月の落胤

@fontoplumo

第1話『喪失』

 東京には空がないと言ったのは誰だったか。

 中学生の頃に読んだ本にそう書いてあったことは覚えているがそれを誰が言って誰が書いたのかまでは思い出せない。

 最近、物忘れが激しいからか、そういったどうでもいいようなことはおそるべき速度で忘れ去られていく始末だった。

 しかし大切なことはいつまで経っても忘れることを許してはくれなかった。

––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––

  友人が居た。

 私にとっては無二の存在であった。

 そして、相手もそうであったら良いなと云う願望にも似た期待を以前から持っていた。

 線香の匂いと僧侶の経を読む声が意識を現実へと引き戻すのを阻害している。

 妙に現実感がないのは私の精神的なものではなく、外的要因であると思おうとした。

 しかし、そうではなく、棺の中でいつも以上に晴れ晴れとしたような表情で声を上げることもなく眠っている男を見て、「ああ、やはりこれは現実なんだな」と改めて思わされた。

 出棺される段となって、参列していた白髪交じりの女性が泣き崩れる。

 それを女性と同年齢程の隣で毅然と背を伸ばして立っていた男性が肩を抱く。

 よく見なくても目に涙が滲み、目元が赤く腫れあがっているのが解った。

 男の両親だった。

 私も幼い頃、世話になったのを覚えている。

 それは私の隣で同様に嗚咽を漏らし、ハンカチで目元を拭い続ける女にも云えたことだった。

 ただ女はこの式に向かう道中から一度も口を開かなかったことからその胸中は察するに余りあった。

 男の家庭は一般的な上位中産階級に属する程の生活を送り、男も最初の子供であったからか、何不自由なく育ってきた。

 私も女もそうした姿を小さい頃から見てきた。

 そして男がそれを鼻に掛けない生来の人の良さを持っていることも長い付き合いだからこそわかっていた。

 私は男の両親を見た後に、その横に居る喪服を着た女子高校生を見た。

 なぜ、女子高校生だと解るのかと云えば、男には四つ歳の離れた妹が居るからだ。

 両親とは違い、感情の読めない何とも形容し難い表情をしている彼女は自らの兄が安置されている棺をじっと見つめている。

 兄妹仲は良かった。

 私も男と四六時中、一緒に居たわけでもない為、実際のところはどうだか解らないが、少なくとも私や女の前での二人は世間一般的な兄妹よりもだいぶ仲が良いように見受けられた。

 私は少なくとも男が生前、自分の前では出来るだけ素を曝け出してくれて居たのだと心から信じたかったのだ。

 そうして通夜が終わった。





 男の両親のご厚意により、親族ではないにも関わらず、私達は告別式にまで呼んで頂いた。

 本来は密葬と云う形にするつもりだったようだが、男の祖父母が異を唱えたことにより、こう云う形に落ち着いたという。

 彼らの社会的地位の名残かそれとも私達では想像もつかないしがらみの多さ故なのか、男の両親はこういう状況にあっても気丈に振る舞っていた。

 通夜から一日経とうが男の両親の顔が変わることはない。

 ――――否、これから先も根本では変わることはないのかも知れない。

 男の妹も通夜の時と変わらない姿だった。

 唯一違うと云えば、彼女が制服を着ていることだろう。

 通夜の時は喪服だった。やはり制服を着ていると歳相応の女子高生に見え、彼女にはそう云った装いが似合っていた。

 しかし装いが変わったからと云って、その内心までも変化するわけではない。

 彼女の顔は先日と同じような表情を浮かべていた。

 そしてそんな彼女の胸中を察してか彼女と仲が良い私の隣に坐っていた女が話し掛けに行く。

 やはり同性でなければこう云ったことは上手くいき辛いのかも知れないと私は考えていた。

 今も尚、和らいだとは云え、依然、形容し難い表情を浮かべ続けている彼女の真意は解らない。

 そして私には察することさえ出来なかった。

 今となっては、惜しむ家族も惜しまれる家族も居ない私には未来永劫わからないことなのだから。



「ありがとうね」

 通夜が始まった際に私と女に話し掛けてきた男の両親の第一声がそれだった。

「いえ、昂平とは小さい頃からの付き合いですから……心中察するに余りあります」

 私にとっては本心からの言葉だった。

 女もまた何度も云っていたお悔やみの言葉をもう一度、云い、ハンカチで再び溢れ出てくる涙を拭った。

 私と女にとっても男は幼い頃からの付き合いである為、その存在の喪失を一言で表すことはどうしても出来なかった。どう云えばその存在の大きさが伝わるのか、わからなかったからだ。

