第一部 第二章 五 少女の踊りとプロポーズ?
またドアをノックする音がした。せわしないドアだった。今度はサカキさんだった。イヌイさんが「どうぞ」と言うと、サカキさんがにこにこしながら入ってきた。
「あの、すみません。話が終わりましたら太田さんに来ていただきたいのですが」
「ええ、どうぞ。もう話はすみましたので。じゃあ太田さん、そういうことで沢田さんにはお伝えしておきます」イヌイさんが代わりに答えた。
「はい。お願いします」
イヌイさんはゆったりと頷きながら、今までの優しい感じとは違う、楽しいことでも考えているような顔をしていた。
自分のリュックを持って行くか迷ったが、仕事に使うパソコンも入っているので持って行くことにした。もらった資料は封筒に入れて、リュックにしまった。
「サカキさん、どうしたの」
「まあ、いいから、来てください」と、サカキさんはにこやかに言うと、ごく自然にわたしの右手を取って、薄暗い廊下をずんずん進み始めた。建物の一番端の、普通の部屋にしてはやけにがっちりした大きめの扉の前で止まった。
「太田さん、目をつぶってください。いいと言うまで、開けちゃ駄目ですよ。薄目にしても駄目ですよ。あっ、バッグはわたしが持ちます」
「えっ? いったい、なに?」
「とにかくお願いします」
「はい、はい、わかりました」サカキさんにそこまで言われたら従うしかない。何かわたしを驚かせようとしていることは間違いない。リュックをサカキさんに渡して目をつぶると、サカキさんがわたしの前に回ってちゃんと閉じているかを確認しているのを感じた。
「よし」とサカキさんは独り言のように言うと、再びわたしの手を取った。扉を開ける音がして、わたしは部屋の中に案内された。部屋の空気はひんやりとしていた。引っ張られるようにして十歩ほど進むと、サカキさんが止まった。
「まだ、目をつぶっていてください」
サカキさんの声が響いた。広くて、物があまり置いていない部屋のようだった。空気感も談話室とはまるで違っていた。
サカキさんはつないでいた手を離した。後ろに回って、両肩に横から手を当てて位置を調整するようにわたしを少し移動させた。
「椅子がありますから、ゆっくりと腰を下ろしてください」
まさか座ろうとしたら椅子が置いてなかったなんてことはないだろう。椅子らしきものがふくらはぎに触れた。サカキさんに導かれるようにして、慎重に腰を下ろして椅子に座った。
「いいと言うまで、絶対に目を開けちゃ駄目ですよ」
「はい、はい、わかってますよ」あまりにも何度も言うので、ちょっとあきれたように答えた。さっき少女がサカキさんを呼びに来たから、何か計画しているに違いなかった。あの子のことなら、きっとわたしにお礼をしたいと思っているはずだ。だとしたら、踊りだろうか。ここは沢田さんの言っていたバレエの稽古場なのかもしれない。そういえば、あの晩も、森野さんが踊りの準備をする間、こうして目を閉じさせられた。
両側に人の気配を感じた。と、その次の瞬間、両側の頬に同時にキスをされた。思わず「おわっ」と驚きの声を上げてしまった。誰にされたのか見たくて目を開きそうになった。
「まだ目を開けちゃ駄目」すかさずサカキさんの声が飛んできた。
「ああ、はい」
左側が少女で、右側がサカキさんであることは、見なくても分かった。二人はわたしの後ろでくすくす笑った。くすくす笑いながら、わたしから離れていった。
「じゃあ、太田さん、目を開けてください」
言われるままに目を開けた。薄いピンク色をしたバレエの練習着に白いタイツの少女が中央でポーズを取っていた。部屋は卓球台が五つは置けそうな広さで、壁にはぐるっと手すりのようなバーが横に走っていた。やっぱりバレエの稽古場だった。
すぐに曲が始まった。少女が踊り出す。カザルスの演奏するクープランの『悪魔の歌』だった。あの、森野さんらしいと思った、元気のある曲だ。
想像したよりも少女の動きは本格的で鋭かった。カザルスの歯切れのいいチェロのリズムに乗せて、少女は軽やかに動き回った。踊っているときの顔は、今まで見た少女のどの顔よりもずっと大人っぽかった。振り付けは考え抜かれたもののようだった。
