今際の際・命尽きるその時まで
好きな人と結婚して家族になり、2人の息子に恵まれ、その息子たちも大きくなりそれぞれ家庭を持った。
すっかり年をとった私は、夫と2人で過ごす生活を送っていた。仕事でバリバリ才覚を現していた彼は今では前線から引き、相談役というポジションに収まってから一緒にいられる時間も長くなった。
……私はずっと幸せだった。こんなに幸せに恵まれていいのかと問いかけたくなるくらい幸せだった。
願わくば、死ぬその瞬間まで愛する人のそばで穏やかに死に逝きたいと思っていた。
…だけどそんな私に病魔がじりじりと忍び寄っていた。
エリカちゃんの実祖母の鈴子お祖母さんと同じ病気にかかってしまったのだ。
未だに完治する確率の低い難病で、投薬するには年齢が高すぎて難しい。医師から痛みをなるべく和らげる対症療法をすすめられた私は、とてもつらい闘病生活を味わうことになった。
鈴子お祖母さんの場合は若かったこともあり、進行が早かった。……結局彼女は治療薬の副作用で亡くなったと聞いた。
この身体は老年の粋を超えて、すっかりおばあちゃんになっていた。
地獄で見せられた閻魔帳。享年17歳だった私とは違い、エリカちゃんは享年が80歳だったはず。
エリカちゃんは病気で亡くなる予定だったのか。
…こんな苦しい思いをするのが彼女でなくてよかった……体の細胞という細胞に苦痛を与えられ、悲鳴を上げたくなるほどだ。これでも薬で痛みを抑えているのだが、苦痛の全てを無くすことはできない。
容赦なく病魔は老いた身体を侵していく。
未だに完治が難しい病気。絶望し、苦痛に耐えかねて命を投げ捨てる人もいるらしい。
私は既のところで耐えていた。
耐えられたのは多分、この身体がエリカちゃんに頂いたものであること、そしてなによりも──私の側に、彼がいてくれたからだ。
「…辛いか?」
ぎゅ、と手を握られた。私が視線を向けると、若かった頃とは違い、年をとってシワだらけになった慎悟が心配そうに私を見ている。
この身体で一緒に年をとってきた彼は、私が苦しむ姿を見て自分のことのように苦しそうな表情をしていた。
「…ごめん、ね。慎悟よりも先に逝くことになっちゃうね」
「……」
握られた手に力を込められた気がしたが、痛くはない。病魔に蝕まれた身体のほうが痛くて、感覚が鈍くなっているみたいだ。
慎悟は泣いていた。
泣きそうになる顔を見たことは何度かあるが、顔を赤くして子どものように泣きじゃくる姿は初めて見た。もうすっかりおじいさんなのに彼が幼い子どものように見えた。
本当は彼を置いて逝きたくはなかった。
インターハイの舞台で私は一度、自分が死ぬ瞬間を彼に見せてしまったのだ。再び彼にそれを見せてしまうのはあまりにも酷すぎる。
私は気づいていた。
彼は朝目覚めたら、私が生きているか、温もりがあるか、呼吸を確認することを。
彼が、私の死を恐怖していると。
「…頑張る。一日でも一時間でも、限界まで頑張って長く生きる。…だから泣かないで慎悟」
重い体を叱咤して起き上がろうとすると身体に激痛が走る。悲鳴を口の中で押し殺して痛みを堪えた。腕を持ち上げて彼の涙を拭ってあげると、慎悟は両腕を広げて私を抱きしめてきた。
泣きやめって言っているのに、彼は更に泣いてしまった。
それからいろんな手段を使って私は一日でも長く生きられる努力をした。
別の病院に行ったり、保険適用外の治療を受けたり、空気のきれいな街へ引っ越したり。海外の医療を試したこともある。
閻魔帳に載った寿命に抗って、私は余命宣告を受けた期間を大幅に超え……年齢は82に差し掛かっていた。
病気は辛かった。けど、穏やかな日々だった。
その頃には慎悟も仕事を完全に全て息子たちに任せて、私と一緒に過ごす日々を送っていた。
もう私には時間がないと彼も悟っていたのだ。
容態が悪化して、私の意識が混濁することが増えた。寝たきりになることも多く、日付感覚が狂い、私の記憶も飛び飛びになってしまっている。
今までは家で過ごすことを重視していたが、とうとう入院となってしまった私はみるみるうちに衰弱していった。
「…これ以上の延命はお勧めいたしません。私どもに出来るのはここまでとなります……お別れの挨拶を」
医師の言葉に家族たちが息を飲む気配が伝わってきた。もう薬や機械でも症状を抑えられなくなったのだろう。
私は意識を繋ぎとめるのがやっとだった。痛いとか苦しいとかの感覚が麻痺してしまっている気がする。
……そうか、もうこの身体も限界か。
「母さん…」
長男の
「…っ」
次男の
病室の外には彼らの家族も待機している。私達に気を遣って退室してくれているのだ。
…ここで泣くな、悲しむなと言うのは無理な話なのだろうか。
「……悠悟、英知……最期は母さんと2人にして欲しい」
「…はっ!? 何言っているんだ父さん!」
「…わかった。…行くぞ英知」
「ちょっと待てよ兄さん!」
慎悟の頼みに次男がカッとなって反発していたが、聡い長男が頷き、弟を半ば強引に病室の外に連れ出して行った。
ああいうところは父親の慎悟にそっくりだ。
大きくなっても可愛い二人の息子。“私”とは血の繋がりがないが、お腹を痛めて産んだ可愛い息子たち。彼らとこの世で出会えたことは私の幸せのひとつだった。
私が寝ているベッド横で椅子に座っていた慎悟は息子たちが出ていったのを確認すると、私をじっと見つめてきた。
命を繋ぎとめるための管に繋がれたこの身体はこれまでの闘病によって年齢以上に老けてしまった。一緒に歳を重ねたはずなのに、彼よりも大分年上に見えるはずだ。
「──先に逝くなと言ったのに」
「…頑張ってここまで生きたんだから、褒めてよ」
そんな手厳しいことを言わないで欲しい。努力を認めてくれ。
それにしても身体が辛い。声を出すのもそろそろ難しくなるだろう。私は力なく、ふぅ…と息を吐き出した。
色んな事があった。
…あっという間の人生だった気がする。辛いこともあったけど、その代わりに数え切れないくらいの幸せを得ることが出来た。
……これで何の悔いなく、逝けそうな気がしたけど……こんな時なのだが、私が思い出したのは彼女のことであった。
「……私ね、最初から最後まで…エリカちゃんの笑顔を見たことがなかったの」
どうしても彼女を思い出すと、あの泣き顔が目に浮かぶ。
彼女に押し付けられるような形で与えられた第二の人生。……私は、彼女に恥じない人生を生きられただろうか?
