巨大吸血鬼を討て

「そのストールって、黒蘭さんのですよね」


 ゲヘナの手が弱々しく握ったストールは、今にも指の間をすり抜けて床に落ちてしまいそうだった。


「さきほど人捜しの魔法をかけてらした……」


「うん。さっき、廊下の奥で、吸血鬼から逃げようとした時……ちょっと引っ張られるような感じがした」


 ゲヘナの声は途切れがちであった。もともと魔力の残りが少なかったところに、杭を飛ばし、全速力で走り、そして透明化の魔法を使ったことで、いっそう魔力を消耗している。もう立っているのも大変そうだった。


「どういうことですの……引っ張られる感じって」


 エリサが訊く。答えを急かすのと、ゲヘナの体を心配するのとどちらを優先すべきか迷っているような口調だった。ゲヘナは深く息を吐いてから答えた。


「つまり……黒蘭さんは廊下の奥にいる。さっき巨大吸血鬼がいた廊下の奥の方に、いる、はず、多分」


「えっ……そんな」


「なんでそんなところに」


「それは私にも解らないけど……やっぱりあの吸血鬼を、どうにかしないといけない」


「どうにかって……」


 音禰が言葉を詰まらせる。ゲヘナがギリギリの状態である今、魔法を使えるのは自分だけ――そのことに重圧を感じているのだろうか。


「倒すしかないですか」


「そ、そうですわ……早くしないと、黒蘭が……でも……」


「違う場所から、黒蘭がいるところに、回っていけないのか。たとえば、屋敷の外から回って、窓から入るとか」


 私が言うと、エリサが首を横に振った。


「あの奥は倉庫になってますの。窓もありません。完全に行き止りですわ。ここの廊下から行くしか」


「こちらから行くにしても……敵は透明になる力を持っているようですから……うかつに飛び込むのは危険です……」


「じゃあ……こちら側におびき寄せる?」


「……」


 重い沈黙。何をするにも危険であり、絶望的であった。音禰もエリサも顔を曇らせ、目をそらし、唇を噛む――。


 そんな中、ゲヘナが唇をわずかに動かして言葉を漏らした。


「先生」


「なんですか、ゲヘナさん」


「先生は、あの吸血鬼の……動きを、止められる?」


 ゲヘナの問いに、音禰は少し考えて答えた。


「止めることは、できるでしょう。他の吸血鬼にも、私の魔法は、一応は効果を発揮しました。ですが、あの巨体を囲ってしまえるほどの魔法陣と、そして大量の魔力が必要になります。そして、動きを止めることができても、ごく短い時間……十秒から、保って一分……」


「じゃあ……二十秒でやっつけよう」


 ゲヘナは憔悴しきった顔に、かすかに笑みを浮かべた。


「食堂に魔法陣を敷こう。そこにあの吸血鬼を誘導する。あいつは十字架が苦手だから。それを利用すればおびき出せるはず。食堂に入ったら、先生が魔法であいつの動きを止める……」


「それから……どうするんです」


「私の魔法で仕留める。燃やしてしまえば、さすがに死ぬよね」


「ただしまた火事になるかも……そうなると黒蘭さんが余計に危ない」


「焼き殺す以外に、手段はありませんの?」


「動きを止めた上で、杭で攻撃するのは」


「だめだ、もう杭が残ってない。全部使い切った」


「じゃあやはり……焼き殺すしかありませんね」


「どうしようエリサ」


「それしかないなら、仕方がありませんわ。では音禰とゲヘナがあの巨大な吸血鬼を仕留める……ということね。二人で……」


 エリサは少し考えてから、再び口を開く。


「私も、何か協力させてくださいまし。私が言い出して始まったことですから。あなた方にばかり危ない役目は任せられませんわ」


「じゃあエリサは、私と先生が吸血鬼を止めてる間に、黒蘭さんを捜して」


「解りましたわ」


 エリサが力強く頷く。


 かくして巨大吸血鬼との最終決戦が幕を開けようとしていた。まず魔法陣の展開のために、食堂にあったテーブルや椅子を全部廊下に出した。これは私とエリサが行なった。エリサは一度に椅子を三つも四つも抱えていた。


 作業の途中、エリサが壁にかかった絵を見上げて言う。


「この絵のおかげで……間違った吸血鬼像を刷り込まれてしまったのね」


「間違いとは言い切れまい。もしかしたら世界のどこかにはこんな吸血鬼がいるかもしれん。お前の男版みたいなやつが」


「もしいたら、すっごく性格悪いんでしょうね」


「自覚はあんのか」


 私たちは食堂のテーブルと椅子を使い、廊下にバリケードを作った。巨大吸血鬼が透明になって近づいてきても、バリケードが崩れる音ですぐに解る。原始的だが、これが一番効果的だろう。