カザルスが最後の音を高らかに歌い上げ、一分半ほどの短い曲はあっという間に終わってしまった。少女は最初とほぼ同じ位置でフィニッシュのポーズを決めた。それとほぼ同時にわたしは立ち上がり拍手を送った。ほんのわずかに遅れて、ホワイトハウスの聴衆の盛大な拍手が沸き起った。サカキさんも壁際の音楽装置の前で拍手していた。少女はわたしに向かってバレエ式のお辞儀をした。サカキさんの方にもちょこっと頭を下げた。
CDの拍手が鳴り響く中、早足で少女に近づいた。少し照れている少女の前に片膝を付いた。清々しい顔が目の前にあった。
「すごい。とっても上手だ」
無意識に少女の腕をつかみ、感動を伝えるように小さく揺すっていた。少し汗ばんだ、生命感溢れる幼い皮膚を感じた。
「ありがとう。それから、おじさん。昨日からありがとうございました」
「いや、いいんだ。おじさんも楽しかったし」
「お母さんの真似をして、お礼に踊りました」
「うん。すごい素敵だった」
続けてシューマンの曲が始まった。少女が意外そうな顔をして、サカキさんの方を振り向いた。
条件反射のように全身が小さく震えた。鳥肌が立った。脳の辺りがワサワサした。よく分からない種類の感情が湧き上がってきた。
思わず少女を強く抱き締めていた。とても温かかった。涙が出そうになった。
「おじさん、どうしたの?」
〝一緒に暮らそう〟とか〝おじさんの子どもになってくれないか〟とか、まるでプロポーズのような言葉が喉から出かかった。
言葉を飲み込んだ。「なんでもない」と、わたしは言った。そんな無責任なことは言えないと思った。でも少女を離すこともできなかった。
知らぬ間にサカキさんが近くに来ていた。ひざまずいて少女を後ろからわたしもひっくるめて抱き締めた。わたしの両腕は少女とサカキさんに挟まれた。サカキさんの胸のふくらみを感じた。心地よい匂いに包まれた。
「二人とも変なの」少女の声はまんざらでもなさそうだった。
「むかし、君のお母さんと、この曲で踊ったことがある」
「へえ。おじさんも踊れるの?」
「いや、踊りなんてできないんだけど、あの日は不思議と身体が動いた」
「ふうん。お母さんに無理矢理踊らされたんでしょう? お母さん、ちょっと強引なところがあったから」
「ははは。そうかもしれない。でもすごく楽しかった。ずっと踊っていたいと思った」
「いつか、はるかとも踊ってくれる?」
「うん、もちろん。でも上手く踊れるかどうかわからないよ」
「うん、それでもいい」
いつかっていつのことだろう、と思った。五年後か、十年後か。ずいぶん遠い先のことのように感じられた。やがて疎遠になって、もうその頃には、わたしなんて忘れられてしまっているかもしれない。
「お母さんもこの曲をよく聴いてた。そのときはとってもしあわせそうな顔をしてた。そして、はるか、おいで、って言って、いつも笑顔で抱き締めてくれたんだ。だからわたしもこの曲は大好き」
少女は穏やかに言った。
目をつぶると、あの晩の、この曲で踊った森野さんの姿がはっきりと甦った。姿だけではない。あの熱い肌、引き締まった筋肉、髪の毛の感触、匂い。部屋に溢れたまばゆい光。自分でも信じられない自分の身体の動き。すべてが一体となったような、あの感覚。
昨晩とはくらべものにならないくらいリアルな感触だった。まるでそのものがそこにあるかのようだった。記憶とはまったく違う種類のものだった。森野さんが息絶える瞬間の幻覚に近かった。森野さんが少女に乗り移って、本当にあの晩と同じように踊っているみたいだった。その感覚に吸い込まれていくようだった。
唐突に、飲み込んだはずの言葉がものすごい勢いで喉に上がってきた。いま言わないと後悔すると思った。
「ねえ、おじさんと一緒に暮らそう。おじさんの子どもになってくれないか」
少女の身体がびくっと動いた。抱き締めたままで、顔は見えない。
少女はすぐに答えなかった。拳を握りしめるのが感じられた。
「お母さんが言っていました。この曲を一緒に踊った人がわたしを産むチャンスをくれたんだって。本当はお母さんは子どもができないはずだったのに、その人が魔法をかけてくれたんだって」
