石井が駄目といった話では決してない。



 黙ってしまった真依に石井は言う。


「ああ、いいんだ。無理に聞きたい訳じゃないから。」


 よっぽど困惑した表情をしていたらしく、


「混乱させてごめんね。」


と石井は言った。



 そして、



「じゃあ、お先に。」


 そう言ってフロアを出ていった。



 そんな石井を見送って、真依は考えた。



ーーごめんね、なんて。あなたの問題というより、私自身の問題なのに。




 人を好きになれないから。

 好意を向けられても同じ想いを返せない。だから寄せられた好意も素直に受けとることができない。そして、そもそもその事に耐えられない。



 人と付き合えないのは、相手がどうということより、こんな自分の問題なのだと真依は思っていた。



だから、



ーー白木くんとのこの関係も、そのうち後悔することになるかもしれない。



 そんなことまで考えてしまい、真依はうぅー、と伸びをして首をふった。



ーーだめだ。考えるのはやめよう。



 こんなことを考えていてもどうにもならない。今やるべき仕事があることがありがたかった。


 パソコンを見る。あと一息だ。30分ほどあれば終わるだろう。


 真依は、手元の資料とパソコンの画面に意識を集中させることにした。




◇◇◇◇◇◇


ーー終わった。


 真依はパソコンの画面を見返して安堵のため息をついた。あとは、明日の朝にもう一度見直して提出すればそれで良いだろう。



 とりあえず印刷し、他の資料とともに引き出しにしまう。


 パソコンも電源をきり、帰る準備をしていると、


「あぁ、良かった。まだいた」




入り口の方から声がした。




「コーヒーのお届けです」



 ちょっとおどけた口調で入って来たのは、白木だった。



 佐野の店のロゴの入った紙袋を持っていた。


 白木は真依の隣の机の椅子をひいてそこに座る。持ってきた袋から、保温機能のある大きめのタンブラーとサンドイッチを取り出して、机に並べた。


「飲みたいかなって思って」


 そう言って、さらに取り出した紙コップにタンブラーの中身を注ぎわけ始める。コーヒーの良い薫りがあたりに漂い始めた。


ーーまったく、どうしてこんなことを思い付くのかしら。



 苦笑しながら尋ねる。


「もし居なかったらどうするつもりだったの?」



「まあ、その時は僕が2人ぶん美味しく頂くよね」


 白木らしい回答に、気持ちがふわっと軽くなる。


ーーこれだから、飽きないなあ


ふふふ、と笑いがもれる



「え、なに?」


突然笑いだした真依に白木が驚く。


「なんでもないわ。ありがとう」





 私は今の状況に結構満足しているみたい、と真依は思った。



 もう少しの間、この心地よさの中にいたいと思った。石井とのやり取りで生じた少しの不安は蓋をして、心の奥にしまいこんだ。



 夜の会社で飲んだコーヒーは、休憩室で飲んだものとは比べ物にならないくらい美味しかった。



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