瑞沢姫乃の生い立ち【瑞沢姫乃視点】


『まま…おなかすいたよ』

『うるさい! …あんたのせいよ…あんたさえいなければ、あたしはこんな惨めな思いをすることはなかったのに…!』

 

 ヒメはママのことが好きだったけど、ママは違った。ヒメが生まれたせいでママは不幸になったんだっていつも言っていた。

 ママに振り向いてもらうにはどうしたらいいのか、ヒメは一生懸命考えた。

 でも、ママはいつまで経ってもヒメを見てくれることはなかった。


『いつ…いつ奥さんと別れてくれるの…?』

『そう簡単には別れるわけにはいかないんだ…』


 ヒメのパパはヒメがまだ小さい時はよく家に来ていたけど、ヒメが小学生になった頃から来なくなった。奥さんとの間に子供が生まれたんだって。

 だからママとヒメは用済みなんだって言ってた。


 ママは夜のお仕事に出るようになった。いつもお酒とタバコの臭いをさせてイライラしていた。

 そして違う男の人を家に連れて来て、ママと部屋に引き篭もるようになったのも丁度この頃。

 部屋の外まで響いてくるママの声。ヒメは子供ながらに聞いてはいけないものだとわかっていたけど、数を重ねるとその声に関心が無くなっていった。


 ママは恋多き女だった。お客さんである男の人と身体の関係を持ちながら、恋をして、遊びだと知って傷ついた。その度に荒れて、ヒメは八つ当たりの対象になっていた。

 怒鳴られたときに口答えしちゃ駄目なの。余計にママが怒っている時間が長くなるから。ヒメはいつも身を縮めてママが落ち着くのを待っていた。


 ヒメはいつもひとりだった。

 小学校でも水商売している母親の娘だからって友達がいなくて…ひとりぼっちだった。

 たまに声を掛けてくれるクラスメイトはいたけど、他の人に止められて声を掛けてくれなくなった。

 小学校を卒業して中学生になると、ヒメの家に来るママのお客さんがヒメに洋服を買ってくれたり、ご飯をおごってくれるようになった。

 ヒメは嬉しかったの。こんなに優しくされたことは今までになかったから。

 そして学んだ。男の人が好む女の子を演じたらきっとヒメはひとりぼっちじゃなくなるって。

 側にいてくれる。優しくしてくれるって。


 ママのお客さんの中で一番親しくなっていたおじさんがうちに来た時にヒメをお膝に乗せてくれた。ヒメはパパに抱っこされたことがないからお父さんがいたらこんな感じなんだろうなって、そのおじさんのことを慕っていた。


 だけどそうじゃなかったらしい。

 それを見たママが金切り声を上げて、ヒメの髪を引っ張りながら罵倒してきたの。ママはヒステリーを起こしながら、ヒメを詰ってきた。…それでやっと理解した。

 おじさんはヒメをママの代わりにしようとしていたんだって。ヒメはママにたれて蹴られた。


『なんであんたみたいなガキに! あんたなんか産むんじゃなかった!!』


 いつも綺麗にしているママは髪を振り乱して半狂乱になって叫んでいた。

 …おじさんは、ママよりもヒメのほうが可愛いって言ったもの。ママよりも好きだって言ってくれたもの。だから仲良くしていたのに何が悪いの?


 ママが怒っている姿を見てしまったおじさんは家に寄り付かなくなった。だけどヒメの学校帰りに迎えに来てくれて、ご飯をおごってくれたり、洋服を買ってくれた。それにお小遣いもくれた。