「そうなんだ。それが僕なんだ」
「でもおじさんは、わたしのお父さんじゃないんでしょう?」
嘘はつけない。でも何が本当なのか、わからない。それにサカキさんがいるから、手紙のことを話すわけにはいかない。
「わからない。本当にわからないんだ。たぶん違うと思う。でも、限りなくお父さんに近い存在なんだと思う」
「ふぅん」わたしの答えを疑っているというよりは、そういうものなのかと感想を言っているような感じだった。「たぶんっていうことは、お母さんとセックスしたの?」
「ええっ?」少女がこんな直接的な質問をしてきたことにうろたえ、そしてこんな質問をできることに驚いた。今時の子どもはその程度の知識はもうあるのだろう。
「告白して、すぐに振られたっていうのは、嘘だったの?」
「いや、嘘じゃない。そう、僕は君のお母さんとセックスした。それから告白したんだ。そして振られた」
「そういう順番もありなんだ。じゃあどうしてお父さんじゃないと思うの?」
「それは」言葉に詰まった。「わからない。君のお母さんは子供の産めない身体だと言っていた。でも君は生まれた。わからない」
今はまだ言うわけにはいかない。どうやって納得してもらうか、いいあぐねた。
「おじさんもわからないことばっかりなんだね。でも、ありがとう」
どうしてか少女はそこであっさりと話を打ち切った。もっと追求されると思っていただけにほっとはしたが、肩すかしを食ったような気分でもあった。
「それにさっき言ったじゃない。はるか、おじさんの子どもになってもいいって。忘れたの?」
「いや、忘れていない。ただ、さっきのはちょっと冗談っぽかったから」
「だって、あのとき真剣な顔で言われたら、おじさん、引いちゃうでしょう?」
「そりゃ、まあ、そうだな。じゃあ、君のお父さんになれるんだね」
「うん」少女ははっきりとした声で答えた。「でも、ひとつだけ条件があるの」
「なに?」
「おじさんが結婚して、奥さんもわたしを子どもにしたいと思ってくれたら」
「結婚……」
「そう、結婚」
「だとしたら、すぐには無理だな」
「そうかなぁ? おじさんだって捨てたもんじゃないから、頑張れば、どうにかなると思うけど」
「いや、でも相手のあることだし、君を子どもにするという前提で結婚してくれるかどうか」
「ずいぶん、自信がないんだ。でも、そのくらい時間をおいて考えた方がいいかもしれないよ。今は一時の気の迷いかもしれないし。お母さんが本当に死んじゃったことがわかって、さっき泣いてくれたんでしょう?」
サカキさんが言ったのか。どうしておんなという生き物はこうおしゃべりなのだろう。でも、この子に知ってもらうことは悪いことではない。
シューマンの曲が折り返し点にさしかかっていた。右肩の辺りが濡れるのを感じた。
「泣いてるの?」と少女に問いかけた。話をしている雰囲気からはとても泣くようには思えなかった。
「わたしじゃない。おねえちゃん」
「サカキさんが?」思ったよりドライな会話だった気がするが、感動したのだろうか。
「いえ、泣いているんじゃありません。ただ涙が流れているだけです」
「おねえちゃんは、ときどき、こんな風に突然、涙を流すの。でも本当に泣いているのとは違うらしいよ」
「そうなの?」
「はい」
確かに声の調子は落ち着いていて、泣いている感じではなかった。記憶喪失と関係しているのかもしれない。
ホルショフスキーのピアノが前半の終わりを静かに告げた。曲がアップテンポに変わった。でもわたしたちは身動ぎせずにいた。
サカキさんの涙は水出しコーヒーのようにゆっくりと、点滴のように落ちているようだった。それは確実にわたしの服を濡らしていった。濡れた布地が肩にへばりついて、やがて涙の一粒一粒の落ちるのがはっきりとわかるようになっていった。
結婚か。気が遠くなるような思いだった。この子を引き取るために結婚するというのは相手にも悪いし、この子だって納得しないだろう。この子は少なくとも母親の愛情をたっぷりと受けて育ったはずだ。だから、無理にあらためて家族を持つ必要なんてないのかもしれない。ただ、森野さんだって、この子の望む人が現れたら、親になって欲しいと思ったんだ。そして、この子はわたしを選んでくれた。