自分がこの一生を終えたら、バレーに恵まれた環境への転生を約束されている。だけど、彼女はどうなんだ?
裁判を受けていない彼女のその後。生まれ変わっていたら、と希望を持って探し続けたけど見つけられなかったのだ。
「…転生した自分に記憶がなくても…彼女を探し出して、今度こそ友達になってみせる。……エリカちゃんの本当の笑顔を見てみたい」
あんな別れ方で終わりなんて嫌なんだ。
彼女と再会できたら、自己紹介して、友達になろうって言うんだ。
もう二度とあんな悲しい出会い方、悲しい別れ方はしたくない。
「そこは俺とまた会いたいとは言わないのか?」
慎悟のいじけたような言い方に私は小さく笑ってしまった。
「慎悟は100まで長生きするの。だから…私のことを追いかけてこないでね」
後追いとかしたら許さないからね。生きて生きて、生き抜いて。
……もう目が見えない。声を出すのもきつい。彼が静かに泣いているのは気づいていたが、もう涙を拭ってあげるほどの力がない。
ごめんね、私は病に負けて君を置いていってしまう。本当はまだ君のそばにいたいけど、もう限界みたいだ。
最後の力を振り絞ってささやく。
「…でも、また巡り会えたら…一緒になろうね…」
弱々しいささやきだったけど、慎悟にはちゃんと届いたはずだ。
その返事で強く、手を握られた気がした。
私は安心して、ゆっくりまぶたを閉じた。
「…おやすみ、笑さん」
優しい、優しい彼の声がだんだん遠くなっていく。
別れは辛い。まだまだ彼と一緒にいたかった。辛くて、苦しいのに、何故か心は穏やかだった。
私にこんな穏やかな死が訪れるなんて……ううん。きっと慎悟が、家族が最期まで寄り添ってくれたからだ。
ありがとう、慎悟。
ありがとう、みんな。
みんなみんな愛している。私は幸せだった。
私は再び、真っ暗な世界にたどり着くのだろうなと思ったのだけど、次に目が覚めると眼前に見たことのあるような人が立っていた。
「お疲れ様、松戸笑さん」
閻魔大王だ。
あれから60年以上経過しているのに、彼は全く老け込んだ様子がない。
地獄の中では時間の流れが違うのであろうか。
「予定よりもだいぶ粘りましたね。寿命を気合で伸ばす人は珍しいですよ。…病気の身体では生きている方が辛かったでしょうに」
閻魔大王の秘書っぽい鬼も健在だ。鬼というのは不老不死なのであろうか。あの頃と全く変わっていないぞ。
寿命を伸ばして予定よりも長生きしたことを責められるかと思ったけど、彼らは一切責めてこなかった。
「さて、こちらの警備上の不手際で、あなたの転生を先延ばしにして“二階堂エリカ”として生を全うしていただきましたが……」
「君は既に裁判が終わっているから、そのまま閻魔庁まで来てもらったよ。待ち時間なく、そのまま転生の輪に入れるように手配したからね」
無駄な話は必要ないとばかりに、彼らは要件だけを持ち出してきた。準備は万端のようだ。
「約束通り、バレーに恵まれた環境に転生できるようにしているからね」と閻魔大王に言われた私だが、すぐにはうなずけなかった。
以前の私なら迷わずに飛びついたはずだけど、今はバレーの他にも最愛の存在が出来てしまったからであろうか。
「…あの、それ、ちょっと待ってもらって、地獄で待機する許可をいただけませんか?」
「? 何故ですか?」
秘書鬼が不思議そうに首を傾げてきた。
多分、以前の私が無理やりクーリングオフされそうになっている時に、バレーがしたい、転生したいと最後まで暴れていたのを見ていたからであろう。
だけどね、時が経てば人の気持ちは変わってしまうものなのだよ。
「待ちたい人がいるんです。ああ見えて寂しがり屋だから、彼がここに来るのを待っててあげたいんです」
何年でも待ってやる。
冥土の土産を楽しみに待っていてやるから、せいぜい100まで長生きしてよね、慎悟。
今は離れ離れだけど、またきっと君の手を掴んであげるから。
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