 …ママが男の人としていることをヒメもおじさんにされたけど…ヒメのことを愛してくれるなら構わなかった。

 可愛いって、好きだって言ってくれたもの。


 ヒメは愛されたいの。

 ひとりぼっちにはなりたくないの。



 ママが酒浸りになって、お仕事にも行かなくなってしまってからお金がなくなったけど、おじさんがお小遣いをくれるからヒメはあまり困らなかった。

 おじさんと会えばお金も洋服もご飯ももらえる。

 だから大丈夫だった。


 それが大きく変わったのはヒメが中学3年になった年だ。

 安風情のアパートに帰ると、そこには中年のおじさんがいた。この古びた、酒瓶や煙草の吸殻、ゴミの散乱した部屋には似合わない、高そうな洋服を着たおじさんだ。


『…姫乃か』

『……? 誰、ママのお客さん?』

『姫乃、お父さんと一緒においで。こんな生活はもうしなくていいんだ』

『…パパ?』


 そこにいたのは幼い時以来会っていなかったパパだった。

 何故今更になって現れたのだろうかと不思議に思ったが、奥にいたママが嬉しそうな顔をしていたので、ヒメはすぐに決心がついた。

 ママはヒメに出ていってほしかったのか。

 ヒメが居なくなったほうがせいせいするのか。


 年相応…というよりも不摂生な生活であんなに綺麗だったママは年齢よりも老けて見えた。

 パパからなにかの紙切れを渡され、それを見て目を輝かせる。迷わずになにかの書類にサインをして、ヒメを笑顔で見送った。


『ありがとう。あんたを産んでよかったと初めて思えたわ』


 ママがヒメを見て笑ったのは初めてだったのかもしれない。



■■■


 パパの家に連れて行かれると、そこはヒメにとって暗く冷たい場所だった。

 パパのパパとママ…ヒメにとってのおじいちゃんとおばあちゃんは初対面からヒメに対して厳しかった。礼儀作法や教養がなっていないと、あのような女の娘だからどうのと文句をつけられた。

 ヒメはあまり歓迎されてはいないらしい。


 パパの奥さんの子供は大病を患って去年亡くなったとかで、奥さんはずっと塞ぎがち。

 それで白羽の矢が立ったのがヒメ。ヒメを瑞沢家の娘として育てて、良家から婿をもらうために引き取ったんだって。

 そんな形だったけどヒメは必要とされたことが嬉しかった。


 …引き取られた際にパパに言われたことがある。


『いいかい姫乃、英学院で将来有望そうな男の子と仲良くなるんだ。瑞沢家が繁栄するようにいい相手を捕まえてくるんだよ』

『わかった。ヒメ頑張る』

『姫乃、自分のことは“私”と言いなさい』

『わたし…わかった……』


 パパの期待に応えよう。そうしないとヒメはまた捨てられてしまうかもしれないから。

 ヒメはあまり勉強は得意じゃない。勉強をする習慣がなかったともいえるけど。そのことを見越していたのか、おじいちゃんが勝手に家庭教師なんて用意してきた。

 パパがお金を積めば英学院に入れるんでしょう? 別にヒメは勉強を頑張れなんて言われていないのに。男の子と仲良くしろって言われただけなのよ?

 おばあちゃんもマナーの勉強をしなさいってうるさい。茶道とか華道とか習うように言ってくるけど、そんなの何の役に立つというの? ヒメはそんな事したくない。

 ふたりともヒメがこんな状態じゃ世間にお目見えさせることなんて出来ないなんて言ってきてうるさかった。だけどヒメは耐えた。


 ヒメの嫌がることをすれば出ていくとでも思っているのかな。…でもヒメは行くところがない。だからここで頑張るしかないの。


 


 英学院でヒメはある男の子と出会った。それなりに大きな企業の跡取り息子である宝生倫也君。

 ヒメが中学3年の1月。高等部への外部入学試験を受ける時に道に迷っていたヒメを彼が試験会場まで案内してくれたの。クラスで倫也君と再会できた時嬉しくてすぐに声を掛けた。

 倫也君はヒメのことを覚えていてくれたけど、最初は瑞沢家の愛人の子であるヒメのことを邪険にしていた。

 でも、一生懸命アプローチしたら倫也君が心を開いてくれたの。


 倫也君は同じ年の婚約者が居た。

 隣のクラスの二階堂エリカという綺麗な女の子。二階堂グループという名は大体の人が知っている位有名だからヒメもすぐに分かった。

 二階堂エリカはひとりぼっちだった。

 だけどそれは二階堂エリカが倫也君に執着しているから。この英学院という特殊な学校に馴染めずに友達を作らないだけ。

 こんな恵まれた環境で、ちゃんと両親がいて、婚約者がいて、未来は明るいだろうに、なんでそんな寂しそうな顔をしているのかな……ヒメは、二階堂エリカが急に妬ましくなった。


 倫也君は二階堂エリカをコンプレックスに思っていた。自分よりも財力が上の家出身で、自分よりも成績の良い秀でた婚約者に敗北感を味わっていた。

 そして執着してくる二階堂エリカの存在を重く感じていた。親の決めた婚約者だとわかっていても、息苦しくて苦しんでいた。


 倫也君をすごいって褒めて、尊敬の眼差しを送って、勉強が出来ない子を演じて甘えたら彼の優越感を満たしたらしい。

 他の男の子と親しくするようになったら嫉妬してくるようになったの。彼がヒメに夢中になるのにそう時間は掛からなかった。

 倫也君は繊細な男の子なのだろう。吐き出す場所が何処にもなくて、親に決められた人生を歩むのに疑問を持っていたのだろう。

 倫也君のための人生なのに、家の会社のためなんかに人生を縛られて…可哀想。


 二階堂エリカはひどい。

 こんなにも倫也君を苦しめて。自分のことしか考えていないの?

 二階堂エリカはズルい。

 恵まれた環境にいるくせに、自分の殻に閉じこもって楽な方に生きようとしているその消極的な態度がヒメはとっても嫌い。


 …いいじゃない。お金持ちならすぐに変わりの相手は見つかるでしょう? ヒメは条件のいいお婿さんをGETしないといけないの。ヒメはこんなにも大変なんだから。

 倫也君はヒメと一緒にいるほうが楽しいって、ヒメのほうが好きだって言ってくれるのよ?

 倫也君、ヒメにちょうだいよ。

 


 入学して一月経って、ヒメの周りはきな臭くなってきた。

 下駄箱や机の中から嫌がらせの手紙。

 ノートや教科書を破かれる。

 体操着を濡らされる。

 連絡事項を伝達されない。

 靴の中に砂やゴミを入れられる。

 誹謗中傷を広められる。


 そのどれも、首謀者は二階堂エリカだという。


『…私は二階堂様に弱みを握られているから表立ってあなたを庇えないけど』


 二階堂エリカがヒメをよく思っていないことを親切な人が教えてくれたもの。

 それに上杉君だってヒメを心配してくれたもの。


『きっと二階堂さんは君に嫉妬しているんだね。僕からも注意しておくよ』

『本当? 上杉君』


 だから上杉君がヒメをいじめた主犯だなんて信じられない。


 でもこの間も別の人間が二階堂エリカの名を語って、ヒメを体育倉庫に閉じ込めた。それは速水君の婚約者が犯人だった。

 わからない。

 どうして二階堂エリカの名前を使ったのか。

 じゃあ以前のことはどうなの? …一体誰が…?


 …二階堂エリカは人が変わったようにまるで別人になった。あれほど倫也くんに執着していたのに今では全く興味を示さない。

 二階堂エリカはヒメに悪意を持っていないの?

 ……上杉君がなんでヒメに嫌がらせをするの?


 ヒメにはわからない。

 ヒメはただ誰かに愛されたいだけ。本当は女の子とも仲良くしたいの。だけどみんなヒメのことを嫌う。小中学生のときと同じ。

 ヒメがママに愛されていないから? ママが愛人だったからなの?


 ヒメはひとりぼっちになりたくないの。 

 …ひとりにしないで。


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