白羽しらはね天使あつか。彼女の噂を学校内で聞かないことは無い。

 曰く中間試験の成績が学年トップであるということ。理系文系どちらの試験もかなり好成績を納めていて、日本全国同時に開かれる模試でもトップクラスの結果を出している。

 曰くどこかの令嬢で、大企業のイケメン坊ちゃんと婚約しているという。どこかの高級レストランで一緒に食事しているところを目撃した者がいたらしい。

 曰く街の中でモデルやアイドルのスカウトの数が数百回にも及んでいるが、全て断っているそうだ。

 噂の中でエリートやお嬢様であることを揶揄することが広がっている。


 そんな彼女が一般家庭の普通の高校生を演じる少年、神 様一の部屋で自慰をしていた。かなり激しく秘部を弄っていたようで、自慰をやめたにも関わらず、全身の高揚が収まっていなかった。乱れた呼吸で胸を上下しながら様一と向かい合っている。

 流した汗が身体をテカテカと照らして、顔や胸の凹凸を強調していた。まるで様一を誘惑しているような表情が一層イヤらしさを倍増している。


「一応聞いておくけど、ここで何してんの? 白羽さん」


 誘惑に抗いながら様一は天使の尋問に当たっていた。彼女の醜態を視界に入れないように目を瞑っている。もし目を開けて天使を視界に入れてしまうと理性を保てる自信がなかった。


「はい、神様を想って自慰をしていました」

「随分直球な言い方だけど、ここがオレの部屋であることをわかってて言ってるよね」

「もちろんです。あわよくばそのまま私の貞操を奪っていただこうかと」


 悪びれることなくそんなことを抜かした天使。

 初めは様一の下着で自慰をしていたことで、自分を懸想していたのではと想像して少しだけ期待したものだ。校内一の美少女と言われる彼女の想い人が自分なのではと思った。しかし、様一は自分が神様ではないことを思い出す。神様を思って自慰をしていた。今の天使あつかの言動が、懸想の対象が自分ではないことを確信させる。

 ここでいう神とは様一の父親を名乗るおっさんのことだ。そんな存在に貞操を渡そうとする天使を少し軽蔑してしまっている。

 まだ信用しきっているわけではないが、仮にも自分の父親を名乗る存在。母である美命とかなり仲の良い夫婦の関係を引き裂きかねないその言動を様一は気に入らなかった。


「それより、状況の説明をしてくれよ。母さんが連れてかれて頭混乱してんだよ」

「畏まりました。それではお父上からの言伝をお伝えいたします」

「いや、そのパンツを取ってからな」


 真面目な話をこれからしようというのに、頭に様一のトランクスを被ったままな天使。あまりに無様な身なりをした少女を前に、真面目になりきれなかった様一は強引に自分のトランクスを取り上げる。ついでに涎などでドロドロに濡れた二枚のトランクスも取り上げて場所を移すことを決定する。

 彼女自身の衣服や身体を清めるために一階の浴室を貸し出す。軽くシャワーを浴びてもらい、代わりの着替えとして美命の衣類を身につけてもらう。


 先程とは打って変わって身綺麗になった天使は、リビングで先程美命の座っていた椅子に着席する。テーブルに放置されていた湯呑みを片付け、新たに容れ直した茶の立ち込める湯気を尻目に話をしていく。


「まず聞きたいんだけど、白羽さん。何をしてたのか改めて説明して」

「もちろん自慰を……」

「それは見てればわかる。だからなんでそれをしてたのかって話だよ」

「それは神様をお慕いしているからでございます」


 様一はそれを聞いて顔をしかめる。神様と名乗った男は先程までそこにいたおっさんだ。こんな美少女があんなおっさんに惚れてあんなに濡れるほどの自慰をすることを想像して気分が悪くなった。

 それがなぜ様一の部屋と下着、布団などの日用品を使用していたのかは気になるところではあるが、それを聞いてしまうと様一の天使に対するイメージが完全に軽蔑に向かってしまう。先程の自慰で良いイメージは崩壊しているため、それ以上の醜態を目撃したくなかった。


「……よく理解できないけど、じゃあ本題。あんたが守護天使ってことでいいのか?」

「はい。私は天国より派遣された守護天使にございます」

「それは昔から?」


 様一の記憶を辿ると、ずっと小さい頃から天使の名前は目撃されていた。小学生の頃はどこかで噂を聞いていた記憶がある。近所のどこかでお嬢様が引っ越してきて、その名が白羽であった。クラスメイトの男子が噂してたのだ。実際にあったことはなかった。越してきたのが学区外であったことも理由の一つだが、当時の様一は家事炊事を覚えるので手一杯だった。その努力が実って今では家庭の大抵の事はできるようになっている。

 中学のころにもピアノのコンクールに入賞したとか、バレエのプロに見初められたとか、大学に飛び級確定とかそういった噂が流れていた。その頃から県外からも天使を一目見ようとする者も現れたらしく、そこまで話題になっている少女に様一は興味を持った。

 しかし、実際に天使を目撃することはできなかった。途中で事故に遭う、転んだお婆ちゃんを助ける、見知らぬ人の道案内をするなどの細事に巻き込まれて結局天使を目撃することなく中学を卒業。

