さらなる吸血鬼

 ゲヘナは杖を抱えて走っていた。私はひたすらその後を追いかけた。こけつまろびつしながら物陰に隠れる音禰が後ろの目に映った。それ以外は何がどうなっていたのか解らない。ゲヘナとはぐれないようにしなければ――私はただそれだけを考えていた。本能的衝動に突き動かされていた。


 魔法が使えるのに走って逃げるしかない、という有様は滑稽に見えるかも知れないが、魔女だからといって魔法で何でもできるわけではないということは、もうお解りいただいているだろう。呪文を知らない魔法は使うことが出来ないし、略式の呪文で発動できるのは使い慣れた魔法か簡単な魔法だけだ。魔法語辞典も呪文の教科書もないこの場では使用できる呪文はゲヘナが呪文を暗記しているものだけで、さらに咄嗟の場合に使える略式呪文だけに限られる。そしてゲヘナはそこまで魔法が上手いわけでもない。


 だが、それでも吸血鬼を抹殺しうるのは今のところゲヘナの魔法しかないのである。身の安全を守るためにはゲヘナの魔法に頼らねばならない。しかしゲヘナの魔力も無限ではない。魔力が尽きれば吸血鬼への対抗手段は音禰の魔法のみとなり、それでは動きを止めるのが精一杯だ。音禰は吸血鬼を操ることができない、という弱点は、吸血鬼ノスフェラトゥの一件で露呈してしまった。


 吸血鬼全員抹殺。本当にできるのか。逆に我々が殺されてしまうのではないか――。


 私はゲヘナの背中だけを見つめて、吸血鬼の潜む屋敷を駆けていく。



「こ、ここまで来れば大丈夫でしょ……」


 ゲヘナは床に膝をつき、肩を大きく上下させながら喘いでいた。帽子を脱いで、額の汗を拭う。


「久々に走ると体に来るねえ、先生」


 と言ってゲヘナはあたりを見回す。しかし音禰はいない。エリサも黒蘭も、ついてきてはいなかった。


「あれ、なんでお前しかいないの」


「解らん。みんなはぐれた」


「大丈夫かな。捜しにいかなきゃ」


 ゲヘナは慌てて立ち上がり、帽子をかぶり直した。吸血鬼捜しの次は人捜しである。まったく忙しい夜だ。


「てゆーか、ここどこ」


「二階の、どっかの部屋だな」


 私たちは改めて、自分たちのいる場所を眺め回した。私たちが泊まっていた客間よりはいくらか狭いが、ベッドやクローゼットなどが置かれていて、人一人が起居するための環境が整っていた。しかし吸血鬼の被害を受けたらしく、手当たり次第に荒らされ散らかされて、目も当てられない状況だった。電灯も点かないので、光源は私の触覚だけだ。幸いドアは無事で、私は一応、そのドアを閉めておいた。


「ここって黒蘭さんの部屋じゃない?」


 ゲヘナが言った。ゲヘナはクローゼットの前にしゃがみこんで、ボロ布を漁っていたが、それはよく見ると黒蘭が着ていたのと同じ服だった。吸血鬼にやられたのだろう、クローゼット内の衣服は全て見る影もなく切り刻まれていた。


「ふうん、黒蘭の部屋か」


 言われてみればそんな気はする。荒らされる前は、こじんまりとした、整頓の行き届いた空間だったのだろう。と思ってあちこち見回していると、床に散乱した大量の本の中に、一冊のノートが混じっているのが目についた。ハードカバーの洋書に混じって、薄い大学ノートが一冊だけあるのが妙に気になって、私は拾い上げてみた。表紙には何も書かれていなかった。


「何見てんの?」


「ノートが落ちてた」


「日記かな。見ちゃえ」


 ゲヘナは私の触手からノートをかっさらい、ぱらぱらとめくった。下卑た好奇心に満ちた表情が、次第に不可解そうな顔に変わっていく。


「これ、あれだねえ。ゾンビのこと書いてるね」


「ゾンビ……? 黒蘭はゾンビについて調べていたと?」


「そうみたいね。吸血鬼についても詳しいみたいだったし」


 私はゲヘナからノートを取り戻し、中身を確認した。ページには細かい文字がびっしり書き込まれていて、人体のスケッチもところどころにあった。書き込みがあるのは最初の五ページくらいで、あとは白紙だった。


「なんかよく解んない人だよね、黒蘭さんも」


「よく解らんというか……あからさまに怪しくないか?」


「怪しいって? どのへんが?」


「全部怪しいだろ。吸血鬼の家に仕えている時点で普通じゃない。今までの召使いは、エリサが吸血鬼だって知ると逃げ出してたんだろ。それに、魔法のことも知ってたみたいだし」


「魔女じゃなくても魔法を知ってる人くらいいるよ、先生だってそうじゃん」


「それはそうだが……」


「吸血鬼の家で働いてるのも、あれだよ。エリサに血を吸われて従順になってるんだよ」


「それならあの下僕みたいに凶暴化してるはずだろ」


「あ、そうか」


「ほら怪しいだろ」


「でもまあ魔法のこと知ってるなら、人外の存在を知ることもあるんじゃないかな。根拠もないのに人を疑うのはよくないよ」


 ゲヘナの主張の方が、筋が通っていた。しかし黒蘭という人間にまつわる情報が少なすぎるのもまた事実だ。エリサとどうやって知り合ったのか――音禰は黒蘭のことについて何か知っているのだろうか。こんなことをあれこれ考えてしまうのは、緊急事態のせいで精神が不安定になっているせいか?