曲はエンディングに向かっていた。カザルスのチェロとホルショフスキーのピアノが音の階段をせわしなく上り下りする。希望に満ちた音色を響かせる。そして、観衆の割れんばかりの拍手。
拍手が鳴り止んでも、「鳥の歌」は始まらなかった。静けさが部屋を包んだ。外では秋の虫たちが彼らの音楽を控えめに奏でていた。
いつの間にかサカキさんの涙は止まっていた。サカキさんはぎゅっと力を入れて、われわれふたりを接着するみたいに強く抱き締めた。世界が凝縮されたような感じがした。十秒くらいそうしてから、すっと力を緩めると、何も言わずに立ち上がった。世界が元の圧力に戻った。立ち上がったサカキさんをちらっと見たが、ただ微笑みを浮かべているだけで表情らしきものは見て取れなかった。
「おじさん、ありがとう」
「うん」
わたしは願いを込めるような気持ちで少しだけ力を込めてから少女を解放した。少女はわたしと向き合った。喜びを押し隠すように、静かに微笑んだ。
サカキさんはダッフルバッグからバスタオルを取ってきて、少女の肩にかけてやった。少女はサカキさんを見上げて、にこっと笑った。
「あっ、おじさん」
「なに」
「はるか、着替えるから、部屋の外で待っていてくれる?」
「ああ、わかった」
もっと何か言ってくれることを期待していた。椅子の横に置いてあったリュックを持って、名残惜しい気持ちでひとり部屋を出た。少女とサカキさんは何か言い合って、キャッキャと笑っていた。
ひとり薄暗い廊下で待っていると、なんだかやけに寂しく感じられた。
あの子を引き取りたいとイヌイさんに伝えておくべきだろうか。それとも沢田さんに先に言うべきだろうか。沢田さんはこのことに関しては利害が絡んでいるし、どうなのだろう。イヌイさんの話だと、いずれにせよ後見人である沢田さんの了承が必要になるはずだ。だったら先にイヌイさんに相談してみるか。
そう思っていたとき、廊下の奥にイヌイさんのシルエットが見えた。わたしは早足でイヌイさんに向かった。
「太田さん、もう終わりました?」相変わらずゆったりとした話し方だった。
「終わったって、なにがでしょう?」
「はるかちゃんがお礼に太田さんに踊るんだって、言ってましたけど」
「なんだ、イヌイさんはご存知だったんですか。それなら終わりました。ところで、ちょっとお話ししたいことがあるんですけど」
「あら、なにかしら」
「今さっき、あの子に自分の子どもになって欲しいと伝えました」
イヌイさんは文字通り目を丸くした。
「まあまあ、ずいぶん急な展開ですこと。それで、はるかちゃんはなんて?」
「結婚して、相手も自分を子どもにしたいと思ってくれるなら、という条件を出されました」
「それはそれは。ここで立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」
途中でイヌイさんは職員室を覗いた。イシカワさんに、園長室で話をしているから少女とサカキさんに伝えてくれと声をかけた。イシカワさんと武田さんはテーブルの上に地図や資料を広げて、何か相談をしているようだった。秋のドライブの打ち合わせでもしているのかもしれない。すぐ隣が園長室だった。袖机のひとつ付いた普通の事務用デスクと慎ましい応接セット、服の掛けられる高さのロッカー、ちょっとした本棚、観葉植物があるくらいだった。
「それで、太田さんの見通しはどうなんでしょう」
「いや、それが、今のところ、まったく当てがなくて」
「なかなか難しい条件を言われてしまいましたね」
「ええ」あらためてそう言われると、絶望的な気分になった。
ドイツにいたときに、仕事で駐在していた日本人女性と深い関係になったが、恋人というまでには至らなかった。単に異国の地で互いを慰め合うという程度だった。一年ほどして彼女は日本へ戻っていった。それっきり連絡を取っていない。いまさらではあるし、結婚を考えるような関係ではなかった。それに彼女ははっきりとは言わなかったが、どうやら日本には結婚を約束している人がいるらしかった。
帰国してからは不思議なほどそういうことがなかった。研究をして、淡々と日々の生活を送っていた。仕事はそれなりに充実していたから、そういう生活を顧みる必要も感じていなかった。いまこうして振り返ってみると、ずいぶん無味乾燥な私生活に思われた。
「未成年の養子縁組では、養親が結婚していた場合には夫婦双方が納得していなければなりませんから、そういう意味では結婚相手も自分を子供にしたいと思ってくれたらというはるかちゃんの出した条件は妥当なものだと思います。あの子の言う意味は一般的な同意よりはもう少しシビアなものかもしれませんけど」
「そうですか。それに一日や二日ならともかく、いずれにせよ何年も自分一人で面倒を見てやるのは難しいですよね」
「あと数年はそうでしょうね。もう少し大きくなれば逆に太田さんが面倒を見てもらうなんてこともあるかもしれませんけどね」と、イヌイさんは朗らかに言った。わたしが難しく考え過ぎていると思ったのかもしれない。
「さきほどイヌイさんは、あの子を養子にする場合には後見人の沢田さんの了承が必要だと仰ってましたよね」
「ええ。その上で家庭裁判所に申し立てることになります」
「沢田さんが了承してくれなかったらどうなるのでしょう」
「そうなるとなかなか難しいですね。はるかちゃんが一五歳になれば本人の意志だけで可能ですが、今はまだ未成年後見人の承諾が必要です。昨日会ったばかりでは沢田さんもすぐには認めてはくれないかもしれませんね。焦らず、関係を築いていくのがいいのではないでしょうか。それとも何かそう思われる、沢田さんから拒否されるような心当たりがあるのでしょうか」
サカキさんから口止めされているし、ここで具体的なことを言うのは難しい。証拠だってあるわけじゃない。
「いえ、そういうわけではないんです。ただ沢田さんからは、森野さんは里親を取ることを拒否していて、はるかちゃんにひとりで生きていくようにさせてほしいと言っていたと聞いたものですから。そういうことが遺言に残されているのでしょうか」
「わたしは遺言状を読んだことはありません。確かに沢田さんからは、お母さんは基本的には里親は取らずにひとりで成長することを望んでいたと聞いています。太田さんにあのようなことをお話ししましたのは、例外的に、もしはるかちゃんが親になってもらいたいと思う人が現れた場合には、その人もはるかちゃんを子どもにしたいと思えば養子縁組をしてもらう、ということでしたから。はるかちゃんの表情を見ていますと、その可能性があるのかなと思いました。一般的には、いい里親なり養親が見つかれば引き取って育てていただいた方が、子どものためにも施設としてもいいことなんです。ただ、はるかちゃんの場合はお母さんから十分に愛されて育っているようですし、お母さんが知り合いの沢田さんに頼んで後見人になってもらっていますし、あえてそれ以上のことする必要なさそうだという感じはしていました」
やっぱり沢田さんはその例外の部分をわたしには言わなかったらしい。沢田さんに限って忘れたということはないだろう。だとしたら、わたしにその可能性を感じて隠したと考えるのが妥当だ。
「では、沢田さんが親になりたいとしたらどうなんでしょう」
「後見人の場合は、子供が同意した上で家庭裁判所に申し立てて、認められればオーケーです。ただ、お母さんの生前に申し出て、断られたそうですから、どうなんでしょう。それでもはるかちゃんがそれを望むなら可能だと思います。お母さんの方もそこまで迷惑をかけることはできないと考えられたのかもしれませんしね」
迷惑か。沢田さんはわたしに同じようなことを言っていた。イヌイさんも沢田さんにそう言われて信じているのかもしれない。
父親である可能性は言っておくべきだろうか。もうあの子にも言ってしまったし、サカキさんにも知られた以上、イヌイさんには正直に言っておくべきか。
あの晩のことは森野さんが死ぬまで誰にも言わないと約束していたことを今になって思い出した。昨晩から、少女にも話してしまったし、サカキさんにも知られてしまった。でも昨日までは誰にも話さなかったのだから、結果的に約束は守ったことになる。よかった。
