蛍の魔法

 飛んだと言っても私に翼があるわけではない。私が潜んでいた天井裏の通風孔、そのフチを触手で掴み、ぶらさがり、体を振り子のように揺らして勢いをつけ、そのまま飛び出したに過ぎない。空中ブランコみたいなものだ。


「ひーぃぃぃい」


 距離と高さは相当あって、思わず声が出た。鵜藤と蛍がこちらを見上げた。空中に放り出された私の体は勢いのままに落下していき、舞台がぐんぐんと眼前に迫ってくる。


「フングッ」


 着地。奇跡的に舞台上に降り立つことができ、四本脚で床に踏ん張る。足の裏から熱さにも似た痺れが全身を駆け巡る。しかしそんなものに怯んでいる場合ではない、私はすかさず触手を伸ばした。狙いは音禰であった。音禰さえ奪い返せれば、もはや鵜藤を守るものはない――。


 しかし、私がすばやく伸ばした触手は、鵜藤の両手によって捉えられた。


「な……何っ」


「フフフ……遅いな……」


 私が遅かったのではない。鵜藤の反応速度が尋常ではなかった。そして私の触手を掴んで離さぬ、その握力。明らかに私の力を上回っていた。この男、やはり人間ではない。


「鵜藤、お前は……何者なんだ」


「何者でもないさ」


「は?」


「宗教家とは無の存在なのだ。器にすぎないのだよ。俗世の苦しみを掬い取るための、からっぽの器……」


「今さら宗教家ぶるんじゃない」


 私は正面の目で鵜藤を睨み据えながら、側面の目で蛍にアイコンタクトを送った。蛍は大量の魔力を与えられたことで苦しげに喘いでいたが、それでも私の視線に気づいた。


 私は後ろ足を殻の中に突っ込み、蛍の杖を引きずり出した。それをそのまま蛍の方に放り投げる。杖はくるくると回りながら、弧を描いて飛んでいく――。


「その杖も……法眼の手引きというわけか」


 鵜藤は、杖を横目に見ながら言った。驚きも動揺も、その声からは感じられなかった。


「蛍がどんな魔法を使うかは、私が一番よく知っている」


 不敵な笑みを浮かべながら、鵜藤は言った。一方、蛍は飛んできた杖を左手で受け止め、一呼吸おいてから呪文を唱えた。


「シホノミト……」


 それがいかなる魔法であるか、すぐには解らなかった。あたりに何の変化も生じなかったからだ。しかし――よく見れば、蛍の体を中心として、暗闇が生まれていた。それはまさしく暗闇としか言いようのないもので、それが周囲の光を侵食するように広がっていった。蛍の体が闇に消え、そして私と鵜藤もその真っ暗闇の中に飲み込まれていく。


 視界が暗黒に閉ざされた。三百六十度、すべてが完全な闇だった。触覚を発光させても、闇が晴れることはなかった。


「な、なんだ、これは」


 闇の中で一人、私はうろたえた。いつのまにか、触手を掴んでいた鵜藤の手も離れていた。私だけが光のない世界に落とされたかのようだった。しかし足の下の床を踏む感触はさっきまでと変わりなく、私が立っている場所自体は、何も変わっていなかった。ただ真っ暗になってしまっただけだ。しかしいくら目を凝らしても何も見えないのは、私をひどく不安にさせた。


「ど、どうなってる……音禰……蛍……」


 その時、私の首根っこをがっしと掴む者があった。


「痛ェ」


 ひどい馬鹿力であった。私はそのままずるずると引きずられていく。一体誰が、どこへ私を連れ出そうとしているのか、私を助けてくれるのか、それとも――。


 何も見えない闇の中を、しばらく連れ回されて、そしていきなり目の前に眩しさが広がった。目が慣れるまでは傍らにいる誰かの姿も判然としなかったが、それが何者かは声で解った。


「ここまでくればひとまず大丈夫ですわね」


 エリサだった。エリサの右手が、私の右手を掴んでいたのだった。そして左手には、蛍の腕を掴んでいた。


「え、エリサ、蛍。どうなってる……これは」


「オホホ……お忘れかしら」


 エリサは笑って言った。


「私は暗闇の中でも目が見えますのよ」


「な、なるほど?」


 私はまだ状況がよく飲み込めていなかった。



 先ほど蛍が使った魔法は、暗闇を生み出す魔法であった。言ってしまえばそれだけなのだが、視界の一切を奪い、それにより精神をかき乱すことができるのは、私が身をもって体感したことだ。


 蛍の生んだ暗闇は大講堂中に広がり、鵜藤も音禰も等しく視界を閉ざされた。その闇の中でも活動できるのが、エリサであった。エリサはコウモリに変じて舞台へまっすぐに飛び、私と蛍を確保すると、そのまま大講堂の外まで逃げてきた、というわけだった。そんなわけで私たちが今いるのは、施設内のどっかの小部屋である。物置きと言ったほうが適切か。蛍光灯の白い光が目に眩しい。


「感謝なさいよ」


 エリサは胸を反らして言った。


「私が助けてあげなかったら、あなた鵜藤に何されてたか」


「ありがとう、助かった。しかしお前も蛍に感謝すべきだ」


 私は言った。


「蛍が魔法を使ってくれなければ、あのまま下僕たちはゾンビに負けて……」


「あーあー聞こえませんわ。何も聞こえなーい」


「現実を受け止めろ」


 吸血鬼とゾンビの歴史的な全面対決は、はっきりとした決着こそつかなかったものの、誰がどう見ても、吸血鬼側の敗北であった。エリサはその事実から目を背けていたが。


「あ、あの……」


 蛍がおずおずと口を開いた。蛍は力なく壁にもたれかかり、熱に浮かされたようなぼんやりとした顔だったが、口調ははっきりしていた。


「ありがとう……助けてくれて」


 エリサはそこでようやく蛍に向き合った。


「噂の土守蛍さんね。私は竜道寺エリサよ。吸血鬼よ。ゲヘナのお友達よ。よろしくね」


 吸血鬼よ、という突飛な自己紹介を、蛍は疑いもせずに受け入れた。さきほどエリサの能力をあれほど見せつけられたのだから、それも当然だろうが。


「ごめんなさい……こんなことに巻き込んで」


「構いませんわ。ゲヘナを助けに来たついでよ。オホホ……」


 エリサは黒蘭のことには触れなかった。そしてすぐに笑いを止めると、蛍の顔をまじまじと覗き込んだ。


「あなたなかなか綺麗な顔してますわね」


「はあ」


「ちょっと血を吸わせてくれません?」


「ええぇ……?」


「気にするな。吸血鬼ジョークだ」


 私が横から言うと、蛍は私に目を向けた。「さっきから気になっていたがこの不気味なクリーチャーは何なんだ」と言わんばかりの視線だった。そういえば、この姿で顔を合わせるのは初めて――いや、蛍がゲヘナの家に来た時以来か。蛍はすぐに思い出してくれた。


「君は……魔女さんとこのヤドカリ」


「ヤドカリではない」


「ありがとう来てくれて。いや私のためじゃないか、魔女さんを取り戻しに来たんだよね」


「それもあるが……蛍を解放するためでもあるし、鵜藤の計画を止めるためでもある。結局は全部、関連しあっていることだ」


「また大勢死んだ」


 蛍は別なことを言った。


「私の目の前で……」


 うつむく蛍。その声音には、悲しみや罪悪感というよりも、自信の無力さに対する諦念が色濃く現れていた。虚ろな響きの声だった。


 エリサは蛍の肩に手を置いて、優しく言った。


「そうよね……鵜藤が自殺を命じる前にみんな下僕化できていれば、誰も死なずに済んだのよね」


「慰め方がおかしい」


 その時、ドアが静かに開けれらた。酷い猫背の大男が音もなく入ってきた。法眼であった。


「取り戻せたか……土守蛍を……」


「私のおかげですわ。感謝しなさい」


 エリサの感謝の強要を、法眼は黙殺した。


「鵜藤と……あのゾンビ使いは、どうした」


「知りませんわ。私が舞台上に降り立ったときにはもう、二人ともいなくなってましたもの」


「そうか……いずれにせよ、ここにいつまでも留まっているわけにはいかん……」


 そう言って、法眼は蛍に手を差し伸べた。


「立てるか……」


「あ、うん……」


 法眼の大きな手が蛍の手を包み込み、そして引っ張り上げた。よろめきつつも立ち上がった蛍の、法眼に向けられた目に、何か名状しがたい感情が宿っているのを、私は見た。

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