第二話
翌日、オディオンとシュルツ、その護衛を連れ、ダレオナは荘園内を案内することになった。幌のない馬車で、御者はダレオナだ。
朝食の後、用意してもらった昼食を積み込み、館を出発した。
オディオンは座席に膝立ちして縁にしがみ付いて楽しそうしているし、シュルツはこういう方が肩肘張らなくていいと笑って見せた(お世辞もあるかもしれないが)。護衛のイルレッガ――昨日の夕食時に名前を知った――は、縁にもたれかかって足を組み、流れていく風景を眺めている。
館の周囲は草地で、村人の家が遠くに何軒かぽつぽつ見えているだけだが、道をしばらく進むと草地が終わり畑に変わる。今は雑草が生えるに任せてある休耕地だ。更に行けば、緑に覆われた畑が見えてくる。
この辺りは盆地で、緩やかな起伏が遠くの山まで続いている。婿候補たちは荘園の外から来たから知っているだろうけど、ダレオナは改めてそれを説明する。その間に、馬車は小さな川を越えた。
川を越えると、今年の耕地が広がっている。畑の中に人の姿がちらほら見えた。馬車に気が付き、手を休めてこちらを見ている人もいるようだ。
視線を感じる。刺さるような、視線を。気のせいかもしれない。気のせいではないかもしれない。
恥も外聞もなく婿を募り、馬車に乗せているのだ。気のせいなどではないだろう。だけど、イラバクト家の婿となるかもしれない彼らに、治めるべき土地の様子を見せないわけにはいかない。こうして案内することで、二人が婿にふさわしいかどうか見極めるためにも。
「いい荘園だね」
褒めるシュルツの言葉に、ダレオナは振り返る。
「ありがとう。祖父の代はこの辺りは森だったけど、時間をかけて切り開いて畑にしたの」
ダレオナが物心付いた頃にはもう今と変わらない風景になっていたけれど、ここらの目に見えている範囲はほぼ森だったと、小さい頃に祖父から聞いた。
森はずいぶん開墾されたように思えるが、実際はまだまだ広い面積が残っている。――その奥に、恐ろしい魔物が息づくくらいに。
「……あれが、その森よ」
今はまだ遠くにある、地面に貼り付いているようなこんもりとして黒っぽい塊を指さす。ダレオナは、指し示した先ではなく自分の指を見ていた。それが、震えていないことを確かめるために。
指先は震えてはいなかった。だけど、表情は平素と変わらないかどうか自信はない。幸いダレオナは御者で、荷台にいる三人には彼女の背中しか見えていない。
「今は小さくなっちゃったんですか?」
側面の縁にしがみ付いていたシュルツが、前方に移動してきて、ダレオナの脇から森を指さす。
「祖父の頃に比べればだいぶ小さくなったけど、父の代になって木の伐採を制限するようになったから、縮小には歯止めがかかってるわ。それに、元々が相当深い森だったから、小さくなったとはいえ今も十分に大きいわよ」
木は薪や木炭として燃料になる。制限をしなければ、村人たちは次々と切り倒して木を燃料に変えてしまい、森の再生はその速さに追い付かず小さくなる一方だ。それではいつか自分たちの首を絞めることになるので、ヒーダーは木の伐採について制限を課し、また植樹も行っている。森を小さくしないため、また大きくしないため――現状を維持するために大事なのは、伐採か森林保護のどちらかに偏ることのない、ほどよい釣り合いだ。
それを説明すると、シュルツは感心したように唸った。
「俺の親父はあんまり制限はしないで、伐採料を取ってるよ。伐採料を払った連中が木を切り出して、薪として売ってるんだ。村だけで商売しないで、都市部にまで売りに行く者もいるから、俺がガキの頃に比べると森は小さくなったな」
しみじみとした様子は、本音を言っているように見える。彼の一人称が「俺」になり、昨日と比べると口調はくだけていた。これが、本来のシュルツのしゃべり方なのだろう。いつまでも堅苦しい話し方をされる方が、かえっていかにも媚びている感じがする。
「僕の父上も、同じようなことをしています」
オディオンがしょげた声で言った。
「森が大きい方が、動物もたくさん棲めるからいいのに……」
小動物と遊んだ楽しい思い出があるのかもしれない。思い出の場所がなくなっていってしまうのが寂しいのだろう。そのあたりはやはり子供なのだな、とダレオナは思った。