「あの、このことは他の人には絶対に言わないで欲しいんですけど」探るように、イヌイさんに話しかけた。
「はい」イヌイさんはわたしの目をまっすぐに見て真剣な面持ちで頷いた。「お約束します」
「実は、あの子の母親の森野木乃香さんと一度だけ関係を持ったことがあります。さっき子どもになってくれと言ったときに、あの子に父親ではないのだろうと聞かれて、うっかり『たぶん違う』と答えてしまいました。そうしたら、〝たぶん〟ということは母親と関係したことがあるのかと問われました。正直に答えました。だから、このことはあの子とサカキさんも知っています。あの歳の子どもにそんな質問をされて、面食らいました」
「今の子はませていますからね。それにあの子は賢いし。それで、父親である可能性はあるのかしら」
「まったくないとは言えません。でも、たぶん違うと思います。なんの根拠もないですし、時期的には自分が父親でもおかしくはないのですが」
本当にあの子には父親はいないのだ。今は確信を持ってそう思えた。そして、もし父親に該当する男がいるとすれば、それはわたしだった。変な話だが、そうなのだ。
「そうですか。父親ならはるかちゃんを引き取ることにほとんど問題もないと思いますし、沢田さんも反対しにくいと思います。ちょっと矛盾していますけど、実の父親でない方がいいとお思いなのかしら」
「いえ、そういうわけではないんです。正直に言って、ほんの数時間前までは父親でありませんようにと祈っていましたし、実際自分が父親だとも思えませんでした。今はできれば本当の父親であればいいと思っています。でも、どうしてか、違うと感じるんです」
「まあこういうことは、はっきりさせた方がいいかどうかは、微妙なところですよね。もしはっきりさせたいのであれば、DNA鑑定を受けることもできます。はるかちゃんと沢田さんの了解が必要になりますけど」
DNA鑑定か。もししてみたら、どういう結果になるのだろう。鑑定結果というのはどういう形で出されるのだろうか。あまり気が進まなかった。
「すみません。それについては少し考えさせてください」
「ええ、もちろん」
もういろいろとあの子には知られてしまったし、血液型くらい自分で聞いてみるかと思った。
「あっ、そうだ。こういう手もあるかもしれません」
イヌイさんは明るい顔でわたしをじっとみつめた。
「現在のところ、未成年後見人は一人だけということになっていますが、今後、複数の後見人が認められることになりそうなんです。最近、親による児童虐待が問題になっていますでしょう? それで、親権の扱いに関して、法改正に向けての議論がまとまりかけているところなんです。その中で、わたしたちのような法人が未成年後見人になることや複数の人が未成年後見人になることが認められることになりそうなんです。そうなったら、とりあえず太田さんもはるかちゃんの未成年後見人になるという手もあるということです」
「未成年後見人ですか。法律はいつごろ改正されそうなんですか」
「今、法制審議会というところで法案が検討されています。年内にはまとまって、来年早々には国会に提出される見込みのようです。国会審議がスムーズにいけば、施行されるのは来年の夏頃らしいです」
「意外と近い話なんですね。ところでわたしは、そもそも未成年後見人がなんたるかを正確には知らないのですが」
「そうですよね、普通の方にはあまりなじみのない言葉ですわね」
イヌイさんは立ち上がって、机からファイルをひとつ持ってきた。未成年後見人の仕事と責任というところを開いてわたしに示した。