 一方音禰は、空っぽになった食堂の床をいっぱいに使って魔法陣を描いた。私は魔法にそこまで詳しくはないが、それでもこの魔法陣を使うにはかなりの魔力を要することは、なんとなく解った。それほどに大規模で、複雑な魔法陣であった。


「すごい描き込んだね」


 壁際に腰を下ろして休んでいるゲヘナが言った。


「魔力を最大限効率よく使うためです」


「これで出来上がりですの?」


 エリサが様変わりした食堂を眺め回す。


「さっき仕掛けていた罠の魔法陣より、だいぶ細かいじゃない?」


「罠は罠で一定時間魔力を保持しておくための容量が必要だったので模様の書き込みもある程度細かくする必要がありましたが今回は罠ではありませんが可能な限り少ない魔力で全体に均等に魔法を行き渡らせるための描き方ですね」


「ははあ……?」


 エリサはよく解っていなさそうだった。私も解らなかった。


「こっちも準備はできたぞ」


 私は音禰に声をかけた。私がやった準備とは、廊下から玄関ホールに逃げられないように十字架を仕掛けておくことである。十字架と言っても、椅子の脚を折って作った即興のものであるが、一応神への祈りを心の中で唱えながら設置した。


「ありがとうございます。では……ゲヘナさん、いけますか」


「大丈夫」


 ゲヘナは杖によりかかりながら立ち上がった。


「先生は、魔力は」


「すべて使い切らねばならないでしょう」


「それは私も同じだよ」


「えっと……魔女は魔力を使い果たしても、その……」


「死んだりしないよ。ただ動けなくなるだけ」


「そうですか、安心しました。いや安心はできませんが……もし動けなくなったら、私がおんぶして帰ります」


「そっか、じゃあ遠慮なく使い切っちゃおうかな」


 ゲヘナはやつれた顔でにっと笑う。つられて音禰も口の端をわずかに吊り上げる。二人だけに通じ合う何かがそこにあった。それを見てエリサが言う。


「最後にどっちか死ぬ展開じゃないでしょうね……」


「縁起でもないことを言うな」


 ゲヘナと音禰が私たちの方に向き直った。


「ではお願いします。これで終わりにしましょう」


「危なくなったら……自分の身の安全を、一番にね」


「解った」


「任せてくださいまし」


 私たちに与えられた任務は、巨大吸血鬼をここまで誘導してくることであった。吸血鬼の前に身を晒すのは相当危険だが、私には丈夫な殻があり、エリサはコウモリに化ければ万一の場合にもやり過ごせる、気がする。


「よしじゃあ行くぞエリサ」


「私はいつでもよろしくてよ」


 食堂から真っ暗な廊下へと一歩踏見出し、触覚の灯りを点けた。それからバリケードにしていた椅子やテーブルを乗り越える。廊下の奥は闇に閉ざされ、何も見えない。


「大声で叫べば、出てくるんじゃないかしら」


「吸血鬼はまだ他にもいるんだ。そいつらも一緒に寄ってきてしまうかも知れない。狙いはあくまで、あのでかい奴だけだ」


「なるほどですわ」


 そう言いながら私たちは一歩ずつ足取りを確かめるように、廊下を進んでいく。私の視界は三百六十度カバー可能だが、この暗さでは、触覚で照らせる前方以外はさっぱり見えない。後ろが見えないのはやはり不安であった。


「人間はよく前しか見ずに生きていられるものだ」


「前を向いて生きるしかないということですわ」


 私たちのひそひそ声も、静寂の中ではやけに響いた。

 やがて電話があったところに辿り着いた。あった、というのは、今はもうない、ということである。


「ああ、大事な電話が……」


「さっき吸血鬼の突進に巻き込まれたんだな」


 床に散乱した電話機の残骸を、私たちは見下ろして、そして顔を上げた。エリサがはっと息を呑んだ。そう、そこにいたのである。ゲヘナが使った透明化の魔法よりも純度の高い透明さで、すっかり景色に溶け込んでいたが、光で照らしてみれば、そこにいることが解った。透明な肉の壁が、そこに息づいていた――。


 巨大吸血鬼は、私たちの気配を感じ取っているらしい。ただ、こちらが吸血鬼の存在に気付いていることを、吸血鬼の方はまだ気付いていないようで、音を立てないよう、じりじりと向きを変えようとしていた。我々の血を吸う――いや、我々を捕食するために――。


 隣で息を殺しているエリサが、私の側面の目に向けて、三本指を立ててみせた。指は二本、一本になり、そのカウントダウンが終わると同時に、私たちは勢いよく床を蹴って、今来た廊下を駆け戻る――。


 最終決戦の幕が開いた。

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