第二章、狭間の住人
五、暁と乙女
見たこともない物騒な顔で眼前の巨狼を睨む迦楼羅に、マリアは戦闘中であることも忘れて、しぱしぱと瞬きを繰り返した。
「迦楼羅?」
マリアの声が聞こえていないのか、普段の様子はかけらもない様子で迦楼羅は炎の温度を上げていく。
見渡せば、周りの植物がカラカラに乾き、地面は砂漠のようになっていた。
迦楼羅がこんなに怒っているところをマリアが見るのは初めてである。
どうしたものか、と大剣を握りながら冷汗を浮かべたマリアに助け舟を出したのは、意外なことに迦楼羅本人であった。
『アイツは俺が殺る。マリアには周りの雑魚を頼みたい』
静かに響き渡った声に、マリアは首を縦に動かすだけで精一杯だ。
いくら炎の加護を受けているからとはいえ、流石にここまでの熱気は体験したことがない。
全身から噴き出す汗をどうにか拭いながら、マリアは言われた通りに影の狼へ向かって攻撃を開始した。
獣が活発になる夜だというのに、彼らの動きは鈍かった。
斬っては捨て、斬っては捨てを幾度となく繰り返す。
その間にも、迦楼羅の炎は熱量を増すばかりだ。
草木が燃え、辺りは火の海と化している。
息も苦しくなってきた頃、幻狼が先に動いた。
『小賢しいわ!!』
突っ込んできた幻狼を迦楼羅が迎え撃つ。
青い炎が幻狼の身体を飲み込んだ。
銀色の毛が、青い炎に反射して爛々と不気味な光を放った。
影の狼を蹴り飛ばしながら、マリアはその光景に目を奪われた。
「迦楼羅……」
あっけなく灰になった幻狼を静かに眺める迦楼羅に、マリアはゆっくりと近付いた。
『我らが女神の元へと帰れ』
ぼそり、と呟いた迦楼羅の声が聞こえたのか、銀色の灰となった狼が天に昇っていく。
「戻ろう。イザベルたちが心配だ」
『ええ。ありがとう、マリア』
何も言わず傍らに寄り添った聖女に、女神の眷属は眦を和らげた。
静かに歩き始めたマリアと迦楼羅の後ろでは、立ち上る銀色の灰がゆらゆらと炎に燻っていた。
「……聖女・マリアーッ!!」
仲間たちの元へ辿り着かん、としたその時。
迦楼羅の炎で鎧が溶けたコーラル帝国騎士シュナイダーが行く手を阻んだ。
先程、助けたはずの騎士が何故こちらに剣を向けるのか、とマリアが疑問に思うより先にその背後で揺れる影を認める。
「迦楼羅」
『分かっている』
「頼む」
『ええ』
大剣を握る手に、力が籠る。
赤い炎を纏った剣を見て、シュナイダーの眉間に深い皺が刻まれた。
「じっとしていろ。今、お前の後ろに獣が居る」
「何?」
「動くな。少しでも動けば――喰われるぞ」
マリアの言葉をシュナイダーは本気にしていないようだった。
じりじりと背後へ迫っている獣に気が付いていないのか、マリアにだけ注がれる憎しみの込もった視線に、聖女は溜め息を吐き出す。
「塵と消えろ」
迷いなく上から下へ一閃された剣に、シュナイダーは身動き一つ取れなかった。
騎士となって十年余り、これほどまで美しい太刀筋を見たのは初めてだった。
獣だけを狙った大剣はシュナイダーの肩をぎりぎり掠めて、獣を消し炭へと変えた。
「……さっさと生き残りを連れて戻れ」
「!」
「撤収だ! 教会へ帰るぞ!!」
迦楼羅の炎で殆ど形を成していない森を歩きながら、マリアは叫んだ。
そこかしこから勝ちどきの声が上がる。
ふふ、と嬉しそうに笑った少女の横顔がシュナイダーの目に強く焼き付いた。
コーラル帝国騎士及び民間人含む死者八十名余り。
その中には本来生き残っているはずのシュナイダーの名も刻まれていた。
理由は聖女マリアの正当性を唱えたからである。
親友の裏切りに、レオンハルトは激高した。
決死の思いで獣と戦い、生き残った友と生還の喜びを分かち合おうとすればこれである。
「何故、そのように血迷ったことを言った!」
「彼らは我々を助けてくれたのだ! 我々が敵意を向けていることを知っているはずなのに。紅蓮の騎士団は我らと、そして民を守るために戦ってくれたのだ」
被害は甚大であったが、王都を責められる前に止めることが出来たのは彼らのおかげだ、とシュナイダーは親友であり上司でもあるレオンハルトに訴えかける。
「忘れたのか! 奴らがこの国に何をしたのかを!!」
けれども、レオンハルトは彼の言葉に聞く耳を持たなかった。
それどころか、生き残りの英雄として敬われて当然の彼を亡き者としたのである。
シュナイダーはその日のうちに、地下牢へと幽閉されることになった。
幼い我が子と妻を窮地に立たせてしまったことに、シュナイダーは血生臭い牢屋で頭を抱えることしか出来なかった。
「シュナイダー副団長が死亡した? 何を馬鹿なことを……」
「それが、本当のようです。コーラルが発表した死亡者リストに名前が載せられていました」
イザベルが顔色を悪くして持ってきたのは、コーラル帝国の動きを探る密偵として潜入している同胞から送られてきた新聞だった。
そこには先日の獣との戦いで死亡した騎士と民間人の名前がずらりと並べられている。
「死者八十名余り。その中には我らが誉れ高い帝国騎士団、副騎士団長シュナイダー・ボーフォート卿も含まれている。戦地は忌まわしきエレウッド国との国境の森であり、彼らは侵略してきたエレウッドの手先、紅蓮の騎士団と激しい戦闘に陥ったとみられる――くくっ。こりゃまた、随分荒っぽい口説き文句だなぁ」
「笑い事ではありません! 王国評議会は第一次警戒態勢を発令しました。すぐに大聖女と聖女を召喚せよ、と声が上がっているそうなのです!」
落ち着いた様子のマリアとは対照的に肩で息をしながら捲し立てたイザベルを、アッシュは遠巻きに眺めていた。
マリアの妙な落ち着きぶりに焦燥感が募る。
「マリア様」
「んー?」
アッシュの声に、マリアが緋色の髪を揺らして彼の方を振り返った。
その表情は酷く穏やかで、一見するとこれから起こりうることの重大さに何の関心も持っていないように見える。
「……何をお考えなのです?」
マリアの目が、初めて揺れた。
「別に、何も? まあ、お前が考えているような物騒なことは考えていないから安心しろよ」
「……」
アッシュはそれ以上、言葉を並べることはしなかった。
マリアの瞳に宿る炎が青白く瞬いていた。
それだけで、彼女が覚悟を決めていることが分かったのである。
「聖女・マリア。大聖女が呼んでいる」
マリアの影から現れたフィンに、マリアは「おう」と応えると部屋を出て行ってしまった。
聖女の華奢な後姿を見ていたイザベルが心配そうな表情でアッシュを振り返る。
「大丈夫でしょうか……」
「心配しなくても、マリアなら大丈夫ですよ。それに議会へ行くなら大聖女も一緒ですし」
「それはそうですけど……。私が言いたいのは、マリア様自身の、」
「分かっています。けれど、あの子はそれを口にはしない。我々は出来る範囲のことをするしかないのです」
アッシュの言葉に、イザベルは弱々しく睫毛を震わせた。
聖子という立場である彼女は評議会と教会の橋渡し役を担っている。
民を守りたいという気持ちと、マリアの身を案じる気持ちが綯い交ぜになって、やるせないのであろうことが手に取るように分かった。
「マリア」
窓の外へ視線を移すと、彼女の髪と同じ暁色の夕日が夜空を赤く燃やしていた。
「もう一度聞く。本当に我が方から戦闘を持ちかけたのではないのだな?」
「はい。獣と戦闘になっていた彼らを救おうと、我らは戦地に赴いたまで。大聖女と国王陛下の名に誓って、彼らに敵意は向けておりません」
「それは誠か?」
「はい」
評議会の円卓に召喚されたマリアとユミルは、ぐるりと囲まれた机の中央に跪いていた。
議長である国王と、その配下十余名。
マリアの言葉にジッと耳を傾けている。
「では、これは一体どういうことだ」
顔を上げた先、一番高い椅子に座る国王の手に握られていたのは、一枚の紙だった。
国王付きの侍従がそれを持ってマリアの元にやって来る。
差し出された書状にはこう綴られていた。
『我らが副騎士団長、シュナイダー・ボーフォートは紅蓮の騎士団を率いる魔女に殺された。エレウッド国に対し、魔女の引き渡しを要求する。尚、要求に応じられない場合は武力行使を執行する』
マリアは笑いが込み上げてくるのを必死に堪えた。
隣に跪いていたユミルはその書状を見て、身体を固くしている。
「恐れながら、国王陛下。ここに居ります聖女はこのようなことは決して致しませぬ。そのことは陛下御自身がよくお分かりであると思うのですが……」
「そのようなことは分かっておる。だが、帝国は聞く耳を持たないであろう。マリアを差し出さなければ、戦争を行うと言っているのだぞ」
「ですが……!!」
ユミルの顔から血の気が引いた。
国王は偉大な王であったが、混血児に良い感情を抱いていない。
それはかつての惨劇をよく知っているからこその感情であるとユミルは知っていた。
所詮、彼らにとって自分たちは獣と同じ「恐怖」を抱く対象であることに変わりはないのだ。
「俺の身は潔白です。なれば、それを証明するために、彼らの召喚に応じます」
それまで静かに二人の言葉を聞いていたマリアが、低いアルトの声でそう呟いた。
「マリア!!」
「大丈夫だ。大聖女。帝国の方も、俺を殺そうとはすまい。それこそ紅蓮の騎士団が黙っていないと分かっているはずだ。彼らの狙いは別にある。恐らく『獣』についてのことだろう」
マリアの赤い眼がジッとユミルを見つめた。
その顔は、かつて戦禍に飛び込んでいったナギの顔によく似ていた。
『大丈夫だ、ユミル。必ず帰ってくる。それまで兄弟たちのことは頼んだぞ』
にかっと歯を見せて笑った姉のような存在と、眼前の少女が重なった。
「……陛下」
ユミルがそっと国王に同意を求めれば、彼はそっと瞼を下ろす。
例え畏怖していても、娘のように可愛がってきた彼女を敵国に送ることを決断するのは胸が痛むのだろう。
結局その日、王が答えを出すことは無かった。
評議会から帰る道すがら、馬車の中でユミルとマリアは一言も言葉を交わさなかった。
自己を犠牲にして民を、友を守ろうとするその姿勢はかつてのナギと同じだ。
「大聖女」
もうすぐ教会に着く、というところでマリアが重い唇をゆっくりと開いた。
「なあに、マリア?」
「今までありがとう」
ふわり、と笑った少女の顔は薄紫から濃紺へと変わった空の色の所為でよく見えない。
否、自分の眦が涙で濡れている所為だと気付いたのは、マリアの匂いに包まれてからだった。
「親不孝者で、ごめんな」
そんなことはない。
そんなことはないのよ、マリア。
そう返事を返してあげたいのに、口から零れるのは嗚咽ばかりで。
とんとん、とあやすように叩かれた背に、これではどちらが子供なのか分からなくなってしまった。
そんな二人をアッシュとイザベルが出迎える。
ユミルはそのままイザベルに手を引かれて自室へと向かってしまった。