「仕事としては大きく分けて、身上監護と財産管理の二つがあります。身上監護というのは、ここにも書いてありますけど、子どもが社会人として自立できるまで、生活環境に配慮して、指導、援助していくことです。普通の親御さんがやることと同じです。必ずしも一緒に暮らすわけではないので、その場合は子どもが寮生活をしているようなものですね。こちらの財産管理というのは、はるかちゃんのように親が亡くなって遺産や保険金を残した場合などに、その財産を保全、管理することです。保険金の受け取りから始まって、必要な出費の支払い、収支報告の義務もあります。はるかちゃんの場合だと、太田さんが身上監護の方を引き受けて、沢田さんが財産管理をするというパターンになるかと思います。未成年後見人を複数選任できるようにするという提案は、日本弁護士連合会からのものなんですよ。だから弁護士である沢田さんは拒否しにくいと思います」
沢田さんが財産管理か。問題は残るが、それでも後見人が沢田さん一人よりはましだろう。
「この辺り、コピーをしましょうか?」
「ええ、お願いします」
イヌイさんはファイルから数枚抜き出すと、部屋を出て行った。未成年後見人になるということは、あの子は基本的にこの施設で生活して、ときどき連絡を取って状況を聞いたり、アドバイスをしたりするという感じか。バレエ学校に通う援助もしてやれるかもしれない。遊びに連れて行ってやることも沢田さんの了解を取ったりせずに比較的自由にできるだろう。すぐに結婚することはどう考えても無理だから、そう悪い選択ではないかもしれない。あの子だって、嫌だとは言わないだろう。
戻ってきたイヌイさんは両面コピー三枚をくれた。ぱらぱらと見たら、財産の管理というところに、〝安全確実であることを基本とし、投機的運用は絶対に避けてください〟と書いてあった。あまりそこばかりを見ていると逆に自分が変な目で見られかねないので、ほかもめくってみたが、お金絡みのことがほとんどだった。要は、あの子の財産を、後藤氏はおろか、沢田さんが運用することも許されないのだ。
「なんか、お金に関することが多いみたいですね」
「まあ、親の役割をあらためてくどくど説明する必要もないでしょうし、それにやっぱりお金に関しては問題になるケースもあるようですからね。たとえば、子どもの叔父さんや叔母さんが後見人になったけれども、遺産を勝手に使い込んで、いざ成人になって渡してくれと言ってもほとんど残っていなかったりということも実際にあるようですから」
「そうなんでしょうね」
少なくとも法律上はあの子が守られていることは間違いない。でも、できるだけ面倒なことにならないようにしてやらなければならない。
「あ、そうそう。それから、後見人になるときには生活状況などを聞かれたり、調べられたりすることもありますから、その辺りは心しておいてください。むしろ養子縁組の場合は、意外とそういうことは少ないんですけどね」
「はい、わかりました」
とりたてて調べられて困るようなこともないだろう。
「では、沢田さんにはどのようにお伝えしましょう。それとも、ご自分で直接お話しされますか」
「明日、沢田さんがこちらに見える予定ですよね。時間はもうお決まりですか」
「ええ。午後三時の予定です」
「面と向かって話をした方がいいでしょうし、第三者のイヌイさんにいていただいた方がいいと思いますので、わたしもその時間に伺っても構わないでしょうか」
「ええ、わたしの方はそれで構いませんよ。ただ、沢田さんがどの程度時間を取れるかはわたしの方で分りかねますが」
「時間がなければその時はその時です。変更があれば、連絡をいただけますか? といっても、まだ連絡先もお伝えしていませんでした。いま名刺を切らしていまして」
そう言いながらリュックからメモを取り出そうとすると、イヌイさんは制止するように手を挙げ、机に回った。
「よろしければ、こちらの用紙にご記入いただけますか。はるかちゃんのファイルに関係者として綴じておきますから。それからわたしも名刺をお渡しするのを忘れていました」
「児童養護施設 採光園 園長 乾喜美子」と書かれた名刺を見て、イヌイがこういう漢字であることがようやくわかった。どうしても「犬井」か「戌井」としか浮かんでこなくて、もやもやしていたのだ。
用紙には、氏名、住所、連絡先、職業、児童との関係、などの記入欄があった。
「児童との関係はなんとしておけばいいでしょうか」
「問題なければ、養親希望としておいてください」
