3.恋に落ちて
十年ほど前、教師と恋をした生徒がいた。
その生徒の名はスペンサーとしておく。
巻き毛の金髪に青い目、明るい性格で、下級生にも慕われた最上級生だった。
同性愛者に対しては、もっとずっと昔ならこの国でも犯罪者扱いだった。
けれど今なら「まあ、ご自由に」という感じだろう。もちろん意地悪な態度をとる奴らもいるだろうが、今どきの基準として、
スペンサーたちにとって最も重い
教師のほうは、教え子に許されぬ思いを抱いた自分を責め続けていた。
その教師は
それに上司にあたるハウスマスターやほかの教師たちに知られたら、どれほど責められることか。当然、解雇もされるだろう。スペンサーの未来にも陰を落とすかもしれない。
恋といっても、二人はようやく互いの気持ちに気づいただけだった。もちろん躰の関係などない。
ただ目を合わせたり、勉強を教え教えられる中でそっと手を重ねたり。
そうしてぎこちなく想いを確認し合っていたけれど、「好き」と言葉にすることさえしていなかった。
教師は今なら引き返せると思った。それが最良の選択だと。
だからスペンサーに別れを告げた。始まってすらいない関係だったのに。
だがスペンサーは教師の立場を理解し、彼を責めることはしなかった。ただ最後にひとつだけ、お願いをした。
「好きだと。最後に一度だけ、言葉にしてほしい」
教師は首を振った。
言葉にすれば切なさが増すだけ。やはり彼を諦められなくなりそうで。
黙したまま、その場を去った。
スペンサーは微笑んで見送っていたという。
――その数日後、スペンサーは自習室で倒れているところを発見された。
彼が教師と初めてその手を重ね合った、想い出の場所で。深く切り裂いた手首から流れた血だまりの中、永遠の眠りについた。
だが彼が安息を手にしたとは、とても思えない状況だった。
激痛に悶え苦しんだのか、血痕や血まみれの手形が、壁にも床にも、いくつもの机や椅子にも、そこら中に残されていたという。
以来、その自習室にはスペンサーの幽霊が出る。
ひとりでそこを使っていると、彼が悲しげに話しかけてくる。
「ねえ、好きだと言ってよ」
ため息のように、あまりに切なげに。
それを聞いた大抵の者は驚愕と恐怖ですぐ逃げ出したが、中には哀れに思った生徒もいたようだ。
彼は言葉が魂の慰めになるならと、スペンサーの願いに応えてやった。
「好きだよ」
翌朝、スペンサーが亡くなった場所で、その生徒は血の海の中こと切れていた。
スペンサーが今度こそ恋人を手に入れたのだと、皆は噂した。
しかしその後も、今も、スペンサーの要求は続いている。時折、その声をかけられる者がいる。
「ねえ、好きだと言ってよ」
決して応えてはいけない。そう言われている。
* * * * *
「そんな言い伝え、本気で信じてるわけじゃないんだろ」
僕は何度目か、背を向けてそこから立ち去ろうとした。
そのたび友人に引き戻されている。
今僕らは、例のスペンサーが自殺したという自習室にいる。
もちろん血に汚れた絨毯やクロスなどは貼り替えられているのだろうけど、花模様のモールディングが施された天井や、黒光りする床板はたぶん以前のまま。そこに間仕切りされた机が並び、じっくり腰を落ち着けられるソファもある。
ここでは勉強に関係のない私語は厳禁なのだが、今は僕と同じハウスの同級生、ボーフォートしかいない。だから彼の悪ノリを制する口実がない。
「信じないけど、本当なら面白いじゃないか」
緑の瞳を輝かせて笑う。
プラチナブロンドに高身長、いかにも英国上流階級の子息というボーフォートは、スポーツ万能、勉強も常にトップクラスという冗談みたいな優等生のくせに、中身はいたずらっ子というか、すぐに罰則ギリギリの悪ふざけをしたがる。
僕はここに入学してすぐ、彼に二階から水風船を落とされた。お返しに強力水鉄砲を作ってずぶ濡れにしてやったら、なぜか気に入られてしまった。
それはともかく、彼は珍しく
「これから僕はここでひとりになって、スペンサーの声が聞こえるか試してみる」
と言い出した。「あっそう」と放置して帰ろうとしたら、ほかの人が入ってこないよう入り口で見張っていてくれと言う。そんな暇はないのに。
「僕は早く宿題を済ませたいんだよ。ピアノの練習もしなきゃいけないし」
「僕が教えてやるさ、手とり足とり。だから十分だけ付き合え」
「嫌だ」
「そんなこと言うなよアキラ、なあ、お願いだから」
「好きだと言ってよ」
「ああ、もちろん…………て、え?」
ボーフォートは目を見ひらいて僕を見た。僕もたぶん、同じような顔をしていたと思う。少しの沈黙ののち、僕は呟いた。
「……今の、僕じゃないよ」
「ああ、わかってる」
――好きだと言ってよ。
完全に、第三者の声だった。
そして僕はそのとき、ボーフォートの背後に黒い人影を見ていた。
ぼんやりとしているが、うちの学校の制服を着ているのはわかる。
深くうつむいて顔は見えない。うつむいたまま、右に左に揺れながら、ボーフォートに向かって歩いてくる。
あわててボーフォートの手を引っ張った。そのまま自習室を出ようとしたが、彼は足を踏ん張って抗議してきた。
「おい、なんだよアキラ、まだ用は済んでないぞ! すごいな今の声、きみも聞いたよな!?」
「いいから、早く出るぞ」
「最高! 言い伝えってのは侮れないなあ。幽霊の声なんて初めて聞いたよ。そんな引っ張るなってアキラ。怖くなっちゃったのかい? ラブリー」
「いいから早く来いって!」
黒い人影は、うっすらとその制服のベストの色が判別できるほど迫っていた。
色は赤。生徒たちに選ばれた最上級生にのみ許された色だ。だがその赤は、不気味にどす黒い。
僕は渾身の力でボーフォートの長身を引き摺った。しかしようやく自習室から出ようかというとき、彼はニヤッと笑って大声を放った。
「好きだよ!」
――あ然とする僕を、愉快そうに見返してくる。
「さて、僕は明日の朝、血まみれで発見されるのか? 皆に最後の挨拶をしておいたほうがいいだろうか」
「……きみは馬鹿だ……」
額に手をあてた僕を楽しそうに見ていた彼は、「よし、僕らのハウスへ帰ろう!」と逆に僕を引っ立てるように寮へ向かった。
優秀で快活なボーフォートは、どの年代からも好かれている。
ゆえに彼が得意げにハウスの談話室で披露した自習室の件は、あっという間にハウス中に広まった。
その結果、下級生たちが「ボーフォートを朝まで守ろう!」と彼の部屋に押しかけて、上級生たちから叱られ追い返されるという騒ぎに発展した。……ちなみにうちの学校では、全生徒に個室が与えられている。
当の本人のボーフォートはと言えば、注意は受けたものの終始面白がっていた。
「なあアキラ、血まみれで発見されるまでには、何が起こるんだと思う?」
そんなことばかり言って。
就寝の点呼が済んだのち僕がこっそり彼の部屋へ行き、「徹夜で見張っててやる」と言ったら、大笑いした。
――自分の肩に、血の色のベストを着た生徒が被さっているとも知らずに。
「自習室では嫌がったくせに」
「嫌だよ、自習室でなんか」
ボーフォートはまた笑って、こっちにおいで、と囁いた。
――翌朝。
全身を真っ赤に染めたボーフォートを、寮生たちは目撃した。
下級生が誤って、大瓶に入ったトマトジュースを彼にぶちまけたのだ。
「……血まみれって、これのことか?」
彼の呟きに、食堂にいた全員が大爆笑した。
だが寝ずの番をした僕からは、
血の色のベストの生徒は、思惑通りに追っ払った。
どうやって? …………まあ、水鉄砲でやっつけた、とでも。
ちなみに、僕にはスペンサーという名の知人がいる。
父の友人の若手弁護士で、巻き毛の金髪に青い目のハンサムだ。Aコレッジ出身なので受験のときとてもお世話になった。年上の彼氏がいるらしい。
――まあ、噂とか伝聞なんて、どんどん歪んで伝わっていく。いい加減なものだ。
でも、どこにどんな真実が潜んでいるかわからないから、気をつけて。
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