「とにかく、黒蘭さんも含めてみんな捜さないと」


 ゲヘナが言う。私ももちろんそのつもりではある。いくら素性が知れない謎の人物だからといって、黒蘭が吸血鬼に殺されるような結末は寝覚めが悪い。


「しかし、どうやって捜す……」


 その時、ノックの音がした。私の言葉を遮るように、誰かが部屋のドアをノックしたのだ。そして、廊下からの声――。


「ゲヘナ・ダンウィッチ……」


「はー……ムグッ」


 返事をしようとしたゲヘナの口を、私は咄嗟に触手で締め上げた。


「むがごぐ……」


「お前、今返事しようとしただろっ」


「むぐぐう……?」


「音禰が言ってなかったか? ドアの向こうから名前を呼んでくる吸血鬼がいるって……で、返事をしたら死んでしまうって」


「むぐっ!」


 ゲヘナは足をばたつかせながら触手をばしばし叩いてきた。私が触手を解いてやると、ゲヘナの顔は真っ赤になっていた。


「今死にそうだったわ窒息で。でも助かった。そういやそんなこと言ってた気がする」


「そう……そうだ、確か、一度しか呼ばないとかなんとか……吸血鬼は短気だから……」


 私たちは息を潜めて二度目の呼びかけを待った。ドアの外からは何の声もしなかった。つまりさっきゲヘナの名を呼んだのは、吸血鬼だったということだ。


「ど、どうしよう。ドアの前にいるよね」


「殺すなら今がチャンスだぞ」


「それはそうだけども」


 小声で言い合っていると、ドアノブの鍵穴から、何かがぬるりと這い出してきた。私もゲヘナもその光景に目を奪われた――鍵穴から出てきた紐状の何者かは、床に落ちると、潰れたように広がり、そして少しずつ盛り上がっていった。それは人の形になった。


 人、とは言ってもその姿は尋常ではない。我々を見下ろす二メートルほどの身長、赤黒い皮膚ははち切れそうなほどに膨れ上がり、その表面は見るからに硬そうだった。全身が膨張したせいで礼服は引きちぎれ、黒い布が肩の辺りを申し訳程度に覆っているのみであった。


 とりわけ異様なのは、その顔――両目が片方に寄っていて、炭火のような赤い光を宿しているのだ。そして下半身もまた、人のそれではなく、馬の脚になっていた。蹄が床をごつごつと鳴らした――。


「や、やっぱり吸血鬼」


 ゲヘナが私の殻に縋りつく。


「な、なんてやつだっけこれ」


「解らん。覚えてない。だがこの、目が片方に寄ってる奴の話は、していたような気がする」


 音禰は確かにこの吸血鬼の名前を口にしていたし、特徴や弱点、殺し方に至るまで懇切丁寧に教えてくれていたはずだった。しかし何一つとして思い出せなかった。


「と、とにかく杭だ。杭で殺せ」


「よ、よし……」


 ゲヘナは深呼吸をして息を整えてから、杖を吸血鬼に向けた。


「ノニ・ノニ!」


 呪文を唱えるとほぼ同時に、風を切る音と壁をぶち抜く音が一瞬のうちに近づいてきて、先端の尖った杭が壁を突き破って吸血鬼の胸に突き刺さった。あっという間の出来事だった。


 杭で胸を貫かれた吸血鬼は、仁王立ちのまま、ぴくりとも動かなかった。


「やったか? やった? やったよね? やったでしょこれ? 絶対やったよ? やったったよ? やったかな? やったんじゃない? やったよ? これはやったか?」


「うるせえよ」


 ゲヘナは私の影に隠れて吸血鬼の様子を窺っていた。やったかどうかと言われれば、杭が胸にぶっ刺さっているのだから、やったと言えるだろう。心臓が潰れているのだから死んだに違いない――だが、その考えは甘かった。


「お、おい……動いてるぞ」


「えっマジ」


 マジだった。吸血鬼はその腫れ上がったような指を、ぎこちなく宙を掴むように動かし、腕、肩と順番に震わせた。そして口から真っ黒な血反吐を吐き散らすと、足を一歩、二歩とこちらに踏み出してきたのである。筋骨たくましい馬の脚で――。


「な、な、な……」


「どっどうするゲヘナ」


 私たちは相手の歩みに合わせて後ずさった。杭が効かないとなるともうどうすればいいか解らない。こんなことならばもっと音禰の話を真面目に聞いておくべきだったのだ。私たちは二人揃って駄目な生徒であった!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます