NOTE4
日が沈むのがはやくなった。
通りにみられる屋外照明は一番星よりはやく輝いている。
陽は街灯を気にしながら歩道を歩く。
金魚鉢のようにまるい容器の中に灯る電灯が放射状に光っている。ビルの看板のまわりを電球が並び、ひとつおきに交互に点滅している。
信号機が青から黄色に変わる。
車のテイルランプが点きはじめ、止まる。
横断歩道を走る自転車のライトが明るくなっていく。
空はますます暗くなり、ピンクに染まる雲にかげりがみえる頃、空の向こう、遠くで小さな星を一つみつけた。
昨日のテレビでゲーテという詩人が死ぬ間際に「光をもっと光を」と言った、とかゲストが話していた。
これ以上世の中を照らす光はいらない気がする。
一体全体どこを照らしているのかわからない光が多すぎるから、自分の足下を照らすことをおろそかにするんだと陽は思いながらコンビニエンスストアーの明るさにまねかれ、りんごを買った。
ここは朝となく昼となくいつも明るい。
クリスマスにライトアップされた駅前からそう遠くない場所に、住宅が密集しているところがある。その一角に甘粕洋子の家があった。
「まさか本当に来てくれるとは思わなかったなー」
洋子は笑いながら陽を出迎えた。
いつも束ねている髪を下ろし、彼女は赤い寝間着の上に青っぽいどてらを着ていた。
「風邪ひいたんじゃなかったの?」
「うん、三十八度近く熱がでちゃって大変だったんだから」
陽を家の中に招きながら、洋子は廊下をさっさと歩き、階段を登る。おじゃまします、陽は後をついていった。
階段を上がって洋子は最初のドアを開け、入ってよと言い、陽を部屋に招いた。六畳くらいの広さにベットと机と椅子、本棚、星柄の青いカーテン上の壁に取り付けられているエアコン、その隣にハンガーに掛けられた制服、部屋の片隅にはテレビが置かれ、ゲーム機がつながれていた。
「あのさ、甘粕さん」
「なに?」
「恥じらいとかないの。ぼく一応男なんだけど」
「知ってるよ。それとも女装の趣味があるの?」
「そうじゃなくて、いつも簡単に部屋にまねいたりするの?」
洋子は、相手によるんじゃないかなと応えてから、そんなことはどうでもいいからと、陽の肩をつかんでテレビの前に座らせ、コントローラーを持たせた。
「さーて、対戦でもやりますか」
「寝てなくていいの?」
「コンピューター相手じゃつまんなかったから。やっぱ、人間同士じゃないと張り合いないもんね」
「あのー、聞いてます?」
「聞いてるから、早くキャラ選んで」
格ゲーにはまりだしてるの、と洋子は言った。
あきれながらコントローラーを置く。
「三十八度も熱あるんでしょ。寝てなくていいの?」
「わたしの身体はわたしが一番わかってる。心配しないでって」
「心配するよ」
「惚れた弱みのなんとやら~ってか。心配されるほど、熱なんて……」
一瞬ふらついたと思った途端、洋子は床の上に倒れてしまった。
慌てて陽は抱き起こし、彼女の額に手をのせる。
「熱、あるじゃない。……ったく」
「エヘヘ、……ごめん」
額に、脂汗をかきながら、洋子は笑った。
陽は彼女をベットに寝かせ、机の上にあった濡れたタオルで汗を拭いてあげた。少し髪をかき上げ、タオルを額にのせる。
「風邪のときは、寝てないと治らないよ」
洋子はうなずく。
「それと、りんご。買ってきたけど、むいてあげよっか?」
洋子は首を縦に振った。
陽はポケットから、携帯用の果物ナイフを取り出し彼女の前で、皮むきを始めた。
左手でりんごを持ち、少しずつまわしながら赤いりんごをむいていく。
上手いね、洋子はいった。
「これぐらいはね。甘粕さんだってできるでしょ」
「え? ま、まぁね。皮むきぐらい……」
「だよねー。ところで、家の人は?」陽は手を動かしながら訊ねた。
「仕事だよ。年末はどこも忙しいでしょ。景気が悪いから残業してもお金があんましもらえないらしいけど。父さんも母さんも、夜は遅いし朝は早いし。風邪なんかひくと一日中誰もいない家の中でポツンといると、胸の奥から『さびしい』ってにじみでてくる。学校から帰ってきても、そう。『おかえり』っていってくれる人もいなくて、いきたくないけど塾にいってた方がどれだけましか……。あっ、変なこといったみたい、ごめんね」
「い、いや……」陽は皮むきに専念する。
「いま、まずいこときいちゃったって思ってるでしょ。そんなこと思わなくたっていいって。人がいいんだから、志水君は。いまのは笑ってとばすとこなんだよ」
洋子は笑う。その顔も観ずに、陽は皮をむき終わった。
「なにもない荒野よりも、人混みの中よりも、さびしさを感じるときは人がつくったものの中で自分一人しかいないって気づかされるときなんだよね。家も、テレビも、ゲームも、電話も、誰かが作ったものなんだけど、それをつかっているのも人だけど、姿がみえてこないんだよね。玄関あけて、中に入っても帰った気がしない。嫌いだけど塾にいってた方が、ましなんだ。あっ、変なこといったみたい、ごめん。いまのは笑ってとばすとこなんだ」
陽はそう言ってから、りんごを四つに切り、芯をくりぬいた。
洋子は、手渡されたりんごを、かじった。
「おいしいね、志水君の味がする」
陽は、ひとつつかんで、食べてみる。
「ぼくって、こんな味がするんだ」
やっぱり風邪ひいたときのりんごはおいしーね、洋子はうれしそうに二つ目を食べた。
「高かったんだから。見舞いに行くのに、どうして注文受けなきゃいけないの。見舞い品ってのは、持ってくる人の気持ちが大事で」
「いいじゃん、そんなこと。それに、嫌いなモノを持ってこられても食べれず捨るくらいだったら、こっちから注文して、なにか悪い? 選ぶ手間も省けたって考えに、どーしてならないかな」
ベットから身を乗り出し、洋子は陽を見下ろす。
普段から背の高い彼女に見下ろされてるのに、床に座ってまで見下ろされると自分が小さく感じてしまう。
「でも、選びたいじゃない。これを持っていったら甘粕さんが喜んでくれるかなとか、こっちの方が甘粕さんが気に入ってくれるかなって、あれこれ迷って。そりゃ、嫌いなものを送っちゃうって、結果になるかも知れない。けれど、選んでいるときは、ぼくは甘粕さんのこと、一生懸命考えられるんだ。そういう時間があるから、見舞いに持っていたとき、甘粕さんの顔見て『早く元気になってね』って言葉が自然に言えるんじゃないかな。ぼくの、ひとりよがりだけど」
洋子はしばらく黙り込んだ。
腕組みして、頭をかき、外に目を向け、壁に持たれ、自分の部屋を見渡し、横目で陽をみる。
陽と目があった。
「そだね、ありがと。今度、志水君が車で跳ねられたりとか、原因不明の腹痛で倒れたときにはちゃんとあれこれ考えてお見舞いの品、買って持ってくね」
「……はぁ、そういうことがないことを願いますけど」
陽は苦笑いしてみせた。
目の前で照れ笑いしている洋子。
きっと、こんな関係が続くんだろうな。
手を伸ばせば届く距離に、彼女がいる。
腕を伸ばし、背伸びをしても届かない星と違って、すぐ前に。
でも、手を伸ばせない。
これ以上、距離を縮められない。
触れた途端、消えてしまうシャボン玉のように。
実体がない訳じゃないけど。
「志水君は冬休み、どうするの? スキーとかいくの?」
「今年は雪不足みたいだし。こたつに入ってミカン食べて、紅白でも観るけど」
「ふるーい、志水君。そんな時代はとっくの昔に終わったよ」
「へ?」驚く陽。
洋子はニンマリ笑い、陽の顔に近づく。
「鐘つきにいくんだ」
「鐘つき?」
「そ、やっぱ日本人っていったら大晦日は年越しそば食べて、百八つの煩悩祓いに除夜の鐘をつきにいくのがあたりまえじゃん」
「……で、今度はなにが食べたいって」
しょうがないなあ、という顔で陽は彼女をみる。
洋子はなに言ってるのかわからないなあととぼけた顔で笑いながら、
「え? そんなんじゃないって。ただ、お寺の前に屋台がきて、そこのラーメンが超おいしーって、評判きいたからさ、どんなものかなーって。ラーメン食べる目的で、鐘つきにいくんじゃないんだってば」
と言った。
動機が不純だね、陽は苦笑した。
「陸上部は、今なにしてる?」
「筋トレかな。大会ないし。星詠組はどうだった?」
「んー、酒元さんが作った詩が新聞の投書欄に載ったとか、岡本君が星のフォトコンに出したり……」
「はははは。涼ちゃんもアッキーもがんばってるんだ」
「あと、来月から光害について活動することを決めたんだ。街の明かりがもたらす問題のことだよ」
「クリスマスのライトアップとか? 通りの木々に電飾を施してるのとかのこと? あれはあれできれいと思うけど……きれいすぎるから?」
「そうじゃなくて……」
陽は秋人や寺門先生からきいた話をなるべくわかりやすく洋子に説明した。夜を照らす街灯は便利だけど便利すぎることは人に害を与えてしまう、みたいなことを話した。
ねぇ、ひとつ聞いてもいい? と洋子はベットの中から言った。
陽はうなずく。
「あのさー、あの時、どうして逃げ出したの?」
なんのこと、と陽は聞き返す。
「わたしが追いかけたとき、どうして走り出したの? 腕を折ったことはすごく悪いと思ってる、ごめんなさい。でも、なぜ逃げたの?」
「そのことは、もういいって」
「よくないよ、わたしはあの時、自分で言った言葉に後悔して、取り消そうと思って追いかけた。……でもわかってる、一度口にした言葉は取り消すことなんてできないんだって。それでも取り消したかったんだよ」
ベットの上から半身をおこしかける洋子の顔をそむける陽、手に持つ食べかけのりんごを一口かじった。りんごのかじる音をかき消すように壁にかけられた時計の刻む秒針の音がやけに大きく室内に響いた。
「怖かったんだ」陽は自分を納得させるように言った。「そう、怖かったんだ。甘粕さんが怖かった。甘粕さんにひどいことを言ったような気がして」
「どういうこと?」
「ぼくみたいなのが甘粕さんをすきになっちゃダメってこと」
「さびしいこと言うね」
食べかけのりんごを口に入れる洋子。黙って天井を仰ぎみている。 なにを考えているんだろう、陽は洋子の様子をみる。
洋子は、噛み砕いたりんごをのみこみ、口を開けた。
「あのときはおどろいたよ、不意打ちだったから。あのね、本当はね、志水君の気持ち、わたし知ってたんだ、アッキーから聞いたとか、そうじゃなくて、みてればわかるもん。正直、うれしかった」
「……甘粕さん?」
「でも怖かった。うまくいえないけど、なにかが崩れてしまうんじゃないかって、怖かった」
自分をみている洋子を陽はみていた。
彼女をみながら自分に問いかける。
今でも気持ちは変わっていないのか? 気持ちは少し変わったと思う。
告白する前は落ち着きがなく、どこかに出かけるわけでもないのにあせっていて、思いと行動がかみあっていなかった。
地球の重力圏から飛び出したい感じで、どうしていいのかわからずにいた。
今は違う。地に足がついている感じだ。
自分の足で立っているから前に一歩、踏み出せる気がしてる。