 高校になってから初めて天使の姿を見ることが出来た。そのときには噂の規模は縮小され、見目麗しさと成績の良さだけが目立つようになっていた。


 天使の存在自体を目撃出来なかったとはいえ、存在を揶揄する噂はいくつも聞いてきた。だからこそこ質問だった。昔から白羽天使の名前を聞いたことのあった様一は、いつから天使が神様と関わりを持っていたのかを問いただしたかった。


「昔から私はずっと、貴方を見守っておりました」

「オレを……?」

「付かず離れず。様一様が高校に入るまでは姿を見せぬよう妨害工作をしておりました」


 天使の言葉を様一は固唾を飲んで聞き入る。様一は噂で聞いた未知の存在。なんとか一目見ようとしても叶うことなく風化していた。そんな存在がずっと様一を見ていたことを自供した。

 だが、それが出鱈目である可能性も否めない現状で、全てを完全に信用するわけには行かない。


「オレをずっと見てきたって証明できるか?」

「もちろんです。様一様が生誕された瞬間から文字通り、おはようからおやすみまでずっと毎日見続けましたから」

「おはようから……おやすみまで……?」

「例えば様一様が四歳の頃、犬の糞を踏んでしまった拍子に転んでしまって、池に落ちたことがありましたね」


 様一は先程とは違った理由で固まってしまう。昔の黒歴史の第一ページがまさに天使の言うそれだったからだ。

 そんな彼の様子を尻目に天使は続けていう。


「様一様が七歳の頃、川の近くで成年向けの雑誌を見つけて、食い入るように見入っていました」

「ちょっ、ちょっと待って」

「更に様一様は遊びの中で川に行く習慣が身につき、度々捨てられていた雑誌を漁っていましたね」


 様一の静止を聞かず、ひた隠しにしてきた黒歴史を淡々と言い募らせていく。

 数分すると様一の持つ黒歴史を全て言い当ててしまい、悶絶させるという見事な妙技を披露していく。もし同じような経験を持つ者がそばにいたら『やめたげて』といわんばかりの酷い状況が様一を襲っていた。

 それでも天使の猛攻は止まらない。


「様一様が九歳の時、母君の美命様のために初めて炒飯を作っておられました」


 だか、話の色が少しだけ変わっていく。


「十二歳の頃、家事炊事をほぼ完璧に納めた様一様は、更に美命様を想って家の中で催し物としてサプライズパーティを開かれました。美命様は大変お喜びになっておられました」


 今度は様一の黒歴史ではなく、様一の生き様全体の話に切り替わる。


「十三歳の頃、私のことを気になりだした様一様は、私のことを一目見ようと試みました。その時々であった細事。転んだお婆さんを助け、手当して重い荷物を代わりに持って共に歩いていらっしゃいました。事故現場に遭遇した時も、率先して救急車を呼んで状況を完璧に抑えていました。見知らぬ方に道案内を頼まれ、様一様は懇切丁寧に。尚且つ、それでも分からないという方のために自ら目的地に赴いて道案内を完了していました。様一様はとてもお優しいお方であると、私はお見受けしております」

「……そこまで見ていたんだ」

「はい。図書館で私のことをじっと見ていることも知っています」


 天使はここで笑みを浮かべた。その表情は先程の自慰の時とは違い、美少女という名に恥じない魅力的なものだった。美形の人間を美命で見慣れている様一だが、思わずその笑顔に魅了されてしまうほど。まるで愛しい弟を見守る姉のように慈愛に溢れていた。

 しかし内面は変態的な性格をしていることを様一は知っている。なんせ男子の部屋で、その父親を想って自慰を満悦の表情でしてしまうような女だ。魅了されてからそのことを思い出して頭を抱える。この女はそういうやつなんだと自分に言い聞かせて落ち着かせた。


 このやりとりで天使が様一をずっと見ていたことを証明された。黒歴史に加えて、様一が今までやってきた善行が天使によって暴露した。若干のダメージを負ったものの、これで話を続けることが出来る。


「で、君は守護天使……ってことだけどさ、何かそれを裏付けることはできる?」

「はい。一番手っ取り早いのはこれですね」


 天使は座っていた椅子から立ち上がる。様一の視界に全身が写る位置に身を移動させた天使は、両腕を拡げて顔を上に傾けて目を閉じる。軽く深呼吸をして、少しだけ息む。そうすると、全身が淡く白い輝きを放ち、細部がシルエットによって包まれてしまう。そのシルエットはぐんぐん変わっていく。大きく体格が変わることは無いが、左右に尖った形のものが形成されていく。衣服も美命の部屋着だったのが変わっていき、身体を包むだけの布、ワンピースのような形状になる。少しすると淡い光は収束していった。

 その様子を目を丸くして見つめる様一。シルエットだったその姿は完全に収束し、その姿を様一の目に写すことができるようになった。


 ブラウス色の質素なワンピースに身を包んだ天使。貧相とも言えない胸が少しだけ強調される身なりに少しだけ魅了されてしまう。しかし、目立つのはその身なりではない。

 背中から生えている白い両翼。それは片方だけで腕の長さで、腕の関節ほど部分で折れ曲がっている。そして頭から金色の輪っかが浮かんでいた。

 創作物や神話などで登場する天使の姿そのものだった。


「この姿を見ていただければ、私が天使てんしであることを信用して頂けるでしょうか」

「コスプレとかじゃ……ないの……?」

「確かめてみますか?」


 天使は翼を強調するように背を向ける。肩越しに手を上下することでこちらに来るように指示していた。

 様一はそれに従って天使の背中の前に歩み寄った。


「翼に触ってみてください。血が通っていて、温かみがあるはずです」

「いいのか?」

「はい、どうぞ。感覚があるので、出来れば優しくしてくださいね」


 言われた通り、様一は慎重に手を伸ばし、優しく翼に手を添えた。


「あっ……」


 触れたと同時に天使の口から喘ぎのような声が漏れる。少し雰囲気に色が含んでしまったことで緊張感を増している。それと同時に未知の領域を見て興奮しているのを隠し切れない。

 天使の言う通り、翼には血管が通っているようで、血液の通りがわかってしまう。トクトクと様一の手を軽く押し返す感覚があった。温かみもあり、不思議と触っていて気持ちの良さを感じる。なんの感覚だろうと考える様一。すぐにそれは思い出された。

 犬や猫を撫でる時、その毛を触れてもふっとした感触を楽しむことができる。それと似た感覚なのだ。不思議とその翼に目を惹かれ、優しく撫でていく。


「あんっ、あぁ……」


 不意に気になったことがあるため、様一は手を翼の付け根の方に手を動かした。その位置は翼だけではなく、天使の背中にも触れてしまう。どうやら天使の身につけるワンピースは翼の部分が貫通しているようで穴が空いている。少し穴を広げて肌を直接露出させて付け根を視界に入れた。本当に直接背中から生えていることを確認するためだ。

 翼の付け根と背中を交互に人差し指で触れることで、接着剤などでくっついていないことを確認した様一。そのまましばらく翼と背中の感触のギャップを楽しんでいた。

 しかし、天使の様子を見た時に我を忘れていたことを思い出した。


「はぁ、はぁ、よういち……さまぁ……」


 頬を紅く染め、暖かい息が口から吐き出されていた。先程の自慰よりはマシではあるが、呼吸も乱している。虚ろな目で艶の含んだ瞳で様一を見ていた。完全に欲情してしまっている表情だった。

 それを見て、様一は顔を青くした。やりすぎてしまったのではと後悔してしまう。


「ご……、ごめんっ、やりすぎた……かな?」


 様一は少しだけ潔癖なところがある。例えば同じクラスメイトに、いわゆる援助交際を自慢する女子がいたら軽蔑する節がある。好きでもないやつと寝ることのどこが良いのか、と。誰かの彼女を寝取ってやったぜと自慢する男子に対してもそうだ。人の気持ちは移ろいでいくものなのはわかるが、他人の彼女を奪うことをなんとも思わないのだろうかと考えてしまう。

 天使あつか神様親父に対して恋している。それが夫婦の仲を乱すきっかけになりかねないことだとしても、その気持ちがあることは間違いない。そんな相手を自分に対して欲情させるのは気色が悪かった。

 仮に美少女であっても、両想いの交際関係でなければ様一は身体の関係を持ちたくなかった。ましてや自分の貞操を捧げるならそうなりたいと思っていた。

 だからこそ、今の自分に欲情した天使あつかの様子を様一は嫌悪する。


 自分がこうなりたいと思っていても、思春期男子である様一は本能に逆らえる気がしない。理性と本能の間で矛盾が生じているのを様一は感じていた。


「よういちさま……」


 天使の翼から手を離して距離を取った様一。しかし、天使は離れた距離を詰めていく。そのまま勢いを載せて正面から様一に密着した。


「白羽……さん……?」

「よういちさま……」


 抱き着いたまま顔を上向きにする天使。詰まった距離が様一と接吻してしまいかねないほど近いものだった。少し様一の顔を傾けただけで接吻が完了してしまう。それほど様一と天使の唇は近くなっていた。

 そんな中で天使は足をつま先立ちをして唇の距離を詰めていく。


「待って、白羽さん。神様に惚れてるんだよね、君」

「……っ」


 少し早口になって様一は指摘する。それを聞いた天使は一気に冷静になったようで、目を丸くして身体を硬直させてしまう。

 しかし天使は距離を取ることもなく、様一を突き放すこともなく密着したまま固まっていた。様一に見せる表情が悲壮に満ちてるように見えて、若干の罪悪感を感じてしまった。


「少し落ち着こう。白羽さん」

「……そうですね、すみません」


 ここまできてやっと天使は様一から身を離した。

 そこで見せる表情が凄く切なそうで、気持ちが様一にも伝染する。


「様一様、これで私が天使てんしであることを信用して頂けたでしょうか」

「あぁ……」

「それはよかったです」


 ここで再び笑顔を見せる天使。それが無理に作っていることを様一はわかってしまった。

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