第104話

「最初のBGM、何にしようか?」


僕は助手席。iPodやCD、DVDケースを膝に置く。


「私たちの入学式の時の、先輩方のマイスタージンガーと大学祝典序曲の演奏がいいです」


「今年の入学式のやつね?」


「はい」


「じゃあ、ワーグナーのニュルンベルクのマイスタージンガー、入れるよ」


荘厳な響きの冴え渡る始まり。


「先輩方、本当に上手ですね」


紀香ちゃんも夕子ちゃんも感心する。


「正先輩は何してたんですか?」


「何してた? は失礼だね。隆の1stホルンのアシスタントしてたよ。通称1アシ」


「アシでまとい、とか、アシを引っ張るだとかだったんじゃないですか?」


隆が笑う。


「正、ちゃんと責を全うしてくれたよ」


「これ一曲、思いっきり吹くとバテるんだ。だから時折アシスタントに吹くところを交代する」


「正、上手かったよ」


「そうですか。それを聞いて安心しました」


「隆さんの上手さは半端じゃないから、正さんがついていけたかどうか。いらぬ心配をしてしまいます」


「あ、その心配なら、次のブラームスの大学祝典序曲で出てるよ」


「おい、隆!」


「いやいや、正があちこち、失敗して困ったんだよね」


「ああ……、まあね」


「3rdホルン。in Eを吹いていたんだ。聴かせどころの181小節からは、ほぼ全てとちった」


こずえちゃんは、カラカラ笑う。


「こずえちゃん。ホルンて意外に、いや意外じゃなく難しいんだよ」


「はて? 何でしょう?」


隆が運転しながら丁寧に話し始める。


「ピアノの、ドレミファソラシドはもちろん知っているよね」


「は〜い」


紀香ちゃん、夕子ちゃんも言葉を合わせる。


「これをドイツ語に直すと?」


「CDEFGAH、ツエーデーエーエフ、ゲーアーハーです。英語では、HはBですね」


「そう、その通り」


「弦楽器の全て、ピアノ、一部の管楽器はこの調性で演奏される」


「ヴァイオリンは、in Cだけ、フルートもin Cだね、夕子ちゃんのチェロもin C」


「楽譜に、調を記す必要はない」


「ホルンはね、楽譜の最初から曲の初めにin Esで、途中で in Cとか、in Hとか譜面に、その時演奏する楽譜の音符の調が何なのか、基本、曲の調性が変わるたび、その指示が必ず書いてあるんだよ」


「必ず? それって、どういう意味ですか?」


「つまり、in Cでいわゆるドレミファソラシドの、ドの位置に記譜されている音は、ホルンでソの音を吹くことになるんだ。ピアノやバイオリンでは実音のドだよね」


「ホルンは曲の途中、in Aの調の指示があると、譜面のドの音をホルンのミで吹かなければならない」


「よくわからないのですが」


こずえちゃんが、首をかしげる。


素直な地の出た時のこずえちゃんは、確かに可愛い。


「例をたくさん挙げたほうがいいね」


「モーツアルで多い、in Dの場合は、譜面に記譜されているドはホルンのラ、ピアノやバイオリンでは実音のレの音だね」


「ベートーベンなどで多いin Cは、ホルンのソ、ピアノやバイオリンの実音のド」


「in Hになると、記譜されているドはホルンのファ#、ピアノやバイオリンの実音シの音」


「ややこしいですね」


「うん」


「ブラームスの大学祝典序曲は、1st、2ndホルンがin C、3rd、4thホルンがin Eだよ」


「でも、これは楽。この一曲ずっと調が変わらないから」


「ブラームスの1番は、1st、2ndホルンがin C、in E、in Es、3rd、4thホルンがin Es、in H basso、in E、in Fと、楽章や、楽章の途中でも調が変わる」


「頭使いますね」


「うん。調は、CDEFGAH、そしてその半音下のAs、Esなど全部あり」


「通常はト音記号、さらに低音の時はヘ音記号もついてくる。ハ音記号は、一度だけ見たことある。何かのアンサンブルのときだったかな?」


「オクターブ上は8va、オクターブ下はbassoの指示」


「とにかく、ホルンの譜面。何でもありだよ」


「そんな譜面を一瞬に頭で読み替えて演奏しているんですか?」


「そうだよ」


「正先輩がとちるのも頷けます」


「それは別問題。ホルンで、演奏を失敗する要因は、その菅の長さや、倍音の多さにあるんだ。マウスピースも小さいしね」


「でんでん虫みたいなぐるぐる管がくねっているホルン。難しそうですもんね」


「ホルンの管は、最長で約3.6mの長さになるんだ」


「ギネスブックにも、一番難しい楽器と掲載されている」


「何故難しいかは、管の長さが大きく関係しているんだ」


「簡単に言えば、管が長いのに高音域を吹かされるから。そして倍音が多いから」


「マウスピースとベルの径の比率が一番大きいのも、ホルンの演奏を難しくしている要因の一つ」


「ホルンのマウスピースの直径は、2cmに足らない程度の大きさなのに、ベルの大きさは30cm以上あるので、音が響くベルでは15倍以上になると言う事になる」


「トランペットより小さな径のマウスピースで、チューバに匹敵するほどのベルの径を持つ」


「だから、音域もものすごく広い」


こずえちゃんが頷く。


「演奏の難しい楽器であるのに加えて、さっきの調の話」


「ホルン吹きの人ってすごいんですね」


「正先輩が、よく失敗する理由がわかりました」


「こずえちゃん。それは練習不足。別の話だよ」


隆、紀香ちゃん、夕子ちゃんが笑う。

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