第59話 カノン

 扉はダンジョン入り口と同じように宝玉と幾何学模様で彩られた巨大なものだった。


 どのくらいかというと、ヴァルドゥングが通れそうなほど大きい。


 その扉にラルフと片方ずつ手を掛ける。


 軽く押すだけで、扉は音を立てて開いた。


 白く光る階段が上に向かって伸びている。


 階段の先には白い球状のものが浮かんでいた。繭のような発光体だ。


 足を踏み外せば掴むものもない奈落へ落ちるのは明白。慎重に一歩を踏み出した。


 メネウを先頭にトット、セティ、ラルフと続く。


 白い発光体にメネウが触れると、人一人が通れるほどの穴が空いた。


 全員が中に入ると、その穴は自然に閉じた。


 メネウはこの場所に見覚えがあった……セケルと会う場所に似ている、一面の白。


 メネウが読んだ本では、ダンジョン最下層には『何も無かった』と書かれていた。そして、神獣によって地上に帰されたと。


 白い階段も白い繭もなかったのだとしたら、今回のこれには一体何の意味があるのだろう。


「ここ、何ですかね……なんか不思議といいますか……」


 トットが不安そうにあたりを見回す。今入ってきたはずの壁は無く、どこまでも白が続いていることにおっかなびっくりしている。


 メネウが前を見ていた時、不意にそれは現れた。


「神の愛子よ、よくきましたね」


 唐突に出現したように感じた。中心の白から端にいくに従って濃緑に輝く毛皮を持つ獣。


 狼に似ているが、毛足の長い尾は四又に割れて獣の背後で揺らめいている。


「23の年を数えるのは短く、あなたを待ちわびるには長い時でした。私はカノン。迷宮カノンの主にして風を司るもの」


 カノンと名乗った獣は重力を感じさせない動きでメネウの目の前に降り立ち、鼻先を擦り寄せてきた。


 よく慣れた犬のような動きに、メネウは毛皮に手を伸ばすと長い毛を梳いて撫でた。


「カノン。なんでかな、君に会いたくて、会いたくて仕方なくて、ここまで来たよ」


「当然です、神の愛子。貴方は描きたくて生を受けた。新しくその目に留まる存在を描きたいと思うはず。風の魔法を好まれたでしょう? 私はいつでも貴方を感じていました」


 前世では触れようのなかった概念。それに魔法という形で触れ、その体現者が目の前にいる。


 木の種を、虫を、鳥を、季節を、雲を運ぶ風が目の前にいる。


 不思議な感覚だった。


 描きたい、と体の芯から指の先まで欲求に支配される感覚に、思い切りカノンを抱きしめた。日向の匂いがする。


「君を描いて良いかな。俺がいつか、助けを求めた時に君を明確に思い出せるように」


「貴方の筆に描かれるのを楽しみにしていました。さぁ、お描きください」


 睦じい恋人同士のように一人と獣は囁き合っている。


 後ろの3人は置いてけぼりである。


「メネウ?」


 まるで知らない人間のように感じたラルフはメネウの背に恐る恐る声を掛けた。


「あぁ、ごめん。つい……、お茶にでもしてて。すぐ描くから」


「あ、あぁ……」


 ポーチから薬缶やカップ、茶葉を出すのはいつものメネウだ。


 しかし、先程カノンと向き合っていたメネウは、まるで知らない人間のようであった。


 こちらに来てから見聞を広げ、多少人間らしい生活をしたからといって、その本質が変わるわけではない。


 メネウは結局、描くことに悦びを覚える獣なのだ。その本質は人よりもカノンに近いのだろう。


 カノンと並ぶメネウの姿を見ていると、ラルフだけではなく、トットもセティも何か『ズレ』を感じた。


 人として根本的に違うもの、天才か狂者に感じるズレだ。善でも悪でも無い、決定的に違うもの。


 ラルフは思わずメネウの腕を引いた。戻ってこないような気がしたのだ。


「大丈夫だよ」


 メネウが見透かしたように笑う。


「俺は俺。ラルフに小言を言われて、トットと一緒にはしゃいで、セティと悪ふざけする奴。心配しなくても大丈夫」


 いつもの逆で、子供に言い聞かせるようにメネウは告げると、スケッチブックと絵筆を持ってカノンに近付いた。


 スタンはトットの肩に飛び移る。


 ラルフはメネウの背を気にしながら、茶を4人分沸かしにいった。


 スケッチブックを開いたメネウは、カノンの前にどっかりと胡座をかいて座ると、黙々とその姿を紙の上に写し取っていった。


 心に従うままに模様を描き、装飾した。


 1枚目には美しい森を思わせるカノンの横顔を。


 2枚目には風を体現したしなやかな身体全てを描き切る。


 楽しい時間だった。頭の中が空になり、思考は全て筆の上で行われる。


 描くべきものと自分の境目が曖昧になり、描いているそれになったような高揚感が、筆を滑らせているのに体を満たしていく。


 前世で絵を描く時もいつもそうだった。今生で描いた色んなものもそうだった。描いたものが『どうして』そこにあり『何に』使われるのか、『どのように』動くのか、それがありありと体感できる。


 描きながらも意識を飛ばしていたメネウは、最後の毛並みを描き終わると長い息を吐いた。


 汗が滴る。何故だか酷く疲れていた。


 だが、御構い無しにスケッチブックを注意深く確認し、近くで見たり遠くにしたりとしてから頷いた。


「できた!」


 見て! と、カノンにスケッチブックを見せると、カノンは嬉しそうに鼻を鳴らした。


「素晴らしい。貴方には私がこのように美しく見えているのですね」


「実りを運ぶ風、って感じがした。黄金色の麦畑も、波立つ海の上も一緒に駆け抜けたよ」


「えぇ、えぇ、そうでしょうとも。私も一緒に駆け抜けました」


 メネウとカノンは笑い合うと、後ろでお茶を飲んでいる3人に近付いた。


「見て、これが描きたくてここまできたんだ」


 3人はスケッチブックを受け取ると、まじまじとそれを眺めた。


 美しい森の獣の横顔と、力強く大地に立つ姿は並の絵画よりずっと素晴らしい。


 生きているかのように描かれたそれに魅入られていたが、メネウにスケッチブックを返した。


 ラルフが少し笑って尋ねる。その目には賞賛が確かにあって、メネウはそれが嬉しかった。


「満足したか?」


「うん!」


 メネウは嬉しそうに頷く。そのスケッチブックにカノンは鼻先を寄せた。


「これよりカノンは神の愛子、メネウの兄弟です。兄のように貴方を導き、弟のように貴方を写すものとなります」


 スケッチブックが光ると、カノンを描いたページに『ロック』がかかったようだった。


 この絵は消えない、とメネウは感じた。カノンに目で尋ねると、カノンも頷く。


「貴方はこれから6つの迷宮に赴き、そこで我らの兄弟を描くでしょう。描き切ったその時に、死者の書は完成します」


「死者の書?」


「そうです。貴方は死者の書を完成させなければなりません。死とは秩序、死があるから皆、生きる事ができるのです」


 メネウはよく分からない、と眉を潜めた。


 その額に擦り寄って、カノンはふわりと消えた。


「いずれ分かります。いつでも呼んでください、兄弟。神の愛子よ」


 はっと気付いた時には、ヴァルドゥングの所でお茶を飲んでいた。


 いつの間に戻されたのかさっぱり分からなかったが、カップのお茶の水面を揺らしてヴァルドゥングが近付いてきた。


「戻ったのか」


「うん。カノンに会ってきたよ」


「……会ってきたも何も、そこにおるではないか」


 え、とメネウが振り返ろうとしたら、メネウの足元に毛の長い仔犬が擦り寄っていた。


 てちてちと歩いて周り、ラルフの肩に落ち着く。


 ラルフの顔がみるみる曇った。


「おい」


「わふ!」


「……お世話よろしくね?」


「元いた場所に戻してこい!」


 でなければ自分で面倒を見ろ、と言わんばかりだが、誰がちゃんと面倒を見てくれるのかカノンはよく分かっていた。正しい選択である。


「ヴァルドゥング、とりあえずお茶飲んでから帰るよ」


「構わん。……メネウ、我が主人。神の御使を描くそなたに頼みがある。茶を飲みながらで良いから聞いてはくれぬか」


 メネウは輪に加わってセティからお茶をもらう。セティはトットと一緒に一連の出来事を興奮しながら語り合っていた。


 お茶を一口飲んで人心地つくと、メネウはヴァルドゥングに向き直った。


「いいよ。何をしたらいい?」


「我が元いた場所を取り戻して欲しいのだ」


 重々しく告げたヴァルドゥングの表情は、まるで崩れそうな岩石のように困惑していた。

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