私、亡者。彼女、金の亡者。
多分、一握りの期待があったのだろう。母親が自分に会いに来てくれた、自分は母親に愛されているのだと。
瑞沢嬢は愛されることに飢えているから。
「…いくら、いるの?」
瑞沢嬢は弱々しい声で尋ねた。まさかお金を渡すつもりなのだろうか。
相手は【貸して】とは言っているが、その金は絶対に返されないであろう。それに一度貸せば、何度も無心されるはず。これ、松戸家の親戚のおじさんがボヤいていた受け売りなんだけどね。
しかも場所が学校だ。瑞沢嬢はただでさえ微妙な立ち位置にいる。なのにこんな場所で堂々と金の貸し借りなんてしたらまずいだろう。
「瑞沢さん!」
仲良く出来ないと彼女にキッパリ宣言した私だけど、瑞沢嬢が自ら泥沼に足を踏み入れようとするのを見逃すことは出来なかった。
「…二階堂さん…?」
私の声に反応した瑞沢嬢はぽかんとした顔でこちらを見てきた。
その母親にお金を貸したら、これがずっと続くんだよ。ダメだ、また地獄に足を突っ込むことになるんだよ。
「お金の貸し借りはダメだよ」
「…なによアンタ…」
動揺した瑞沢嬢と舌打ちしかねないしかめっ面をしたおばさん双方から視線を受けた私は、2人の元へ大股で近づくと、瑞沢嬢の二の腕を掴んでおばさんから引き剥がした。
彼女を背中に隠すと、学校のカバンに手を突っ込んで財布を取り出す。お札入れに入っていた紙切れを掴んでバッとおばさんに差し出した。
無論、それはお金ではない。
「お金に困っているのなら、この割引優待券を差し上げます。食料品が3000円分まで30%オフになりますよ。…少しくらいは食費が浮くのではないでしょうか?」
「…要らないわよそんなもの!」
だめか。…食堂のおばちゃんはめちゃめちゃ喜んでくれたのにな。二階堂グループが出資しているスーパーで使える割引優待券なのに…
それにしても娘を売っておいて、更に金の無心とはどんな神経してるんだこのおばさんは。
「…お金が必要なら働けばいいでしょう。何故今更になって娘に金を無心しに来ているんですか? あなたはまだまだ働けるでしょう。…高校生の娘に金をせびって恥ずかしくないんですか?」
世間の人はあくせく働いて生活しているんだよ。うちの両親も二階堂パパママも経済力に差はあれど、毎日頑張って働いているのだ。
働けない事情がある人は仕方ないけど、おばさんは普通に立って騒ぐ元気があるんだから余裕で働けるでしょう?
大体…このおばさんは自分が娘にしてきたことを忘れたのだろうか? 散々ネグレクトしておいてどの面下げてるのかな?
「うるさい! そもそもあんた誰よ! アタシはそこにいる姫乃の母親なのよ! 瑞沢コーポレーション社長の娘の母親なの!」
「いやー…親の肩書でドヤ顔するのダサいんで、そういう風に名乗るの嫌なんですけど…」
「ふん、どうせ大したことない会社の娘なんでしょうが! 名乗るのが恥ずかしいなら最初からそう言いなさいよ!」
大したことある会社だとは思っているけど、このおばさんに名乗る理由もないし、私はすごい家のお嬢様に憑依した立場だから、その名を水戸の御老公の印籠として掲げるのはちょっとねー…。
会社に迷惑掛けてしまうかもだし、あと単純にこの人に名乗るのがなんか嫌だ。
「二階堂さん…」
おばさんにどうやってお帰り願おうか考えていると、後ろから声をかけられた。
「…ママはヒメに会いに来てくれただけよ」
「え…?」
「ヒメは二階堂さんに迷惑を掛けたくないの…大丈夫」
弱々しい声だった。今にも泣き出してしまいそうな声音だった。
瑞沢嬢はそう言って私の横を通り過ぎると、おばさんにゆっくり近づいた。
「…ママ、話は学校の外で聞く。外に車が待っているから行こう?」
「なんなのあの生意気なガキは! 姫乃、友達は選びなさいよ!」
「…二階堂さんは、お友達じゃないの…」
沈んだその声にズキッと良心が傷んだ。自分が交友を拒否しておいてなんだが……『友達じゃない』と悲しそうに呟いた瑞沢嬢に罪悪感を覚えた。
……ちょっと待てよ? 瑞沢嬢は母親にひどい扱いを受けてきたのに、ここで2人きりになんてなったらまずいだろう。次はもっとひどい目に遭うかもしれないのに。
「瑞沢さん! ダメだよ行ったら!」