ユミルの様子から、大体の見当は付いたのだろう。
アッシュの表情は険しかった。
「……無茶はしないと言っていなかったか?」
「ああ。だから、無茶はしていないだろ」
「マリア!」
彼の横を通り過ぎようとして、力強い腕にそれを阻まれる。
「……ああする他ないだろう。それとも、お前は他に道があるというのか」
「何故、お前一人で抱えようとする」
「……」
「お前はナギ様とは違う」
アッシュの言葉に、マリアが弾かれたように顔を上げた。
「そんなこと、分かっている」
押し殺された声に、アッシュは眉根を寄せる。
「ナギ様の望みは、お前が一番よく分かっているだろう」
「だから、分かっていると言っているだろ!!」
ナギの望み、それは人間界の住人が平和に暮らすこと。
ユミルに託されたその願いは、今や聖アリス教会、そして紅蓮の騎士団の掲げる旗印となっていた。
「それならば尚のこと、お前を行かせるわけにはいかない」
アッシュの手がマリアの腕を掴んだ。
離さないと言わんばかりに強く握られたそれに、マリアの顔が苦痛に歪む。
「離せ」
「断る」
「アッシュ!」
睨みを利かせても、アッシュは力を弱める気配はない。
心臓が痛かった。
握られているところから熱が伝播して、身体を支配する。
「お前を失いたくないんだ。分かってくれ、マリア」
「な、にを」
近付いてくる彼の気配に、マリアは思わず後退った。
鼻先が触れ合う。
「お前がその気なら、俺にも考えがある」
アッシュが何をしようとしているのか、マリアには最初分からなかった。
だが、次いで下りてきた唇に、彼がしようとしていることを理解して、顔から血の気が失せる。
「止めろ!!!」
寸でのところでアッシュの顎に掌底を打ち込みことなきを得るが、蹲った彼にマリアは更に膝蹴りを入れた。
「お前!! それが意味することを分かってやったのか!!」
マリアの緋色の眼が、怒りでいつもより赤く燃えていた。
「こうでもしないと、お前は行ってしまうだろう!」
アッシュが低い声で叫ぶ。
けれど、マリアは微動だにしなかった。
それを聞いて更に怒りが増したようで、緋色の髪がまるで炎のように唸っている。
「お前の考えはよく分かった。それなら、尚のことオレは帝国へ行く」
「マリア!」
「オレからこの力を奪うことが、この世界にどんな影響を及ぼすのか分からないお前じゃないだろ!!」
金切り声を上げて叫ぶマリアに、アッシュは唇を噛み締めた。
「……お前を犠牲にして、この世界を生きろというのなら俺は喜んで死を受け入れる」
「……ッ」
「だから、頼むよ。行かないでくれ」
戻ってこられる保障なんてどこにもないのだ、とアッシュは拳を強く握りしめる。
懇願するように跪いたまま、アッシュはマリアの手首をもう一度掴んだ。
「行くな」
それは、祈りと呼ぶにはあまりにも稚拙で、子供が駄々を捏ねるような言い方にマリアは視線を逸らした。
これ以上アッシュを見ていると、決意が鈍ってしまう。
ここに居てはいけないとマリアはアッシュの手首を引き剥がそうとした。
だが、予想以上に強く握られている手首は簡単に剥がすことが出来ない。
「手、を離せ」
掠れて音を成さない声に、アッシュはふるふると首を横に振った。
「アッシュ」
仕方なく、しゃがみ込もうとしたマリアの手をアッシュが勢い良く引っ張った。
転びそうになったマリアを受け止めたアッシュが、今度は逃がすまいと後頭部に手を回す。
「許せ」
そう言ってアッシュは、マリアの薄い唇を乱暴に塞いだ。
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