「でも、あまり大きくなると、森に棲むのは動物だけじゃなくなるのよ」
話をしている間にも馬車は進み、森が近付いてくる。遠くからだと黒っぽく見えるのは、深い緑がいくつも重なり合っているからではなくて、見通せないほど奥が深いからではないかと思えてならなかった。
「魔物がいるのか」
荷馬車に揺られてから初めて、イルレッガが口を開いた。彼の声を聞くこと自体、まだ数えるほどしかない。オディオンの子供特有の甲高い声ではなく、シュルツの大人のものではあるが軽やかな声とも雰囲気が違う。争乱の中で人生を積み重ねてきたと思わせる、低く少しだけかすれた声だった。
あの森を見て魔物という単語を聞くと胸がきしむ。できれば思い出したくはない。触れたくもない。でも、婿候補たちにあの森の危険性を伝えなければならない。この荘園にはこういう場所もあるのだと。
「――森の、奥には。だから、皆入り口までしか入らないの。深く入りすぎると、魔物の縄張りに迷い込んでしまうから」
森に棲む魔物の存在は、荘園に対する婿候補たちの印象が悪くなるから伏せておいてはどうか。ヒーダーははじめ、そう言った。教えるべきだと反対したのは、ダレオナだ。
シュルツとオディオンは、ダレオナの悪評を知りながら名乗りを上げたのだ。魔物の棲む森があると聞いても、今更悪い印象の上塗りにならないだろう。何より、危険な場所については印象の善し悪しに関わらず知らせておくべきだと思った。
実際、三年前にあの森で魔物に襲われ、ミセティアは死んだのだ。
「森の外へ魔物が出てきたりはしないのかい? 畑を荒らしたりとかは」
「食べるものがなくなったからなのか分からないけど、まれに出ることはあるわ」
三年前の魔物が、周縁部まで出てきた理由は、実ははっきりしていない。あの年は天候が良かったから荘園全体が豊作で、森の中も食糧は豊かだったはずだ。食料が豊かであれば、その分動物も増え、それを餌とする魔物も食べるものに困らないはずだった。だから、縄張りを荒らされたせいではないか、と言われている。
三年前に森で死んだのはミセティアだけではない。最初に悲鳴を上げた村人も無惨な姿で見付かった。彼が魔物の縄張りにうっかり入って、運悪く魔物と遭遇してしまったのだろう。
しかし、森の奥に潜む危険を知らせるべきとは思っても、三年前の悲惨な出来事を教えることはできなかった。喉につかえて出てこない。
「……討伐隊でも作って見回りたいけど、魔物が周縁部まで出てくるのはまれなことだし、人手が足らないからやっていないの。だから、森へはうかつに近寄らない方がいいわ」
「人手ならあるんじゃないのか?」
シュルツは気軽な口調だった。たぶん、そこらの畑で働いている村人を見て言っているのだろう。だけど、彼らは――。
「農民には無理だ、シュルツ」
ダレオナが言うより早く、イルレッガが口を開いていた。
「連中は鍬や鋤は扱い慣れてるが、魔物を倒すためには使ってない。剣を渡したところで、使い慣れないもので魔物を倒すなんて無理だ。お前のとこの領地でも、魔物退治に出向くのは農民じゃないだろう」
「まあ、確かにそうだ」
「……うちの荘園には、戦える人がほとんどいないのよ。だから、森の奥へ入らないようにするのがいちばんいいの」
イラバクト家の使用人たちは剣を持ったことのない者ばかりだし、村人のほとんどもそうだ。ヒーダーでさえ、戦場へ行った経験は数えるほどしかない。
「でも、家臣の中に騎士がいるんだろう」
シュルツの声が、少々意地の悪いものになる。ダレオナは相変わらず前を向いたままだったが、彼がオディオンを見て言っているであろうことは容易に想像できた。
オディオンの父、エサテレス・フティティスは紛れもなく騎士である。イラバクト家から領地を授かり主従関係の契約を結んでいるのだから、ヒーダーが命じたら討伐隊に加わる義務がある。だけど、エサテレスは領地が遠くにあり離れられないことを理由にそれを断っている。代わりとなる資金を納めるので、ヒーダーもそれ以上は強く求めることができないでいた。
「……フティティス家の所領は遠方ですし、我が家も人が多いとはいえないので、ヒーダー様の求めに十分お応えできず心苦しいです……」
オディオンは知っていたのか、消え入るような声だった。
ダレオナの胸がちくりと痛む。討伐隊に加わらないのはエサテレスの判断で、オディオンの責任ではない。シュルツはたぶん、エサテレスが武力提供を断っているのを知っているか察していたのに、わざと言ったのだ。オディオンが婿候補の競合相手とはいえ大人げない。
「オディオンが謝ることじゃないわよ」
さすがに少年がかわいそうになり、ダレオナはすぐそばでうなだれている少年の頭をなでた。そうすると、婿候補というよりは歳の離れた弟のようだ。シュルツの先ほどの言動は大人げないけれど、ではオディオンを婿にというのも幼すぎてぴんとこない。
なんにせよ、シュルツは婿にふさわしくないと断じるのも、オディオンは幼すぎるからやはりだめだと決めつけるのも、早計に過ぎる。
「そろそろお昼にしましょう」
話題を切り替えようと、ダレオナは一同を見回した。太陽は頭の真上にさしかかろうとしているし、ちょうど良い。
「あの森で、か?」
イルレッガが顎で、だいぶ近付いてきた森を指す。
ダレオナは思わず息を飲んだ。魔物がいると言ったばかりなのにそんなことを言うイルレッガに驚いたし、ミセティアが死んだあの場所でのんびり昼食をとるなど考えられない。三年前のあの日から、近くを通ることはあっても一度も中へ入っていない。
「――あっちに、見晴らしのいいちょっとした丘があるの。そこで食べましょう」
道は森の手前で分岐していて、一方が森に、一方がその丘に繋がっている。丘には数本の木が生えていて、十分に木陰がある。
イルレッガも、森で食べたいと思って言ったのではなかったようで、特に異論は返ってこなかった。
馬を丘の方に向かわせ、やがて緩やかな上り坂になる。そのてっぺん近くはあつらえたように平らに開けていて、道沿いに生えた大きな木が木陰を作っていた。
「お手をどうぞ」
馬車を止めて真っ先に下りたシュルツが、前に回り込んで、ダレオナに手を差し出す。出発する時も、シュルツはダレオナに手を貸してくれた。それがシュルツの元々の性分なのか、あるいは婿候補ということでダレオナを丁寧に扱ってくれているのか、正直分からない。しかし、下りるのを手伝う仕草は慣れた様子で、彼にとってはごく当然のことをしているだけかもしれなかった。
その間に、オディオンは昼食の入った籠を運んでいく(馬車から下ろしたのはイルレッガだったが)。四人分の昼食が入った籠は少々荷が勝っていたようで、少年の足下は少しだけおぼつかなかった。普段であれば、オディオンではなく彼の使用人がやるようなことだ。慣れないことを率先してやっているというのは、よく分かる。それもまた、婿候補だからだろう。
――嫌になる。
自分が。
ダレオナはこっそりため息をついた。シュルツとオディオン、彼らの一挙手一投足の意味を探らずにはいられない。ほんの些細な仕草ですら、裏側にあるものを読み取ろうとする自分に、早くも嫌気が差していた。もちろん、そのために彼らと一緒にいるのだが。
「顔色が良くないな」
昼食を終えて再び出発しようと荷物を片付けていた時だった。
「え?」
敷物をたたんでいたダレオナは、背後からかけられた声に振り返る。お茶の入った籠を持ったイルレッガが、こちらを見ていた。
「日差しにやられたんじゃないか、あんた。天気が良くて暑いのに、ろくな日除けもしていないだろう」
水分を多めに取っておいた方がいい、とお茶の残りを木のカップに注ぎ、ダレオナの返事も待たずに突き出してくる。
「あ……ありがとう、ございます……」
問答無用という雰囲気に押され、ダレオナはカップを受け取った。口調がつい改まったものになってしまったのは、イルレッガがだいぶ年上だからだろう。
顔色が悪く見えたのは日差しにやられたのではなく、精神的な疲労のせいだ、きっと。
食事中もお茶は飲んでいたし今も喉が渇いていたわけではなかったけど、カップを傾けながら、イルレッガを盗み見た。
飲めと言ったくせに、イルレッガは馬車に荷物を積み込むシュルツとオディオンを眺めているようだった。肩透かしを食らったような気分になるが、イルレッガは点数稼ぎをする必要がない。だから、彼の行動は純粋に親切に思ってのことだろう。
イルレッガに関しては裏側に潜むものを探らなくいいから、気が楽だった。
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