お金をむしり取られることはもちろんだが、また暴力を振られるかもしれない。
私は瑞沢嬢を止めようと彼女の腕を掴んだのだが、手の甲にガッと爪を立てられた。
その手は、私のお母さんのように毎日家事やパートの仕事で追われている働き者の手ではない。日々ハツラツと仕事をしている二階堂ママの手とも違う。
真っ赤なネイルが毒々しい、青白い肌に骨の浮き出た手である。
ガリガリッ…
「いっ…!」
「邪魔するんじゃないわよ…!」
鋭く尖らせたその爪が手の皮膚に食い込んだ。猫のように思いっきり引っかかれて、皮膚に真っ赤なミミズ腫れが出来る。
皮まで持っていかれそうな引き攣った痛みに、私は顔を顰めて手を引っ込めた。
「苦労も知らないお嬢ちゃんが! 偉そうに他所の家のことに口出しするんじゃないよ!」
「ママ止めて!」
傷つけられた手を抑えて呆然とする私を瑞沢嬢の母親は怒鳴りつけてきた。
物凄い形相だ。それだけで相手の怒りがすごいものであると判断できる。…近づいたら手を引っかかれる以上の危害を加えられるかもしれない。
自分の母親や二階堂ママと同じ母親世代なのに、その割に彼女は精神が幼稚だと感じる。まるで幼児がおもちゃを取り上げられて癇癪を起こしているようである。
瑞沢嬢の母親から色々口汚く罵られたが、私はその勢いに飲まれて固まっていた。
「ママ、もう行こう!」
私が呆けている間に瑞沢嬢は母親の手を引いて入門ゲートを通過してしまった。
…いやいや! 警備の人もさ、ぼさっとしてないで止めなよ。今ので危ない人だってわかったよね?
なんなのあのおばさん。猫かよ。
「瑞沢さん待って!」
我に返った私は、2人を追いかけようと飛び出したのだが、何者かに背後から腕を掴まれて引き留められてしまった。
振り返ればそこには、中性的な美貌を持つ少年が私を渋い顔で見下ろしていた。私の腕を掴んで止めたのは慎悟だった。
私がサッと首を動かして瑞沢嬢の姿を目で追うと、駐車場の方に向かって歩いている姿が確認できた。
「瑞沢さん!」
大声で名前を呼んでも彼女は振り返らない。慌てて慎悟の手を振り払おうとしたけど、離してくれない。
「慎悟、今取り込み中なの、離して!」
「あんたが行ってどうする。それよりも警察と瑞沢家に連絡したほうがいい」
「なにを悠長なことを言ってるの! 瑞沢さんはあの母親に…」
呑気なことを言ってくる慎悟にイラッとして、瑞沢さんの母親のことを言おうとしたが、あの事を知っているのは多分私だけだ。
瑞沢さんだって、あの事を不特定多数の人に知られたいとは思っていないはず。赤の他人に話していい話ではない。
発言をやめて黙り込んだ私を、慎悟は訝しんだ表情で見下ろしていた。
遅れて警備員さん達が駐車場まで追いかけたが、瑞沢家の車はもうすでに瑞沢嬢と母親を乗せて発車した後だったそうだ。
バタバタと学校の関係者に連絡をしている姿を私はぼんやりと眺めていた。「車の運転席には瑞沢家の運転手がいる。すぐに害されることはまず無いだろう」と慎悟が言っていたが、私は安心できなかった。
私は悔しかった。自分が情けなかった。瑞沢嬢の事情を知っているくせに。一度は止めに入ったのに、私は彼女を止めることが出来なかった。…ひどい虐待をしていた相手でも、彼女の実の母親だ。彼女にとってはかけがえのない人なのだろうか…。
「…笑さん、手の甲を手当した方が良い」
「…かすり傷だからいい」
「血が滲んでいるだろう。このままじゃ傷痕が残るぞ」
爪の中は汚いんだ。細菌感染するかもしれないと慎悟から説明を受けたが、私は怪我どころじゃなく、瑞沢嬢の安否が心配で仕方がなかった。
正門の周辺は騒然としていた。生徒たちは帰りながらヒソヒソ話で私を見てくる。だがその視線もあまり気にならなかった。
なぜなら、そんなことよりも瑞沢嬢のことが心配だったから。私は彼女の苦しみを知っている。…私は瑞沢嬢と同じ体験をしたわけではない。だけど、人に理解されないという苦しみは誰よりもよく知っていたから。
「瑞沢は大丈夫だよ」
「……」
慎悟に手を引かれて校舎に逆戻りすると医務室に連れて行かれた。常駐している医務室の先生に手当てをされ、その後駐車場で待っていた二階堂家の車の前まで慎悟が送り届けてくれた。
