消える者と来たる者

「ゲヘナ……?」


 そう、私が目を覚ました時には、ゲヘナの布団はもぬけの殻だった。普段なら、起きたとしても布団の中でごろごろしているはずだ――私は急に不安になった。トイレを覗く。いない。地下室。いない――。


 一階に戻った私は、ちゃぶ台の上に便箋が置いてあるのに気付いた。手にとって読んでみると、そこにはこう書かれていた。


「ただ同じことをくりかえすだけの毎日にはもうつかれてしまいました。少しの希望さえ見えない人生は、不安に押しつぶされてしまいそうなのです。けっしてあなたには理解できないでしょうが、これが私の本心なのです。二度と戻る気はありません。教団だけが私を救ってくれるのです。ではさようなら」


 私は我が目を疑った。便箋を持つ触手が震えた。十回読み返したが、書いてあることは変わらなかったし、筆跡も間違いなくゲヘナのものであった。


「ゲヘナーッ!」


 最悪の事態であった。ゲヘナはジゴクノヒカリ教団に心を動かされてしまっていたのだ。先の見えない貧乏暮らしへの不安、優秀な友人への劣等感、小学生にも馬鹿にされ、わずかな稼ぎは家賃に消える――そうだ、ゲヘナの心には知らず知らずのうちに鬱積が溜まっていたのだ。宗教に縋りたくなってもおかしくない状況だったのだ。私はそれに気づけなかった。毎日一緒に過ごしていたのに――。


「いやしかし……教団施設で暮らすにも金がいるんじゃないのか? 一体どうするつもりなんだ? 魔法が使えることを売り込む気か? いや、奴らの陰謀に加担するつもりでは……」


 それだけは阻止しなければならない。そんなことになったら、鵜藤たちだけでなくゲヘナまで逮捕されてしまう。カノン・プレストウィッチにとってもそれは不幸であろう。


「大体なんで一人だけで出家しちまったんだ。私も連れてけよ。私はここで一人取り残されて、どうしろっていうんだ!」


 そうだ、この姿のままでは外へ出ることもままならない。他の人間に助けを求めることも出来ない。アルノーくんもまだ帰ってこないし、電話もないので連絡手段がない。唯一の希望は、魔法ショーを見にやってくる小学生集団であったが、カレンダーを見ると今日は日曜だった。学校が休みなら彼らも来ない。少なくとも明日まで待たなければならないということだ。ああ、ゲヘナはその間、教団で何をさせられるのか?


 外ではついに雨が降り出していた。雨粒が窓ガラスを叩いた。その音が孤独なる私を責め立てているようで、気ばかりが焦った――。



 ゲヘナの失踪が判明してから数時間が経った。私はどうすることもできず、狭い部屋の中をうろうろと歩き回るばかりであった。雨足は強まる一方だった。


 地下室に繋がれたペロも、異常を察してか、いつもの元気がない。床に伏せてクウーンと鼻を鳴らしている。現状、私のそばにいるのはこいつだけだが、こいつもまた人前に晒すことはできない。私たちはこの六畳間から出られない。少なくとも日中は。いや、夜中であっても、こんな怪物どもが他人に助けを求めるのは――。


「なんだ、こりゃ」


 地下室の壁に、新聞紙が貼られていた。そこには筆ペンで魔法陣が描かれていた。こんなもの、いつのまに描かれたのだろうか。昨日まではなかったはずだが――私は残念ながら魔法に詳しくないので、何のための魔法陣かは解らなかった。もしかしたらゲヘナが残していった何かのメッセージか、とも思ったが、やはり何の意味があるのかさっぱり不明であった。


 どうにもできないまま、私は地下室と一階を行ったり来たりしていた。そして気付いたことがある。魔女装束がなくなっていることだ。ゲヘナは魔女の格好で教団に向かったのである。ついでに杖もなくなっている。


 私は一つの仮説を思いついた。もしやゲヘナは、教団に心酔して出家したのではなく、たった一人で教団に立ち向かうべく、杖を携えて施設に乗り込んだのではないか――いや、ありえない。ゲヘナにそんな度胸はないし、もしそんな危険を冒す時には、私も一緒に連れていくはずだ――。


 私はゲヘナの手紙にもう一度目を落とした。ただ同じことをくりかえすだけの毎日にはもうつかれてしまいました。ゲヘナは見た目は十一歳のままだが、本当は大学まで出た立派な成人女性なのだ。体が子供だからって、心の中まで子供でいられるはずもない。将来への不安に苛まれたり、すべてを投げ出したくなったりすることもあるだろう。そんな気持ちに、私は気付いてやれていただろうか? その孤独の身に、私はちゃんと寄り添えていたのだろうか? ゲヘナが教団を選んだのは、私のせいでもあるかもしれない――。


「帰ってきてくれ、ゲヘナ。私にはお前しかいないのだ」


 ゲヘナがいないと何もできない。私は己の無力さを思い知る。目が八個あっても、触手があっても、今ここでは何の役にも立たない。


 他の誰か――いないだろうか。ゲヘナを助けてくれそうな人。可能性が高そうなのはカノン・プレストウィッチだ。アルノーくんの手紙を読んで、すぐに行動に移してくれればいいが、また色々と理由をつけて断ってきそうでもある。それから音禰だが、何だか知らないが仕事が入ったとかで、近頃さっぱり来てくれない。私の身近で一番頼りになる人といえば、音禰を置いて他にいないのだが――。


 他には誰かいないだろうか、と考えていると――。


「おっじゃましますわ~」


 素っ頓狂な声とともに、玄関のドアがいきなり開け放たれた。現れたのは、コウモリ傘を差した竜道寺エリサであった。あまりに突然のことで、私は面食らった。


「どうしましたの、顔色がドドメ色ですわよ。あっ、元からでしたわね。オホホ……ところでゲヘナは?」


「いや……いないが……」


「あっそう。まあいいですわ、上がらせてもらいますわよ。大雨ですし」


「あ、ああ」


 エリサは傘をたたみ、ブーツを脱いで上がり込んできた。服装は前と同じようなゴスロリ的なファッションだが、前回とは趣が違っており、髪型も変わっているので別人のような印象を受けた。左手にはバスケットケースを提げていた。


「しかし本当にみすぼらしい家ですわね。うちの物置のほうがなんぼかマシですわ」


 そう言いながら、エリサは座布団を三枚重ねて腰を下ろし、バスケットケースを畳の上に下ろした。


「一体何の用事だ……こんな昼間から……」


「用事はこれですわ」


 エリサはバスケットケースを開いた。


「これを届けに来ましたのよ」


「エリサ……こ、これは……」


 中を覗き込んだ私は、言葉に詰まった。ケースの底にはタオルが敷き詰められていて、そこに横たえられていたのは、アルノーくんであった。体には包帯が巻かれていた。


「これ、おたくの鳩でしょ」


「そ、そうだ、アルノーくんだ……な、なんでエリサが……それにこの……包帯は」


「まあ、落ち着きなさいな。順を追って説明してあげますから」


 エリサの話によると、こうだった。今日の明け方頃、エリサはいつものように床に就いた。ぐっすりと眠っていたが、窓に何かがぶつかる音で目が覚めた。何だろうと思って外を見てみると、雨に濡れたアルノーくんが倒れていた。その体には矢が突き刺さり、血が流れていた――。


「ただの野鳥ならほっときましたけど、よく見たらゲヘナの伝書鳩でしたから。矢を引っこ抜いて、手当してあげましたのよ」


「それはどうも……世話をかけたな」


「ここまで帰ってくる体力がなくて、私の家に助けを求めたのね。鳩のくせに、いい判断ですわ」


「まだあの壊れた家に住んでるのか」


「いえ、庭の隅に仮住まいを建ててもらって、そこで寝起きしてますの。お屋敷はまだ解体作業中ですわ」


「なるほど」


 私は改めてバスケットケースの中を覗いた。アルノーくんはかなり衰弱しているようだったが、呼吸は確かだった。誰が何のためにこんな酷いことをしたのか――考えるまでもないことだった。足に括り付けられているはずの手紙が、なくなっていた。


「エリサ、アルノーくんは手紙を持っていなかったか?」


「いえ、何もなかったですわ」


「ということは……奪われたのか、教団に」


「きょうだん? 何のこと?」


 カノン・プレストウィッチに届けるはずだった報告書、それが教団によって握り潰されたということは、ゲヘナが魔女であることも、他の魔女に教団のことを報告していたことも、教団は全部解っていたのだ。鵜藤も最初から、ゲヘナが魔女だと知っていたのかもしれない――。


「どうしましたの、考え込んじゃって。犯人に心当たりでもありますの」


「ああ、まあ……」


「ま、犯人探しより先に動物病院に行ったほうがいいですわよ。こればっかりは、ゲヘナの魔法でもどうにもならないでしょうし」


「魔法? ……ああ、魔法で怪我を治しちゃいけないんだったな……」


「そうそう、禁忌魔法ってやつ。前にゲヘナから聞いたことありますわ。禁忌魔法は全部で三つあるんですって」


「私も聞いたことがある。あとの二つは知らんが……」


「あとの二つはね、歴史や時間に干渉する魔法と、人の心を操る魔法ですわ」


「えっ?」


 人の心を操る。それが妙に引っかかった。


「お、おい……禁忌魔法は、偉い魔女しか使えないんだろ」


「ええ、魔法学校の校長が、代々継承してるんですって。詳しくは知りませんけど」


「使い方を知っていれば……自由に使えるのか?」


「さあ? でも禁忌魔法には、大きな代償が伴うんですって。それが何なのかは、ゲヘナも知らないみたいでしたけど。そう、あと、ちゃんと発動させるには、莫大な魔力が必要だって」


「莫大な魔力……」


 同じような言葉を、最近どこかで聞いた。そうだ――悪魔だ。悪魔は莫大な魔力を貯め込むことができる。蛍はそう言っていた――。


 教団が蛍を使って何をしようとしているのか、おぼろげながら見えてきた気がした。

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