養親希望と書き込んだ。あの子を子どもとすることが急に現実味を帯びてきたような気がした。しかし、まず結婚が先だ。それを思うと、その現実味もはかない泡のように感じられた。でも一歩を踏み出さなければ、何事も始まらない。
「うまくいくといいですね」
乾さんはわたしから記入した紙を大事そうに受け取った。この人にそう言ってもらうと、本当にうまくいきそうな気がした。
園長室の窓から外を見ると、いつの間にか日はもうほとんど暮れかけていた。わずかに夕焼けの名残りが空の端に留まっていた。
乾さんと職員室を覗くと、イシカワさんと武田さんの話に、少女とサカキさんも加わっていた。もっともサカキさんは少女の後ろから見ているだけのようだった。
「武田さん、計画はそんな感じでどうかしら」
乾さんが中に入りながら話しかけると、少女とサカキさんも顔を上げた。ふたりとも扉のところにいたわたしを見つけると、家族か友だちでも見つけたような親密な笑顔を見せてくれた。
「ええ、大丈夫だと思います。持ち帰って、仲間にも話しておきます」武田さんはにこやかに顔を上げて、答えた。
その顔を見て、帰りもタクシーが必要なことに気付いた。タクシーがいるのに別のタクシーを呼んでもらうのもおかしいし、今後、この子もお世話になることもあるのだ。それに、ドライブの打ち合わせがあったにせよ、仕事中にずいぶん長い時間ここにいたことになる。もしかすると、わたしたちが帰るのを待っていてくれたのかもしれない。
「武田さん、わたしたちはそろそろ帰ろうと思っていますが、帰りも駅までお願いできますか」
中に入りそびれてしまったわたしは、入口のところに立ち止ったまま武田さんに声を掛けた。
「ええ、もちろん、よろこんで。わたしもそろそろ仕事に戻らなければいけません」
「じゃあ、お願いします。あっ、でも、あと数分待ってもらえますか」
武田さんは、構わない、車で待っている、と言った。乾さん、イシカワさん、少女と一人ずつお辞儀をして、タクシーに乗るサカキさんとわたしには、ではあとで、という風に軽く会釈をしてから武田さんは出て行った。
武田さんが行ってしまうと、わたしは少女にできるだけ穏やかに話しかけた。
「はるかちゃん、ちょっと話があるんだけど」
少女は真面目な顔でちょこっと頷くと、部屋の入り口にいるわたしのところに駆け寄ってきた。しゃがんで少女を迎えた。
「明日、沢田さんが来るよね。おじさんもその時に合わせて、また来る。そして、君を自分の子どもにしたいって意志を伝えるつもりだ」
「うん」少女の返事は普通に明るく、素っ気なかった。
「それだけ」あまりの素っ気なさにそれ以上なにを言っていいのかわからなかった。
「うん。じゃあ、また明日会えるね」少女はにこりとした。
「ああ。そう、また明日会える」
なんだか、まだぎこちない、つきあい始めた恋人のような気分がしてきた。どちらかというとわたしの方がテンションが上がっていて、少女の方は平常心を保っているようだった。
わたしはやるせない気持ちで立ち上がった。サカキさんは二、三歩下がったところでわたしたちを見守っていた。
「じゃあサカキさん、そろそろ帰りましょうか」
サカキさんは「はい」と元気に答えて、寄ってくると、同じように少女の前にしゃがんだ。
「はるかちゃん、いろいろとよかったね」
「うん」
わたしのときと違って、力のこもった返事だった。まだまだサカキさんとの関係に勝てそうにはない。出会ってまだ二十四時間も経っていないのだ。それこそ、乾さんの言っていたように、焦らず、時間をかけて築き上げていくしかない。
玄関まで少女と乾さんとイシカワさんの三人が送ってくれた。少女の見送りも玄関までだった。わたしとサカキさんは深々と頭を下げ、乾さんに今一度「よろしくお願いします」と少女を託した。そして、わたしとサカキさんは玄関から少し離れて待っているタクシーまでの短い距離の間、何度も振り返って少女に手を振った。
【次回、第一部 第三章 一 タクシードライバーの過去とフカヒレスープと初めてのコーヒー】毎週木曜日更新
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます