第38話
「おっ、義雄」
「みんな揃ったね」
有田先生も研究室にお茶を飲みにきた。
「僕が今、丁度トランスポゾンの話を皆んなにしていたんです」
「トランスポゾンですか。動く遺伝子」
有田先生も興味ありげ。
「義雄さ、遺伝子、染色体、ゲノムとトランスポゾンの簡単な導入部分は話したんだけど、続きを義雄からお願いできるかな?」
「ああ、いいよ」
「トランスポゾンが何たるかは正、話したよね?」
「うん。簡単に」
「そう。じゃあ、僕なりに遺伝子の話からトランスポゾンのことについて話すね」
「遺伝子、つまり生物の遺伝情報を担う因子は、エキソンとイントロンからできている」
「エキソンとは生物のDNAのなかで、mRNA、つまりメッセンジャーRNAに転写される部分のこと」
「イントロンとは生物のDNAのなかで、mRNAに情報が移されない部分のこと」
「遺伝子は、このエキソンとイントロンが繋がってできているんだ」
「ただし、真核生物ではDNAからmRNAに転写される際には、まず遺伝子領域のDNAからまるごとそれに対応するRNAが転写されて、その後イントロンに当たる部分のRNAが切断される。つまり捨てられる」
「このことをスプライシングというんだけど、その名称はともかく、エキソンに当たる部分がつなぎ合わさって、初めて成熟したmRNAになるんだ」
「そして、タンパク質、酵素、ホルモンなどを生成する」
「なるほどね。生物で習ったよね」
大樹が頷く。
「正の研究しているアイソザイム、酵素多型も酵素遺伝子の直接的な産物だよ」
「ねえねえ、エキソンとかイントロンとか初めて聞く難しい言葉だけど、とにかくはエキソン部分が遺伝子の発現に大事な訳ね?」
「うん。恵ちゃんの言う通り」
「でも、イントロンが大事じゃないと言う訳じゃない。でも今は触れない。忘れて構わない」
「義雄くん、実験室で何に没頭してたの?」
「実はさ、昨日正から言われて、黄色花のCHI遺伝子の壊れ方を見ていたんだけど、正の言う通りに、CHI遺伝子のエクソンにAc/Ds型のトランスポゾンのフットプリント、また、CHI遺伝子の末端にはレトロトランスポゾンの足跡が確認できたんだ」
「何、何? そのAc/Ds型って」
大樹が興味ありげに質問する。
「トウモロコシから単離された、トランスポゾンの転移因子の呼称」
「カーネーションでも同じ型だと言うこと。特段気にするワードじゃないよ。頭の片隅に置いておけばいい」
「重要なのは、白地に紫の条模様の入るカーネーションのDFR遺伝子を調べていて不思議なことを見つけたんだ」
「トランスポゾンによりDFR遺伝子が破壊されている形跡があった」
「それが遺伝子のエクソン領域だけに挿入される、他の植物のトランスポゾンには報告例がない、極めて珍しい特性をもっていることが明らかになったんだ」
「義雄くん。それは面白い発見だね」
有田先生が身を乗り出して口を挟む。
「すなわち、そのトランスポゾンは、高い確率で遺伝子のコーディング領域に挿入される性質を有するため、遺伝子機能の研究を効率よく行うことが可能になる」
「さらに、そのトランスポゾンは、特定の遺伝子中に挿入されたときに,その遺伝子の発現を完全に消失させない性質を有する」
「このことから、これまでの方法では単離することが不可能であった、生育に直接関与する遺伝子など、不活性化されると致死に至るような遺伝子の単離にも有用、そう言うことですね」
「何、何? 先生。難しくて全然わかんない」
恵ちゃんが体を揺すって、先生の言った意味を知りたがる。
大樹は腕を組み下を向いて考えを整理しようとしている。
「先生の話は、タギングについて何も触れていないから」
「遺伝子にトランスポゾンの転移挿入が起こると、標的遺伝子に変異が起こると同時に ”タグ”がつけられるんだ」
「生物の機能解析に利用されている遺伝子に ”タグ”をつけてクローニングする手法は遺伝子タギングと呼ばれていて、とりわけトランスポゾンで”タグ”をつけた場合にはトランスポゾン・タギングと呼ばれ、この方法による遺伝子とその発現機構との関係など、多くの成功例が示されているんだ」
「ちょっと待って。頭を整理する」
恵ちゃんが珍しく難しい顔をする。
「肝心なことは、カーネーションに、とあるトランスポゾン、動く遺伝子があって、それは遺伝子のmRNAを司るエキソン部分だけに特異的に挿入される」
「そしてそのトランスポゾンは、生物の遺伝子発現機構の研究に極めて有効かもしれない」
「端的にそう言うことかしら?」
「端的にそう言うことです」
有田先生が笑みをこぼす。
「オレンジ色の秘密から、とんでもない方向に向かっちゃったね」
恵ちゃんは、可愛い仕草を見せながら、複雑なため息をつく。
「まあ、お茶でも飲んで、オレンジ花色に頭を戻しましょう」
「戻しましょう」
恵ちゃんがボソッと呟く。
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