第22話 「直海に手ぇ出したのかって聞いてんだよ!!」

 事務所を出て二階のトイレ掃除に向かう孝太郎。

 二階には千夏のテリトリーとなっている岩盤浴施設があり、今の孝太郎は千夏の雑用のごとく働いているのだった。


 階段を登り始めた孝太郎は、上から一人の女性従業員が降りてくるのに気づいた。

 彩音である。


 孝太郎は彩音を格子越しに見上げながら、にこっと微笑む。

 彩音はちらっと目を合わすが、すぐに目線をそらし整った凛とした表情を崩さない。

 普段なら彩音の方から声をかけて来るのだが、機嫌が悪いのか反応がなかった。

 階段の踊り場で対面するも、全く孝太郎に見向きもしない。


「朝倉さん、お疲れ様です」


「はい」


 挨拶するが、彩音は挨拶を返すこともなく目も合わさず軽く受け流して通り過ぎる。


 確かに今日の彩音は朝から機嫌が悪い。

 機嫌が悪いというよりも、孝太郎のことをことごとく無視しているし、目が合ったとしても軽蔑するような眼差しを送っていた。


 色々考えたが、心当たりや思い当たる節が全くない。

 なので、千夏と喧嘩でもしたんだろう、と勝手に思っていた。


 孝太郎が二階の岩盤浴施設のトイレ掃除をしていると、閉めたはずのドアがガチャっと開き何者かが入ってきた。

 清掃中はドアの前に『清掃中の為、隣のトイレをご利用ください』旨の立て看板を設置しているのだが、それでも入ってくるなんてどんな奴だと振り返ると、そこには苛立った表情で孝太郎を見下す女性がいた。

 千夏である。


 千夏は孝太郎と目を合わせたまま、ゆっくりと後ろ手で個室のドアを閉める。


 ──カチャッ


 乾いたラッチの音が、耳に響く。


「孝太郎、聞きたいことがあるんだけど」


 ──ゴクリッ


 密室。

 千夏と二人きり。

 孝太郎は以前手を握られた出来事を思いだしゆっくりと生唾を飲み込むと、喉の筋肉の共鳴音が脳内に響いた。


「単刀直入に聞くけどさ、直海とどうなの?」


「へ?」


 全く予測していなかった質問。

 孝太郎は質問の意図や話の流れがわからず、腑抜けた返事をしてしまった。

 その何とも言えないとぼけた顔が、千夏の苛立ちを熱を帯びた怒りに変え、一気に頂点まで押し上げる。


 ──ドンッ


 壁に叩きつけられた千夏の拳。

 響き渡る鈍い衝撃音。

 逃げ場のない密室。

 冷たい空気。

 行き場のない怒りを壁にぶつける千夏。

 殴った拳の痛みなど感じないほどに、千夏の顔は義憤に満ちていた。


「だから!!直海に手ぇ出したのかって聞いてんだよ!!あんたのせいで彩音がどんだけ傷ついてんのかわかってんのか!!!」


 千夏の痛憤めいた怒鳴り声が個室に響く。

 歯を食いしばりながら、殺気混じりに孝太郎を睨み付ける。


 次第に速くなる孝太郎の呼吸。

 千夏の威圧的な態度に、孝太郎はとっさに胸を押さえしゃがみこんだ。


 溢れでる汗。

 ガタガタと震える奥歯。

 焦点の合わない黒目と白目。


 目の前に現れた、そこにいないはずの

 過去のトラウマが孝太郎を襲う。


 孝太郎はしゃがみこみ、体を大きく揺らしながらひーひーと呼吸する。

 その仕草を見て千夏も一緒にしゃがみこみ、孝太郎を抱きかかえ懸命に彼の背中を擦った。


「ごめん、ごめん、孝太郎。責めてるとかじゃないの」


「大丈夫です。少し、息苦しく、なっただけです、から」


 孝太郎はゆっくりと深呼吸し、彼なりに乱れた呼吸を整えて行くが、千夏のことを警戒してかなかなか整わない。


「あのね、孝太郎が直海のことをどう考えてるのか知りたくてさ」


「何の話ですか?何もありませんよ」


「そうなの?付き合ってるとか」


「なんですか、それ?」


「それが原因で彩音、朝から機嫌激悪なんだけど」


「それも意味がわかりませんが。何か勘違いされてませんか?」


 ──嫉妬で機嫌が悪いのか?なら、順調……


 ようやく話の流れを読み取れた孝太郎は、呼吸を整えながら先日の出来事から先程休憩室で桃花と梓と話した内容までを簡潔にまとめ、千夏に伝えた。

 千夏は予想と違う返答内容に呆気に取られたようで、口をポカンと開けている。

 せっかくの美人が完全にアホ面と化していた。


「結局、二人の間にはなんもなくて、直海が勝手に一人で舞い上がってるってこと?」


「はい。なので何か恋愛的などうこうってことは全然ないんですよ」


「ふむふむ。わかった」


 何かに合点のいった千夏はよっこらしょっと立ち上がると、右手を胸に、左手を腰に当てて背筋をピンと伸ばす。


「そういうことなら、この千夏お姉さんにドンと任せなさい!」


 千夏は自信満々なドヤ顔でニヤリとする。


「大丈夫。彩音の誤解は千夏がといてあげるから」


「それは助かります」


「その代わり、なんだけど……」


 今度はさっきまでの自信満々のドヤ顔とは違い、何か言いにくそうな顔で唇を噛み、語尾を濁す千夏。


「その代わり?」


 孝太郎が聞き返すと、千夏はそれまでの表情とは全く違う、ぞくっとするような表情で孝太郎を見つめる。

 普段、周りには見せない色っぽい表情。

 その表情からは、元々の美人顔も影響し生々しい色気が溢れでている。

 孝太郎と距離を詰めるように、再びしゃがみこむ千夏。


「条件って訳じゃないけど、お願いがある。二つ」


「内容にもよりますが」


「孝太郎……今日、夜…………暇?」


 孝太郎と目線を合わせず、うつむきながら口を尖らせ単語だけを並べた。

 その単語の一語一語に甘い色が飾られる。

 そして、以前のように孝太郎の手を優しく握りはじめた。

 少し汗ばんだ千夏の手から、彼女の体温が伝わってくる。

 孝太郎は千夏の色っぽい表情と仕草、その単語達から連想される出来事でよからぬことを妄想したが、ややこしいことになりそうなので断ることにした。


「すいません、今日は予定がありまして」


 それを聞いた千夏は残念そうな顔をしたが、それでもニコッと笑う。

 褐色の良い美しい肌と初めて見る千夏の無垢な笑顔に、孝太郎は彼女を見つめるしかできなかった。


 恋に、落ちそうになった。


「そかそか。ならしかたないね」


 そして千夏は孝太郎から手を離すと、人差し指を自身の柔らかい唇に当て、内緒だよという顔をする。


「これから言うことは、孝太郎の胸にだけ留めといてね」


 黙って頷く孝太郎。


 千夏の吐く吐息。

 孝太郎の吸う空気。

 千夏は、お互いの吐息が嗅ぎとれる程の距離まで顔を近づける。


「あのね……」


 激しく刻む鼓動。

 逃げ場のない密室。

 孝太郎に覆い被さる千夏。


 熱を帯びた千夏の唇。

 刺激を求める千夏の唇。

 そっと孝太郎に近づく……。



 ***



 ──ガチャ


 孝太郎が周囲を警戒しながらトイレから出てくる。

 そのあとを、千夏が乱れた着衣を整えながら後に続く。

 と、急に孝太郎が立ち止まった。

 いきなり立ち止まったので、千夏は思いっきり顔面を孝太郎の背中にぶつかる。


「痛っ!ちょっと急に止まんないで……」


 そう言いながら固まる千夏。

 孝太郎と千夏の前に、苛立った表情で腕を組み二人を睨み付ける女性がいた。

 彩音である。


「お客さんから『トイレで怒鳴り声聞こえる』『喧嘩してる』って言われて来たら……は?仕事中に何してんの、お前ら?最低」


 彩音は激高しきって呆れたのか、それ以上なにも言わずその場を立ち去った。


 残された千夏と孝太郎。


「桝屋さん、まずはこの誤解から解かなきゃですね」


 千夏の返事がない。


「桝屋さん?」


 彩音に叱られて落ち込んでるのかと横目で千夏を見ると、そんなことはなくむしろニヤニヤとほくそ笑んでいた。


「これはこれで面白い展開に……」


「ええっ!!」


 ***


 その後、千夏が彩音の誤解を解く為に、再びラーメンを奢らされたことは言うまでもない。

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