過去

「うんっ……」


 白鳥さんの口から色っぽい吐息が漏れる度、俺の心臓はその鼓動を早める。

 その音を白鳥さんに聞かれているかもしれないと考えると、顔が赤くなりまともに白鳥さんの顔を見ることができない。

 けれど、白鳥さんがどんな様子なのかが気になり、こっそりと白鳥さんの方を窺う。


「だ、大丈夫か?」


 俺の腕の中にすっぽりと収まっている白鳥さんは、頬を上気させながら頷く。

 その様子が可愛くて、また心臓の鼓動を早める。


 先程から、この繰り返しだ。

 この状態で約一時間というのだから始末に負えない。


 おまけに会話はなく、陽介は妙な気を回したのか離れたところにいるため助けを求めることもできない。

 時折、大丈夫か苦しくないか、と声をかけるのだが、首を縦に振るだけで何も言ってくれない。


 それだけならまだしも、時折聞こえてくる身じろぎする声や、揺れたときに上げる小さな悲鳴が鮮明に聞こえるのである。

 しかもちょこんと可愛らしく俺の服をつまむものだから、心臓に悪い。


「ハァ~」


 自然とため息が漏れてくる。

 色波虹希博士の研究所に向かうのに、電車という手段をとったのは間違いではなかったのか。

 そんな思いにとらわれる。


 俺たち、というより俺と白鳥さんは扉の側にある小さなスペースに押し込まれており、身動き一つ取れなかった。

 人混みに押しつぶされないよう、体を使って白鳥さん一人分のスペースを作ることに成功しているが、それもあと何分持つかわからない。


「ん……」


 白鳥さんの吐息が聞こえてきて、また心臓を高鳴らせてしまう。

 少しでも気を紛らわせようと、窓の外へ視線を走らせる。


 窓の外では次々と風景が移り変わっていく。

 住宅街だったのが、段々と家が少なくなっていき、次第に自然豊かな景色へと変わる。


 本来なら紅葉の季節であり、赤や黄色といった鮮やかなグラデーションが見られるはずなのだけれど。

 目の前に映る景色はどこまでもモノクロで。


 モノクロの景色にも美しさはあるとわかっていても、やはりどこか寂しく感じてしまう。

 そんな景色だった。



 しばらく電車に揺られ続けていると、段々と人が減ってくる。

 人の出入りが激しいのは天見市の西側までで、そこから東は人が極端に少なくなるからだ。


 その境目となるのが天見中央駅であり、天見市内では最も大きな駅となる。

 天見中央駅を過ぎたあたりで、ようやく座席に座れるくらいまで人が減った。

 しかし、色波虹希博士の研究所まではもう少しあり、あと三十分ほどは電車に揺られないといけない。


「あ~しんど」

「黒沢さん。ありがとうございます。おかげで満員電車でも苦しくなかったですよ」


 座席で行儀悪くだらける俺に対して、白鳥さんは優しく微笑んでくれる。


「けれど、ちゃんと座ってください。いくら疲れているとはいえ、行儀が悪すぎます」


 が、注意も忘れないようだった。

 座り直してから改めて周りを見渡すと、乗客はだいぶ減っており、俺と白鳥さんの周りの座席には誰も座っていない。


 陽介は俺たちから離れた座席に座っていて、今は二人きりだと言えなくもない状況になっていた。


 チラリと隣を盗み見ると、白鳥さんもこちらを窺うように視線を向けていて。

 慌てて視線をそらした先には、陽介がニヤニヤと笑みを浮かべていた。


「陽介の奴、他人事だからってニヤニヤしやがって……」


 いつか仕返ししてやろうと、そう心に誓う。

 すると突然、白鳥さんが話しかけてくる。


「あの、黒沢さんは子供の頃のことをどれくらい覚えてますか?」

「子供の頃? どうして突然そんなことを?」

「いえ、その……もうここしか、質問するチャンスがないと思ったので……」


 まあ、ここを逃せば次いつ二人きりになれるかわからないからな。

 しかし、白鳥さんが子供の頃の話題に触れるということは、俺に対して一歩踏み込んできた証拠だろう。


 ついに、俺のことを話すときが来たのだ。

 いや、話させてもらえると言ったほうが正確か。


 今までストーカーと思われないようにするため、白鳥さんに好きな人がいるから、などと色々と言い訳をしてきたが、実際のところ話すのが怖かったのだ。

 過去のことを話して無関心な反応をされることが、自分だけが昔のことを覚えていることが――過去を否定されることが。


 自分はなんとも現金なやつだと思う。

 白鳥さんが俺に好意を持っていることを青井さんに教えてもらい、白鳥さんの言動から好意を持たれていることを確信し、そして白鳥さんの方から質問された今――


 嬉々としてその質問に答えようとしている。

 そんな自分が嫌になってくる。


「子供の頃か。つい最近、思い出したことが一つある。色波虹希博士の研究所で出会った、一人の女の子のことだ」


 罪悪感を抱えながらも、その罪悪感を隠して質問に答えている自分がさらに嫌いになる。


「その女の子はキレイな白髪はくはつで、研究所の子供たちはみんな注目してたよ。まあ、俺もその一人なんだけれど」


 俺はこんなにも臆病だっただろうか。


「けど、その女の子は内向的な性格で、誰とも仲良くしようとしなかった。俺はそんな女の子に声をかけたんだ」


 そういえば、この金色の左目を受け入れるのにも長い時間を要した。他にも思い当たる節はいくつかある。


「その女の子とはすぐに仲良くなれた。陽介を加えた三人でよく遊んでいた記憶がある」


 ――ああ、自覚してしまった。

 つまり俺は本質的に臆病なのだろう。そう簡単に変えられるようなものではない。


「そんな中、陽介が帰ることとなった。その時の送別会は楽しかった」


 クソだ。ほんとうにクソだ。

 なぜこの口はこんなにも動く。

 話をするなら本当のことを話せ。


「子供だけだし、優勝商品はないし、問題を作ったのは俺達の世話係を務めてくれた看護師だ」


 これじゃあ一緒だ。子供の頃から何一つ変わっていない。

 変われたと思っていたのに。全く変われていなかった。


「そんな小さなクイズ大会だったけれど、俺と陽介とその女の子の三人でチームを組んで、優勝して、本当に嬉しかった」


 昔から臆病で、一歩が踏み出せなくて。


「その後は短い時間だけだったけれど、その女の子と二人きりで過ごしていたよ」


 今も臆病で、一歩が踏み出せない。

 本当のことを話す勇気さえない。


「そして、俺が手術を受ける前日、つまりはその女の子との別れの日、手術が怖くなった。臆病風に吹かれたのさ」


 結局、いつもいつも何一つ自分で決めることができない。


「その女の子はそんな臆病者の背中を押してくれたんだ」


 誰かに背中を押されなきゃ、何も出来ない。


「これはとても大切な思い出なんだ。その背中を押してくれたところだけは、一度も忘れたことがなかった」


 誰かに手伝ってもらわなきゃ、何も出来ない。


「けど時折、ふと思うんだ。今の俺と比較して、どこが違うだろうかと」


 誰かが一緒にいてくれなきゃ、何も出来ない。


「きっと、根っこの部分は変わってない。臆病なんだ」


 心の鍵が外れたかのように言葉が、思いが、とめどなく溢れ出す。


「でもさ、結論が出てないわけじゃないんだ」


 そう、結論は決まってる。


『自分を変えたい』

「…………」



 ……沈黙。



 …………!


「あ、悪い。話が変な方向にズレたな」


 ズレたどころの話じゃない。

 完全な暴走じゃないか。やばい、超恥ずかしい。


 絶対変なやつだと思われた。

 俺は恐る恐る白鳥さんの顔を確認する。


「いえ、別に構いませんよ」


 白鳥さんは気にした風もなく、微笑えんでくれた。

 やばい、天使だ。ここに天使がいるぞ……。


 ……おほん。


 咳払いを挟んで冷静になる。

 まさかあそこまで思考がヒートアップするとは思っていなかった。


「黒沢さんが自身を変えたいと思う心は立派だと思います」

「まあ、それがうまく行ってれば格好良いんだろうけど、そうじゃないからな……」


 俺は苦笑しながら答えた。

 白鳥さんはこの話題にはそれ以上触れず、話題を変えてくれる。


「ふふ、それより気づいていましたか? 話の中に出てきた女の子、私なんですよ?」


 白鳥さんがさらっとそんなことを言い、俺は固まってしまう。

 十二年前の女の子が白鳥さんだということは知っているが、あまりにも自然に言うものだから驚いてしまったのだ。

 白鳥さんはこの反応を気づいていなかったからと捉えたらしい。


「やっぱり気づいてなかったんですね。少し寂しいです」


 わざとらしくいじけた様子を見せる白鳥さん。


「あ、いや、その……」


 それに慌てふためいていると。


「冗談です♪」


 と、可愛く言われてしまった。

 何だか、最初から白鳥さんだと気付いていたことを言いづらい雰囲気になってしまった。


 しかも、自分にとって都合のいいように勘違いしていることも、言いづらくなっている要因だろう。

 自分への嫌悪感も相まって、テンションがガタ落ちだ。


「それで、思い出せていただけましたか?」

「思い出すも何も、十二年前のことはついさっき話したばかりだし、忘れてないっていうか……」

「あはは……そうでしたね。……では、改めて。お久しぶりです。あっくん」

「ああ、久しぶり。いーちゃん」


 なんだろう、折角俺が十二年前の男の子が俺だと白鳥さんに伝わったのに嬉しくない。

 むしろ胸のあたりがズキズキと痛む。

 その後は十二年前のことについて話し合ったが、全く楽しくなかった。

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