車に乗り込む際に、慎悟が運転手さんに声を掛けた。
「この人が寄り道を頼んできても、今日はまっすぐ家まで送り届けてください」
「…慎悟? あのさ、瑞沢さんの居場所がわからないのに当てもなく捜索するわけ無いでしょ?」
「…どうだろな。あんたはあんたのやるべきことがあるだろ。瑞沢のことは大人たちに任せて、あんたは首突っ込むなよ」
そう言って車の扉を閉めてしまった。私はまっすぐ家まで送られ、家に到着したのだが……勉強する気は起きずに、制服姿のまま部屋の天蓋付きベッドの上に大の字になって倒れ込んだ。
私がやるべきことは…勉強だ。
それはわかっているんだ。
だけどなんかもやもやする。
■□■
翌日は土曜日だった。もうすぐテストがあるため、学校も部活もない。
その日は朝から勉強する予定だったけど、手の甲のケガのことを知った二階堂ママが病院へ行ってこいと言うので、午前診察をしている皮膚科に来ていた。
今日の服装は黒のロングパーカーにスキニーデニム、スニーカーというボーイッシュスタイルである。正直とても楽だ。少年っぽい帽子を被ったボーイッシュなエリカちゃんも違う味が出てとても可愛い。
皮膚科に到着すると、休日だからかとても患者が多かった。朝イチで行ったけど、全て終わったのは昼過ぎである。来た時に二階堂家の車を一旦帰しておいてよかった。
お腹ペコペコ状態の私は近場でランチをしてから、車を呼んで家に帰ろうと考えた。家に帰るとテスト勉強しないといけないので、ちょっとした現実逃避とも言える。
肩に提げている鞄の中には財布やスマホの他に、薬局で処方された塗り薬と、ママに言われるがまま取った診断書が入っている。これは…瑞沢家に抗議するのだろうか。やったのは元愛人だけど、それでも瑞沢家に言うのかな。
昨日の事を考えると胃が重くなった。瑞沢嬢は無事なのだろうか…あの後ちゃんと家に帰ったのだろうか。
宝生氏なら瑞沢嬢の連絡先を知っていそうだけど、私は宝生氏の連絡先を知らない。つまり月曜日まで無事が確認できないのだ。慎悟は大人に任せていろとか、大丈夫だって言うけどこの目で見ないと安心できないんだよ!
……何も出来ない状況で悩んでも仕方がないな。気を取り直してお昼ご飯だ。
こんなに憂鬱な気分の時こそカレーを食べよう。車で病院に向かっている途中で繁華街を通過していた。こういう場所の裏路地とかにインドカレー店があったりするのだ。開拓がてら探索しに行こうと、私は繁華街目指して歩き始めた。
「ま、ママ…ここは?」
「あんたはアタシに似て顔はいいからね…本当は中学生の方が高く売れるんだけど、高校生でも需要があるみたいよ」
何の因果なのであろうか。
私はカレー店を求めて繁華街に足を踏み入れただけなのだが、そこで別のものを発見してしまった。
「おう、ここだ…おぉ、中々の上物じゃねぇか」
「この子が稼いでくれるわ。ほら色つけてよね…」
女は少女を乱暴に突き飛ばすと、男に手のひらを差し出した。まるでお金を請求するかのように。
アホな私でもわかった。あのおばさん、また娘を売る気なんだと。
どうしようと悩む時間はなかった。瑞沢嬢は愕然として、逃げる気力を失っている様子だ。
ここは繁華街でゴチャゴチャした町並みだ。ちょっと奥の方に入れば、大人が遊ぶ如何わしいお店があって、その中で瑞沢嬢はそういう事をさせられそうになっているのだろう。
悪い大人に連れて行かれようとしている瑞沢嬢はフラフラしていた。
まだ日中のため、その辺りは閑散としている。私の地元では無いので、生憎この辺りの地理には詳しくない。
慎悟は大人に任せろと言っていたが、全然だめじゃないか。そもそも現・保護者の瑞沢父はクズなんだから全く役に立たないよ。
…ここで見逃してしまったら、私は一生後悔する気がする。
ここ最近役に立っていなかった録音レコーダーを鞄から取り出すと、スイッチを入れてパーカーの前ポケットに突っ込んだ。
…よし、これでいい。
私は自分の心のまま、そこに突撃した。
飛び出した私は、彼らの行く道を通せんぼするかのように立ちはだかると、大きく息を吸ったのだ。
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