 ただ無二の存在だと口に出して云わなかったのはそれが陳腐になってしまうのを恐れたからである。

「昔からあの子と一緒に居て……遊んでくれて……」

 男の母親が嗚咽を漏らす。

 父親が背中をさする。

 最初の礼の言葉は二つの意味があったのだと私と女は察した。

 女は別として、私と男は友人が多い方ではない。

 と云うより、同性で互いが互いを除いてそう云った関係を築ける相手が居なかった。

 男は生前、それを気にも留めていなかったから、私としても同様の考えを持っており、それでいいと思っていた。

 ごくごく狭い世界で完結した濃密で排他的な進歩のない人間関係だと解っていたが、私はそれ以上、世界が拡大することを望まなかった。

 女もまたそれを近くで見て横槍を入れつつ、微笑ましく見ていたことを昨日のことのように思い出せた。と云うよりほんの数日前まで普通に会話していたのだから、文字通りの意味とも云えた。

「あの子元気だったのよ……本当にいつも通りだったのに……いつもなら朝早く起きてくるのに全く起きてこないから部屋を見たら……まさか、あんな…………」

 零れ落ちる涙を止めようと目に手を当てながら、途切れ途切れ、懸命に男の母親は話す。

「典ちゃんも嶺ちゃんもそう思うでしょ……?」

 女は言葉に詰まり、その代わりとして私は表情筋を引き締めて努めて冷静に答えた。

「はい、最後に会った時も何ら変わりはありませんでしたよ」

 嘘は云っていない。

 ただ、全てではなかった。

 そして、そのことを明かす気もない。

 そうして、告別式が終わり、火葬の段になり、男の遺体が焼かれ、灰になる時間をただ無心に過ごした。




 特別、何も感じなかった。

 ――――と云うのはやはり嘘になる。

 ただ、これが悲しさなのか寂しさなのか、それとも――――罪悪感なのか、私には判断がつかなかった。

 通夜の折から、男の親族より話を振られ彼との思い出話に花を咲かせた。

 男は私のことをどうやら遠縁の親戚にまで話をしていたらしく、もしくは私の目立つ風貌からか、相手方からお声を掛けられることが多かった。

 彼との思い出に関しては嘘偽りなく、私も記憶を探る必要がない程に鮮明に思い起こすことが出来るものばかりであった。

 それを話すと男の親族は喜び、彼が如何に優秀で聡明であったかを自慢げに語った。

 そうした彼を偲ぶ親しかった者同士の気持ちの整理が一段落したところで私と女は帰路につこうと腰を上げた。

 幾度となく、こちらが申し訳なくなってくる程に頭を下げ、礼を云う男の家族に丁重に挨拶を済ませて、私と女が帰ろうとしたところ、後ろから声が掛かった。

典膳てんぜん

 今となってその名前を呼ぶ人間は男の隣に居る旧馴染みふるなじみの女を除けば一人しか居ない。

 男は立ち止まり、声の主の方に向き直る。

「忘れ物でもしたかな、悠日?」

 私はそう云って彼女――――男の実妹である祖父江悠日そぶえゆうかに問い掛けた。

 悠日は直ぐに言葉を返すことなく、まるで言葉を探っているような思案顔で見上げるようにこちらを見てから口を開いた。

「あんた、本当に何も知らないの?」

 背筋が凍るような錯覚に襲われる。

 カッターシャツの下は鳥肌が立っていることだろう。

 全身を駆け廻る動揺を無理やり抑え込んで、私は云う。

「何のことだ?」

「昂平のこと」

 悠日は実の兄である男――――祖父江昂平そぶえこうへいは勿論、私のことも女のことも名前で呼んでいた。

 それは昨日今日のことではなく昔からだった。正確には出会った頃は実の兄である男――――昂平のことを親しげに「兄ちゃん」にいちゃんと呼んでいたことを覚えている。

 昂平や私、女にとって四つ下にあたる高校三年生の悠日は学校の制服を着ていた。

 その制服が都内に存在する一流大学の付属校のものであることを長い付き合いであるが故なのか、私は知っていた。

「すまない、いまいち要領を得ないんだが……どういう意味なんだ?」

 私は困惑気味に悠日に訊く。

 しかし、本当は彼女が何を云わんとしているのか確信に近い感覚で解っていた。

 悠日はため息をつくこともなく答える。

「おかしいと思わない?死ぬ前日までピンピンしていた奴がいきなり、くたばるなんてあり得ないでしょ?」

 悠日の口が悪いことは昔からでそれは実の兄を亡くした今でも変わっていないと思うと状況に似合わず内心、私はほっとしていた。問い自体は想定の範囲内であったことから、私は端的に答えた。

「……死因は急性心不全だ。君だって知っていることじゃないのか?」

 ――――昂平の遺体は彼の自室で発見された。

 朝、いつも通りの時間に起きてこない彼を不審に思った昂平の母親が部屋を見に行ったところ、ベッドで眠っていた彼は冷たくなっていた。

 これが全てだった。

 事実、警察も事件性はなく、検死を行なった医師も不運な心不全と結論づけた。

 昂平の両親も愛息子の突然の訃報に対して悲嘆にくれていたものの、納得し、彼を弔おうと準備を進めた。

 それは私の隣に立って現在、話の成り行きを見守っている女もそうだった。私だけでなく女にとっても昂平は付き合いの長い旧馴染みだったのだからそれも当然と云えた。

 ――――然し、ただ一人、悠日だけは解剖すべきだと主張していたが、若く、その上、前途有望な息子を亡くした両親からすると既にこの世のものではない息子の遺体をいたずらに弄くりまわすのは出来なかったのだろう。

 両親は悠日を宥め、一応の折り合いはつけた。

 だが、悠日は表面上、納得したものの、内心は未だに疑心が渦巻いていることは想像に難くない。

 それがこうして噴出しているのだと私は考えた。

「最近、若年層や高齢者の急性心不全と云う名の不審死が相次いでいることくらい知っているでしょ?」

 悠日の云うそれは今年に入ってから急激に数を増やした自然死のことである。

 まるで眠っているかのようにそれまで元気だった人間が亡くなると云う現象。中には持病を持っていた人も少なからず居たそうで、そうした病と全くの無関係かと云われればそれもまた一概には云えないとのことだった。ただまったくの健康体の人も多く、そうした人達がなぜ亡くなったのかを考えると不自然ではあり、そこに目をつけ、特集を組むメディアもあり、或る大衆文芸誌では未だにコラムが載っていることから、この他に目を向けるべき事柄が多過ぎる昨今に於いても着目している人は居る事案である。

 そうは云っても世間一般的に考えると現在は次から次へと供給されるニュースに押し出されて記憶と関心が薄れつつあり、目につくところで云えば地方新聞などで特集が組まれていることを見るくらいでそこに相関性があるとは誰も考えていない。あくまで大切なのは関心を持っていると云うよりかは当事者達はそれで納得している者ばかりではないと云うことだった。

 実際、不審に思った遺族の何人かが解剖を依頼し、大学病院がそれを行なったらしいが結局何も検出されることはなく、死因の心不全が覆ることはなかったと云う。

 その上、各々、条件も環境も違うことから規則性などなかったこともある。

 何よりプロである警察が事件性はないと云っているのだ。

 それが覆ることはこの国では早々ない。

「私……昂平がくたばる前日にあいつから稀覯本を全部、譲られたの」

 私は今、初めて知る事実に正真正銘、困惑を隠せなかった。

 全く想定の範囲外のことだからだ。

 そんなことがあったのを昂平から聞いていなかったのだ。

 だが、反面、あいつならそうするだろうなと云う妙な安心感と納得もあった。

 悠日はそんな様子の私を見つめて云う。

「これを聞いてもおかしいと思わないの?」

「君は昂平の集めていた稀覯本を欲しがっていただろう。ならば、彼から譲り受けることが出来て良かったじゃないか」

「あまりに急過ぎるでしょ。それにあの趣味なんてほとんどない昂平が唯一と云っていい程、執着していた趣味よ。それをあんな簡単に快く私に譲るわけないじゃない」

 故人に対して酷い云い様だが一理ある。

 私は素直にそう思った。

 悠日の云う通りだ。

 昂平はほとんど、物に執着する人間ではなかったが、父親の影響を受けた趣味である古本屋巡りや稀覯本蒐集にだけは精を出していた。

 思えば、昂平が唯一、真剣に熱中出来た事柄だったのかも知れない。

「猫じゃないのよ。まるで――――自分の死期が解っていたみたいじゃない……」

 背筋に汗が流れる。

 掌は汗で湿っており、まるで手を洗った直後のような有様となっていた。

 そうした内情を知ってか知らずか私の隣に居る女が助け舟でも出そうとしたのだろう。

 それを私は目で大丈夫だと伝え、悠日に云う。

「偶然だろう。単純に君のような同好の士に譲ろうと思い立ったんじゃないのか?考え過ぎだよ」

 苦しい理屈だと思いながらも、私はそう云い、続ける。

「昂平の死に顔は安らかそのものだっただろう。苦しまずに逝けたのだと思うよ」

 そう云うと、私は女に目配せをして話は終わりだと云わんばかりに踵を返し、そのまま帰路へと戻ろうとする。

「――――グレゴール・ザムザ」

 私は思わず立ち止まった。

 そして、おそるおそる、振り返り、悠日を見た。

 悠日はどこか鬱々としたようなそして諦めを許さない表情をしていた。

「変身か……」

 フランツ・カフカの代表作の一つ『変身』。

 普段から本を読まないタイプの人でも知っている場合が多い名作の一つ。

 グレゴール・ザムザはその主人公の名前だ。

 ただ今の会話の流れからして、その意味で使ってはいないだろう。

「昂平が稀覯本を譲ってくれた時に云っていたのよ。本の整理を同時にしていてさ。その時にカフカの変身が出て来たんだ。そうしたら、あいつは笑いながらこう云ったのよ」

 一拍置いて、悠日は云う。

「俺は人間の皮を被った虫だってね」

 私は目を瞑る。

 そして、歯を噛み締めた。

 突然、勢いで決定的なことを口走ってしまわないようにと。

 悠日は確信を持った様にしかし言葉を手繰り寄せながら云う。

「ザムザは巨大な虫になった後、家族に腫れ物を触るような扱いを受けた。世間的に見れば、仕方のないことなんだろうけれど、ザムザは酷く、苦しみ悲しんだ。そんな中、妹だけが見放すことなく献身的に支え、接してくれた……でもそんな日は長くは続かない。妹はとうとうザムザを見限ってしまう。これにより、ザムザは本当の意味で独りになり、苦しみ抜いてその生を終えた」

「…………」

 私は言葉を返すことが出来ず、悠日はそのまま話を続けた。

「ザムザは虫になったから、見捨てられたのか。それとも生前、ザムザが聖人君子だったら、虫に変身しても見捨てられることはなかったのか。……いいえ、おそらく、虫になってしまった時点でもう手遅れなんでしょうね。――――昂平はそう考えていた」

 抽象的な話が続いたが悠日が何を云いたいのか、私は解っていた。

 そして、それが薄々の確信ではなく、完全なものとなろうとしている。

 私が逡巡している内に悠日が結論とばかりに告げた。

「――――昂平は人間のまま死にたかった。違う、典膳?」

 悠日に悟られないようにゆっくりと息を吐いて、思考を整理し、感情を抑制しようと努めた。

 そして、悠日のそれがまだ何の物的証拠もないただの推測であることだけがこの場を切り抜ける唯一の方法だと私は考えていた。

 悠日の云うことはただの比喩で何も知らない人が聞けば、何のことだか全くわからないだろう。

 だが私からしたら、それは喉元にナイフを突きつけられていることと同義だった。

 あとひと押しで全てが白日の下に曝されるそうしたリスクと隣り合わせでこれからも生きていかなければならないことを思うと私は気が重くなる――――と云うよりもただただ己の力の無さと抗いようのない現実に膝をつくしかなかった。

 誠実さの欠片もない、まして亡くなった男の家族にすら話せないなどあまりにも酷いことだろう。そんなことは私も重々、承知の上だった。だが、その上でこの撰択を選ばざるを得なかった。

 故人の遺志であれば致し方がないと自らに云い聞かせて、言葉を紡ぐ。

 全てを包み隠さず話すことが必ずしも最良の結果をもたらすとは限らない。

 私なんかよりもはるかに頭が切れる将来有望な悠日なら当然の如く、解っていることのはずだが、それでもこうして墓を暴くような真似をしてでも本当のことが知りたいと私に問い掛けてきている。

 その真意が非常に単純なものであることなど、私でも容易に解った。

「……昂平はもう居ない。急性心不全でこの世を去った。ニニ歳と云う若さから云えば、あまりに早すぎる死だが、それでもあいつの人生はもう幕を閉じた。――――これが全てだよ」

 私の半ば、話を打ち切るような物言いに悠日は何か云いたげだったが、それを振り払うようにして足早にその場を離れた。

 女は悠日と何やら言葉を交わしていたがそれがアフターケアなのであれば、私は彼女に感謝しなければならないだろう。




 東京都大田区羽田に在るアパートの二階の最奥の一室が私の自宅だった。

 東京都、その中でも二三区内ともなれば、どこも賃貸物件の家賃はそれなりの値段がする。

 初めから都内に自宅を構えていれば、そんなことをあまり考えなくても生きていけるのかも知れないが、そうした背景を生まれながらに持っている昂平や悠日とは違い私にはそんなバックボーンなどなかった。

 しかし地獄に仏とでも云うべきなのかここの賃料は格安だった。

 そして、大抵の借家だと至る所に頭をぶつけてしまう私としては有難く思う程、年季に反して様々なものにゆとりがもたれていた。

 尤も現在、私以外に入居者は居ない。

 正確には居るらしいがので居ないもの同然として居た。

 大家のこともよくは知らない。

 契約の際に会ったが中肉中背の年齢不詳の男性だった。

 それっきり一切見掛けないので白昼夢でも見ていたのかと今になっても思うことがあった。

 その今となってはそれを誰にも口外出来ないことに少し寂しく思っている自分が居た。

 それを知る前の自分が知己の二人に奇妙な自宅の話をしたが昂平は気味悪がっていて、女は面白がっていた。

 そうした不可解な事情を除けば二階建てのどこにでもあるような年季の入った木造アパートだ。

 見え方が変わってもそれは変わらない。

 喪服をハンガーに掛けて、これもまた年季の入った畳に腰を下ろす。

 女とは彼女の自宅前で別れ、私はこうして自宅に帰り着いていた。

 畳の上に置かれた卓袱台は昂平の両親がもう使わないからと云いつつ、どう見ても誰かが使った痕跡のない真新しい状態で私の転居祝いに贈ってくれたものだった。

 大学入学直前に転居してきたことから、もう四年近く使っているが、まったくへたる気配もなく私の日々の日常を支えてくれていた。

 感慨深げに卓袱台を撫でた後、喉の渇きを覚え、冷蔵庫にて市販のパックを入れてつくり置きしてある麦茶のポットを取り出し、グラスに注ぎ入れた。

 未だ動悸がおさまることのない自らの胸に手を当てつつ、グラスに入れた麦茶を一気に飲み干した。

 十月半ばで寒々としてきたこともあるが、部屋の中はひんやりとしており、そこへ冷やされていた麦茶を飲んだことで更にいっそう肌寒くなったように感じられる。

 そして、一息ついたところで私は先程のことを考えていた。

 悠日の言葉。

 彼女の真っ直ぐな眼差しと虚飾のない言葉は幾重にも荒みきった私にはあまりに眩しく感じられた。

 然し、こんなことを彼女に云っても仕方ない。

 昨日今日の付き合いではないのだ。

 だからこそ、誠実さだけは欠かないと自らを常に戒めてきた。

 そんな戒めもこの状況では何の意味もなさない。

 頭を抱えたくなるがそれでも結論を出さなければならないのだろう。

 だがそうも云ってはいられない。

 私は洗面所に向かい鏡を見る。

 そこには髪を綺麗に剃り上げた禿頭の男が居た。

 表向きは楽だからと云う理由で私が十代の後半からしているスタイルだ。

 然し、大学内でもいささか目立つ外見らしく昂平から度々、話題になっているとの話を聞いたこともあった。

 高校時代も同じことを云われていた為、今更、心境の変化があるわけではない。

 蛇口を捻り、冷水を出し、顔を洗う。

 多少、考えは晴れた気がしなくもない。

 風呂場にあるバランス釜を見やり、風呂に入ろうかなどど別のことをぼんやりと考えるものの、根本的な悩みは離れてはいかなかった。

 私は洗面所にある上から一段目の引き出しを開け、その中にある紙袋を取り出した。

 見た目は調剤薬局で出される薬袋によく似ている。

 違うのはこの紙袋に何も書かれていないことだ。

 紙袋の口を開き、中に入っているものを取り出す。

 それはピルケースに似た透明なケースだった。

 そこには一粒のカプセル錠剤が入っており、カプセルの中は青で満たされていた。

 私はそれをケースから取り出そうとしたが、結局、ケースをそのまま紙袋の中に戻し、元あった引き出しにしまった。

 これが理性によるものなのかそれともただの強迫観念なのか不明だった。

 就活でもそうだったが、自己分析がどんなに上手くいってもそれを支える中核を成す基礎的かつ根本的な能力がなければ、自らの死期を悟ったと云うだけになる。

 思えば、昂平はそうしたリスクを取らなかったのだろう。

「――――皮肉にも最も自己分析を完全なものとしていたのは昂平だったと云うわけだ」

 どうしてこうなってしまったのか。

 ――――私は二ヶ月前のことを思い出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月の落胤 @fontoplumo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