6.トイレ男

 友人のボーフォートが、また厄介な情報を仕入れてきた。

 校舎二階の特定の場所にだけ現れる幽霊がいるという。

 その名も「トイレ男」。


「北側の最奥のlavatoryトイレだよ。噂では『何年も前から居ついているが、出てくる時期とこない時期がある』らしい。それがここ最近は頻繁に目撃されてるっていうんだから、見物しないわけにいかないじゃないか!」


「いや、そんな男は見物しなくていい」


「アキラ……日本にはトイレにもカミサマがいるんだろう? ならばこのイングランドでトイレの名を冠する男も見ておくべきだ」


 変に日本通のボーフォートにおかしな理屈で押し切られ、渋々、くだんのトイレに連れられて行った。

 ちなみに彼が僕を姓でなく下の名前で呼ぶのも、アニメ映画の「AKIRA」を気に入っているからだと思う。

 そんなボーフォートが僕を巻き込んだ理由は、幽霊が怖いからなどという可愛らしいものではなく、


「できればツーショットを撮ってくれ」


 これである。

 明朗で文武に優れた人気者、いずれは監督生プリフェクトになることが確実視されている男だけれど、〝生徒を指導・監督する役目〟を実践している姿が僕には想像できない。


 噂のトイレは、年季の入ったタイル床の、校舎の中でも特にアンティークな場所だった。

 薄暗くて湿っぽくて、地下蔵にいるような冷えが這いのぼってくる。

 片隅には古びたモップや埃を被った洗剤ボトル等が、清掃員が突然失踪したかのごとく放置され、蜘蛛の巣までかかっていた。

 別に閉鎖されたトイレでもないのに、「打ち捨てられた」という言葉が頭をよぎる。


 快適とは言い難いこの在りようのせいか、もしくはトイレ男の噂のせいか、僕ら以外に生徒はいなかった。

 ボーフォートは嬉しそうに辺りを見回しては、「雰囲気出てるなぁ」と浮かれている。彼が仕入れた話によると、トイレ男は個室の使用中に出るそうだ。


 噂に共通しているのは、そいつは中年男(の霊)らしいということ。

 たとえば……



 生徒が個室で用を足している最中に、いきなり男の怒鳴り声が響いた。

 その声はすぐに個室ドアの前まで迫り、下の隙間から、こちらを向いて立ち止まる黒い革靴が見えたかと思うと、ドアが壊れそうなほど乱暴に扉を叩いてきた。

 空いている個室はほかにもあるのに。


 あわてふためいた生徒が飛び出してみても、誰もいない。

 だが寸前まで足が見えていたのだから、近くにいるはず。

 廊下に走り出てみると、顔を蒼白にした下級生が立ちつくしていた。


「腰から下のない男が、怒鳴りながら消えていった」


 下半身と上半身が別々に目撃されていたのだ。

 上半身は、眼鏡をかけた中年男だったという。


 また別の生徒の話では、同じく個室に入っていたときに男の怒鳴り声がして、ドアの前に立たれた。

 しかしドアを叩いてくることはなく、そのまま黙ってそこにいる。

 中にいた生徒は都合上すぐに立ちあがれる状態ではなく、驚きと不気味さも加わって、座したまま身じろぎすらできなかった。


 そのとき、急にドア下の隙間から、眼鏡をかけた中年男が中を覗いてきた。

 生徒が思わず悲鳴をあげると、男は嬉しそうにげらげら笑った。

 その間もずっと床に手をつき、しつこく生徒を覗くことをやめない。

 近くにいた生徒たちが悲鳴を聞いて駆けつけてくれたが、入れ替わるように中年男は消えてしまったという。



「そんな悪趣味な奴とトイレの神様を一緒にしないでくれと僕は言いたい」

「してないさ! でも神にはまず会えないが、こっちはすぐ会えるかもしれないよ」


 そんな「会いに行けるアイドル」みたいなことを言われても、嬉しくない。

 それからボーフォートは何度か個室に入っていたが、トイレ男などまったく出てこなかった。


「出現には個室であること以外に何か条件があるのだろうか」

「欲張ってツーショットを狙うからじゃないの」


 かといって僕が廊下で待機し、ボーフォートひとりきりになっても、やはり何も出てこない。


「トイレ男はシャイなのかな」

「きみは好みのタイプじゃないんだよ、きっと。さあ、もう帰ろう」


 パズルに挑戦中みたいな顔で考え込む友人をせっついていたら、僕の正面の便器の蓋が少し動いたように見えた。僕は何も考えず、その蓋をあげた。


 ――便器の中に、中年男の顔があった。


 水溜まりから生えたように、眼鏡をかけた顔だけが。


 驚きのあまり凝視して、視線がばっちり合ってしまう。

 心ならずも見つめ合ううち、男の顔が気味悪くニヤつき始めた。


「ん? どうしたアキラ」


 固まっている僕に気づいたボーフォートが横から覗き込んできて、「あっ!」と声をあげた。と同時に、にやけた顔がかき消える。


「なんで便器の中にいるんだよ!」


 抗議の声をあげながら次々別の個室の便器を覗いていく友人を、僕は呆然と見つめた。


「いない! なんなんだあいつ!」

「なんできみが怒ってるのさ……」


 蓋をあけたら便器に顔。

 トラウマになりそうなのはこっちのほうなのに、なぜかボーフォートのほうが不機嫌になって緑の瞳をぎらつかせている。


「あの野郎……! 〝法則〟を破るほど、きみが好みのタイプってわけか」

「はあ? 馬鹿言ってないでもう帰ろうよ……疲れた」

「……わかった。だが最後に、もう一度だけきみが蓋をあけてみてくれ」

「そんな続けて出てくるようなモノじゃないだろうに」


 こんなところは早く出たくて、半ばヤケクソで再度蓋をあげると。


 普通に、中年男の顔がこちらを見ていた。


 ……続けて出てくるようなモノだった。


 しかも、やけに真面目な顔をしていると思ったそいつは、またも急にいやらしく表情を歪めて、紫色の舌をべろべろと突き出してきた。 

 あまりの気持ち悪さに固まっていると、いきなり男の顔にモップが突き入れられた。途端、信じられないことに『ぎゃっ!』と男の口から悲鳴があがる。


 便器が破壊されるのではという勢いでモップを叩きつけていたボーフォートは、上流階級の子息でなくとも使用しないほうがいい言葉を男めがけて吐き出してから、とどめに水を流した。

 男は水流に呑まれるように消えていった。


 一連のできごとを、ぽかんと口をあけて見ていた僕の横で、ボーフォートはモップを放り出し、パンパンと手についた埃を払う。

 まだ不愉快そうだ。


「何がトイレ男だ。あんなのただの変質者じゃないか!」

「だからトイレの神様と一緒にするなと言ったんだよ」

「次に見かけたら祭壇の十字架に突き刺してやる!」



 それはそれで罰当たりな気もするが。

 ボーフォートの宣言を聞いていたか、こののちトイレ男が出たという話は聞かなかった。

 校内に出る変質者の霊をモップと怒りで追い払ったボーフォートは、やはり監督生に相応しいのかもしれない。

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