「お互い、怖かったんだ。でも今は怖くない、そう思う。甘粕さんは?」
「う~ん、怖くない」
陽をみる洋子の瞳が少し挑みかかった目をしていた。そんな彼女をみて陽は照れくさそうに笑って、甘粕さんのことがすきなんだと言った。
「わたしのどこが?」
「そうだね、うまくいえないけど……甘粕洋子さんだからかな」
「なにそれ? どういうこと」
「星は星だからきれいだし、海は海だから素敵なんだ。甘粕洋子さんは甘粕洋子さんだから、ぼくはすきなんだ」
真面目に応える陽。
それをきいて洋子はこらえきれずに笑った。
陽は急に恥ずかしくなってきた。
笑われたからではない。自分で言ったことに恥ずかしくなったのだ。
ごまかすように二つ目のりんごを口に入れた。
ときどき洋子と視線を合わせようとするが、五秒とたたずにそらしてしまう。
「そっか」洋子がつぶやく。「志水君は志水君だからわたしはすきなんだよ、うん」
洋子は笑った。
陽は困った。顔が風呂あがりのようにほてっていくのがわかった。
さっき恥ずかしいことを言ってたくせに、人に言われる方が恥ずかしい。
そのあと、二人して、残りのりんごを分け合って食べた。
食べ終わってから、お大事に、と言い残して陽は帰っていった。
二学期最後の日。
終業式が終わり、成績表をわたされると生徒は冬休みになる。
騒がしい廊下。にぎやかな教室内。
火のついたような雰囲気。
ホームルームをすませた陽と洋子が廊下に出ると、涼と和樹が待っていた。
部活の締めをするために来るようにしておいたことを陽は思い出す。
「あれ? 岡本君は?」
陽が二人に訊ねるが、そろって首を横に振る。
廊下にいてもしょうがない。
四人は、秋人の教室をのぞいてみることにした。
だがしかし、彼の姿はなかった。
「帰っちゃったのかな?」涼が呟く。
「先生の頼まれごとしてるとか」和樹がいう。
「それより、学校に来てるの?」洋子は首をかしげた。
陽は、教室に残っていた四組の子に聞いてみた。
岡本君なら休んでるよ、意外な返事。
みんなが陽に集まる。休みだと伝えると、涼は不安げな顔をする。
冬休み、星詠組としての活動はないが曇っていない限り星をみること、そのときまわりの街灯がどのように取りつけられ、どう照らしているのか、またどんな街灯なのかも記録すること、みられたら初日の出とりゅう座流星群をみることを確認した。
「さーて、冬休みったら冬休み。みんなでカラオケでも行ってパーッと騒ご」
「洋子先輩、せっかくですけど……わたしは、ちょっと」
涼は、手を合わせて小さく頭を下げると、廊下を駆けていった。
「良いお年を……。じゃ、三人で」
「甘粕さん、すいません。これから家族で親戚の家に行かないといけないんです」
和樹は本当にすまなそうに、陽と洋子に頭を下げ、小走りに去っていった。
廊下に残された、陽と洋子。
とにかく、下駄箱に向かって歩き出した。
「みんな冷たいんだから。せっかく学校が終わって冬休み、クリスマスも近いのにパーッと騒ぎたくないのかな」
「甘粕さんって、少し性格変わったね」
陽はなんとなく思ったことを呟いた。
「そう?」洋子は首をかしげた。「そういえば親戚の綾ちゃんから、よく『洋子ちゃんは冬になると犬になるね』っていわれるけど……どういうことかな?」
それはきっとパブロフの犬みたいに、冬になるとはしゃぐという行為が習慣になってるって、ことじゃないかな?
陽はそう思いながらも口には出さず、甘粕さんは冬がすきなんだねと言った。
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