四、白銀に見える

 紆余曲折の末、食事を終えたマリアだったが、その顔は先程とは比べ物にならないほど固く強張っていた。

 ベッドに眠るユミルの顔色が優れないことが原因である。

「あの睡眠薬も効かないとなると、打つ手がないな」

「ええ。それにあの薬は副作用も強く、心臓に負担がかかります」

「極力飲ませないようにしてくれ。それから、明日の公務は全て取りやめさせろ。孤児院の方で暫く安静にさせる」

「分かりました」

 ユミル付きの修道女にそう告げると、マリアはそっと寝台に腰を下ろした。

 額にびっしりと冷汗を浮かべたユミルを見るのはこれが初めてではない。

 こればかりは何度見ても到底慣れそうにはなかった。

「フィン」

「……ここに」

「幻影(おまえ)の部隊は暫く大聖女と行動を共にしてくれ」

「承知しました」

「頼んだぞ」

 マリアの目には鋭い光が宿っていた。

 帝国と教会の間に確執があることは知っている。

 けれど、ユミルは何を言われようと決して次元の獣について彼らに語ることはなかった。

 そんなことをすれば、悪戯に混乱を招いて被害を大きくしてしまうだけだと彼女は知っていたからだ。

 それなのに、帝国の人間はいつまでも過去に囚われて、今のユミルたちを見ようともしない。

「くそっ!!」

 不甲斐ない自分がどうしようもなく、腹立たしかった。

 

 コーラル帝国の騎士が教会を訪れてから数日が過ぎたが、獣が現れる予兆はなかった。

 それどころかナギからの連絡もなく、聖アリス教会の面々は久方ぶりに訪れた休息を満喫している。

 ただ一人、マリアだけがその浮かれた雰囲気の中で沈鬱な表情を浮かべ、食堂の端にあるテーブルを陣取っていた。

「マリア様? どうしました?」

 常であれば、休息が出来ると知るや否や、一も二もなく睡眠を取る彼女が、朝早くからテーブルで微動だにしない様子にアッシュは恐る恐る声を掛けた。

「……おかしいとは思わないのか?」

「え?」

「今まで三日と空けずに襲ってきていた獣が一匹も来ていないんだぞ。ナギ様からの連絡も途絶えている。これが偶然だとは思えない」

 焔を彷彿とさせる真っ赤な眼がアッシュを真っ直ぐに射抜いた。

「それなのに、お前たちと来たら呑気に街へ買い出しに行くわ、朝から酒は飲むわ……。こういうときにこそ臨戦態勢を取れといつも言っているだろうが」

 次元の獣に対するマリアの嗅覚は異常なまでに鋭い。

 彼女に諭されて、アッシュも漸く危機感を抱いた。

「しかも、先日はたった一日――いや半日も経たずに襲ってきた。間違いなくこちらに来る頻度が増えている。加えて、奴らが今度は数で攻めてくるとなれば厄介なことになるぞ」

 これまでの獣は身体も小さく一体ずつしか侵入を確認できていない。

 先日の大型個体が出現するまでに、徐々に身体が大きくなっているとすれば、マリアの予測は的を得ていた。

「街に出た連中を即刻呼び戻せ。今日、明日にでも来るぞ」

「はっ!!」

 マリアは疲れた表情を隠そうともせず重い溜め息を吐き出すと、漸く腰を上げた。

 彼女にしては珍しく食事の一つも頼まず、食堂を後にする。

 その後姿に奇妙な焦燥感を抱きながら、アッシュは街へ繰り出した騎士を呼び戻すべく厩へ急いだ。

「……っ」

 自室へ入った途端に襲ってきた痛みに、マリアはドアに背を預けて蹲った。

 原因の分からない痛みが身体を蝕むようになってから今日で二日目。

 マリアは谷間のないなだらかな胸の膨らみに手を置いて、ゆっくりと呼吸を整えた。

 息を吸い込む度に、心臓が軋むように痛みを訴える。

『マリア』

 三日ぶりに聞くナギの声は酷く掠れていた。

 それに返事を返すことも出来ずに、ただ意識だけを預ければ、ナギがもう一度名前を呼んだ。

『マリア』

 その音色は、ゆっくりとマリアの痛みを拭っていった。

 途端に楽になった呼吸にほっと息を吐き出して、今度こそ「はい」とナギに応える。

『すまない。眠っていたのか?』

「いいえ。少し、考え事をしていました。……何かあったのですか?」

『残念ながら、俺がお前に連絡を取る理由は一つしかない』

「それも、そうですね」

 苦笑を零したマリアに、ナギが申し訳なさそうに息を詰まらせたのが分かった。

「誤解しないでください。オレは、ナギ様に謝られたいわけじゃないのです。オレたちは貴女が救ってくれたこの世界を守りたい。だから、貴女に感謝こそすれど、怒りや憎しみなどこれっぽっちも抱いていません」

『……ああ。ありがとう』

 ナギは嗚咽交じりにそう零すと、次いで常にも増して低い声で言った。

『今回は数が多くてな。何体そっちに行ったのか分からないんだ。おまけに一匹厄介なのが混じっていた。気を付けてくれ』

「厄介、というと?」

『人の形に化ける奴が居たんだ。それも、対峙した人間の能力を真似ることが出来る。その所為で、門を一つ奪われた』

――門を奪われた。

 それが意味することに、マリアは唇を固く結んだ。

 ナギが守護する境界には無数の門がある。

 かつては魔界と人間界を繋いでいたが、魔界側に通じる門は魔王ヴォルグの魔力によって封じられたとナギは言っていた。

 通じない門を奪うはずもなく、奪われたのは必然的に人間界側へ渡る門ということになる。

「どの門です?」

『……』

「ナギ様」

『……コーラル帝国に通じる門だ。かつて、最果ての塔が建設されていた付近の』

 それだけ聞けば、もう十分だった。

「奴らがそちらを離れてどれくらい経ったんですか?!」

『一時間は経過している。時差を考えれば、今日の夜から明日の朝に掛けてそちらに渡るはずだ』

「承知しました!!」

 マリアは直ぐに着ていたローブを取り払った。

 下着姿になると、クローゼットに押し込んでいた鎖帷子や防具を順に着込んでいった。

 最後にピカピカに磨き上げられた白い鎧を身に纏うと、緋色に燃える髪を丁寧に結い上げていく。

 マリアは決して戦支度に人の手を借りない。

 鎖帷子に始まり、剣帯に至るまで全て自分の手で準備をする。

 以前、アッシュに準備を手伝うと言われたことがあったが、マリアはそれを丁重に断った。

 仲間を信用していないわけではない。

 戦場に立ったとき、もし仲間が手伝ってくれた部分に不備があれば、自分一人の犠牲ですまないことをマリアは知っていた。

 マリアが死ねば、獣を倒せる者が居なくなる。

 それはこの世界から生命が消えることを意味していた。

 だからこそ、マリアは誰かの所為にしないために、己で戦支度をする。

 武具は勿論、馬に至るまで、決して人任せにしないのにはそういう理由があった。

 マリアが背負っているのは、この世界全てなのだ。

 その小さな肩には、計り知れないほど大きなものが乗っかっている。

 そのことを知っているのは、マリアに炎を貸し与える迦楼羅だけだった。

『今日も完璧ね』

「そうか? どこにも解れや不具合が無いか、もう一度見てくれ」

『良いわよ。全く、マリアは心配性なんだから』

 迦楼羅はそう言って、マリアの身体にふわりと覆い被さった。

 温い風が纏わりつくような感覚に、一瞬だけまどろんでいると、迦楼羅がくすくすと笑うのが気配で伝わってくる。

「な、なんだよ?」

『アッシュ坊やの香りがするわ』

「はあ!?」

『マリア、私との制約を忘れていないでしょうね』

 揶揄うような口ぶりにマリアは、宙に浮かんだ彼女から慌てて目を逸らした。

「わ、忘れていない」

『なら、良いのよ。けれど、私の制約は絶対なの。少しでも破れば、貴女に炎を貸すことが出来なくなる。それだけは覚えておいて』

「……ああ、分かっている」

 アッシュの匂いなんて、どこでついたんだろう。

 マリアは熱くなった頬を手で扇ぎながら必死に考えた。

 数日前の、夕刻時が脳裏に鮮明に蘇る。

「いやいやいや! あれから何日経ったと思っているんだ。風呂にも入ったし、どうしたら匂いが残るんだよ!!」

 一人百面相を始めたマリアに、迦楼羅はそっと目を細めた。

 出来ることならタダで炎を貸し与えたい。

 けれども、それは叶わないのだ。

 精霊である迦楼羅は本来、人と関わってはならない。

 それを女神の権限で特別に許されているのだから、マリアには何が何でも二つの制約を守ってもらわなければいけなかった。

「マリア様。全員の招集が完了いたしました」

「……そうか。直ぐに行く」

 控えめなノックと共に告げられたイザベルの声に、マリアは短くそう告げると、背中に迦楼羅が宿る大剣を背負った。

 ずっしりと重いそれに、背筋をピンと伸ばす。

「さてと、化け物退治と行きますか」

 先程まで一人百面相を繰り返して少女とはとても思えない、凛々しい面立ちの騎士が扉を潜った。


 コーラル帝国へ向かうには馬でも半日を有した。

 休憩を挟みながら、百余名の騎士を連れての移動では尚更時間が掛かる。

 そこでマリアは部隊を半数に分けて出発することにした。

 もとより、フィンの部隊はユミルに付き従っている。彼に指揮権を預けて、五十名は足並みを揃えた紅蓮の騎士団は南下を開始した。

「それにしても、マリア様の予兆は急だよなぁ」

「ああ。だけど、本当に次元の獣が帝国に現れるとしたら厄介だぜ。あちらさん、俺たちのことを毛嫌いしているからな」

 背後に控える騎士たちの話し声に、マリアは唇を尖らせた。

 問題はそこである。

 マリアとて、国同士の諍いは避けたい。

 ただ獣を退けたいだけなのだが、コーラル帝国は紅蓮の騎士団が帝国を倒すために創られた独立遊軍だと思っているのだ。こちらが何を言ったところで聞く耳を持とうとはしないだろう。

「……どうしたもんかなぁ」

「何がです?」

「コーラルの奴らを、だよ。このまま向かったとして、獣が現れるのが国境付近ならまだ良い。けれど、コーラルの中だったらどうだ?」

 マリアの言わんとしていることを、アッシュは正しく理解した。

 そして、表情を曇らせた彼は手綱を握りながら「んー……」と唸り声を上げる。

「間違いなく領内侵犯を問われて全員連行、なんてことも考えられますね」

「恐ろしいことを言うな。そんなことになれば、我が王が黙っていない」

「ええ。それに大聖女も剣を取ることになりかねません。それだけはどうしても避けなければ」

「……物騒なお話の最中に申し訳ないのですが、」

 そう言って馬を寄せてきたイザベルに、二人は苦笑を零した。

「何だ? 何かあったのか?」

「先に向かわせた早馬から鳩が届きまして……。獣の出現を確認した模様です」

「何!?」

 マリアとアッシュの怒号に、後ろを走る騎士たちへ緊張が走った。

「それも多数出現とのことで。急いでも日暮れには間に合うかどうか……」

「構わん。ここからは休憩も取らずに走らせる。早馬には獣の監視を続けさせろ!」

「はっ!!」

 マリアの読みが、ナギの予測が外れたのはこれが初めてであった。

 予想よりも遥かに早い獣の出現に動揺したのはマリアだけではない。

 長らく彼女と共に獣を退治してきたアッシュとイザベルの二人も、常に増して表情を硬くしていた。

「半日と待たずに来やがった。一体どうなっているんだ!」

「分かりません!! ナギ様は何と仰っていたのです!」

「ナギ様は今日の夜から明日の朝までに来ると言っていた! 連絡があって直ぐに教会を出たんだぞ!? ここに来るまでの間、二時間もかかっていないはずだ!!」

「とにかく急ぎましょう! コーラル帝国が異変に気付く前に、処分してしまわなければ!!」

「ああ!」

 マリアは馬を蹴った。

 この馬はマリアが十歳の時から育ててきた馬で、兄弟同然に暮らしてきた。

 主人の言いたいことを素直に受け止めると、風を切るような速さで走り始める。

「良い子だ!! はっ!!」

 逞しい首筋を叩いて褒めてやると、馬が嬉しそうに嘶く。

 草原を蹴る馬たちの蹄が、雷のように木霊した。


 空を覆う黒い影に、アフタヌーンティーを楽しんでいたレオンハルトは首を傾げた。

 今朝は良い天気だったので、寮の洗濯を下女に頼んでしまったのだ。

 これは諦めるしかないな、と洗い立てのシーツで寝たかった欲を沈めて、残りの紅茶を一息に煽る。

「レオ!!」

 ノックもなしに飛び込んできたのは、レオンハルトの副官にして幼馴染のシュナイダーだ。

「どうした? お前がそんなに焦っているところを見るのは、奥方が産気づいたとき以来だな」

 くすくすと冗談交じりに言えば、シュナイダーの顔はますます強張った。

「何があった?」

「……北の、エレウッドの国境付近で巡回をしていた兵士が次々に負傷して運ばれてきた」

「何だと!?」

 エレウッドの奴らがついに攻めてきたのか、と言わんばかりに血相を変えたレオンハルトにシュナイダーは弱々しく首を振った。

「アレは人の仕業ではない。二十人の精鋭が装備を粉々にされ、運ばれてきたんだぞ。中には手や足を損傷した者もいる。意識のはっきりした者に話を聞いたところ、五メートル以上はある巨大な生物に襲われたと言っている」

「巨大な生物、だと?」

「ああ」

 レオンハルトは、先日エレウッド国の聖アリス教会を訪ねたことを思い出した。

 ――粉々になった鎧。

 鍛冶職の見物に伺った先で、見るも無残な鎧をいくつか目にした。

 特に損傷が酷かったのは、マリアと呼ばれる少女が纏っていたもので、赤い血に染まった鎧と砕けた手甲が痛々しかったのをはっきりと覚えている。

「……奴らが戦っているのは、一体何だと、いうのだ」

 独り言のように呟いた声に、シュナイダーは眉根を寄せるばかりだ。

「すぐに支度をしろ。この俺が直々にそのバケモノとやらを成敗してくれる」

「分かった!」

「それから、白いマントを用意しろ。きっと役に立つはずだ!」

 こくり、と頷きを返して部屋を飛び出したシュナイダーの後姿に、レオンハルトは歯軋りをするのであった。


「……まずいな」

「ええ、まずいですね」

 結論から述べると、獣が出現したのは森を抜けた先、国境を越えたコーラル帝国の領内であった。

「何たって、そっちに出るんだよ。もう少しこっち側に出てくれたら、大義名分を掲げずとも殺せたっていうのに!!」

「落ち着いてください、マリア。今、イザベルが国境の門番に交渉しに行っているのですから。ここで騒げば、不審に思われてしまいます!」

「分かっている!! クソ!! じれったいな!!」

 マリアの表情が険しさを増す。

 それを見たアッシュも強張った顔で、イザベルが入っていった建物を見つめていた。

「出てきたぞ!! イザベル、こっちだ!!」

 茂みに隠れていたマリアたちの方へ、イザベルが戻ってくるも、その表情は乏しくない。

「駄目だったのか?」

「はい。既に都市への移動を確認しているそうなのですが、通せないの一点張りで……」

「やはりな……。こうなれば、仕方ない。日が暮れるのを待って、強行突破するぞ!」

 夜になれば獣の動きも活発になってしまうが、この際とやかく言っている場合ではない。

遠くの方で騒がしさを増していく森の気配を感じながら、マリアたち紅蓮の騎士団は馬に鞭を打つのだった。


――それから数時間後。

 先に獣と対峙したのは、レオンハルト率いるコーラル帝国騎士団であった。

 初めて見える得体の知れない巨大な化け物に騎士が怯んだのは言うまでもない。

当然、初手は獣が繰り出すことになった。

 戦闘に聳え立つ山のように背の高い人型の獣が、腕を一閃。

 たったそれだけのことで、先遣隊が全滅した。

「う、うわあああ!!」

 人型の獣だけなら、まだ何とかなった。

 だが、その足元には文字通り『獣』と呼ぶにふさわしい影の大群が潜んでいたのである。

 化け物との戦闘経験など持たない彼らには逃げの一手しか選択肢はなかった。

「……まずい! もうぶつかっています!」

「やはりか! あの唐変木め! 普段は人間を相手にしているやつが、おいそれと戦って良いものではないと見て分からなかったのかよ!!」

 マリアたちが到着した頃には、戦場は地獄絵図と化していた。

 少し見渡しただけでも、息をしている者を探す方が難しいと判断できるほどにひどい有り様だったのだ。

「…………生存者を最優先し、獣との戦闘はなるべく控えろ」

「マリア様」

「『黒炎』を使う」

 マリアの一言に、アッシュは目を剥いた。

「いけません!! それを使っては、また御身体に支障が……!」

「オレのことはどうでも良い。敵国とは言え、多くの人が奴らの犠牲になったのだ。黙って見過ごすことなど、到底できん」

「ですが!!」

「くどいぞ、卿(サー)。オレがやると言っているのだ。貴様は黙ってオレの命令に従え」

 有無を言わさぬ口調に、アッシュは押し黙ることしか出来なかった。

 無言で背負っていた大剣を抜いた眼前の少女に、膝を折って懇願する。

「……無礼を承知でお頼み申し上げます。どうか『黒炎』だけは、使わないでください。貴女があんな姿になるところを私はもう二度と見たくないのです」

「しつこいと、言っているだろう」

「お願いです、マリア。あれだけは使わないでください」

「では、この惨状を何とする? 他に何か策があるとでもいうのか?」

 鋭い切っ先を喉元に押し当てられて、アッシュはぐっと歯を食いしばった。

 ここで折れてしまえば、この細い身体が倒れるところをもう一度見ることになってしまう。それだけは、避けたかった。

 『黒炎』は、マリアが体内に蓄積した魔力を一斉に炎へと変換する危険な魔法であった。

 迦楼羅から炎の加護を受けているとはいえ、マリア自身にもダメージは残る。

 二、三日寝ていれば治ると本人は言う――実際その通りではある――のだが、全身に酷い火傷で覆われた彼女の姿を、アッシュは見ることが出来なかった。

 このまま灰になって消えてしまうのではないか。

 彼女が『黒炎』を使う度に、そんなどうしようもない焦燥感に襲われるのだ。

 義兄心、義妹知らずとはまさにこのことである。

「……頼む、マリア。お願いだ」

「…………オレがやると言ったのだ。お前には何の非もないだろう」

「そうじゃない。そうじゃないんだよ」

 刻一刻と猶予が迫ってくるのに、アッシュは頑なに首を縦に振ろうとはしない。

 マリアはいい加減うんざりとした様子で、彼のことを睨んだ。

「マーブル卿。大勢の人間を助けるためには多少の犠牲はつきものだ。周りを見ろ。彼らは自国の民を助けるために、無残に食い散らかされた。悲劇の死を遂げた骸の願いを聞き届けるのが『聖女』の務めだとは思わないか?」

 髪と同じ緋色の眼がゆらゆらと燃えている。

 その熱に侵されるように、アッシュもまたじっとマリアのことを見つめた。

「オレはこの世界を聖女ナギから託された。だから、退くことは許されん。この身一つを差し出すだけでアレを退けられるのなら、オレは喜んでこの身を差し出す。だから、そこを退け」

 一切の迷いがない瞳に射抜かれて、アッシュはもう言葉が出なかった。

 代わりに唇を衝いて出たのは、少しだけ引き攣った溜め息である。

「……御心のままに」

「第三部隊から第五部隊までの権限をお前に託す。第一、第二部隊はオレに続け!!」

 うおおお、と雄叫びを上げて突っ込んで行った華奢な後姿を、アッシュはただ黙って見送ることしか出来なかった。

「アッシュ様」

「――分かっている」

 彼女の心が揺らぐことはない。

 齢十五の少女が世界を背負って戦っている。

 ならば、自分に出来ることは少しでも彼女の負担を減らすことのみ。

「生存者を発見次第、離脱を開始する。『黒炎』が発動される前に、この場から撤退せよ!!」

 苦い表情でそう命令を下した上官に、騎士たちも苦笑いで応えるしかなかった。


 第二部隊の隊長はイザベルが務めている。

 彼女の部隊は『ドワーフ』と呼ばれる妖精族の小柄な男性たちで構成されていた。

 イザベル自身が他ならぬドワーフと人間の混血であるのだが、どういう訳か外見要素の遺伝は見受けられなかったが、並外れた怪力はしっかりと受け継いでいた。

「お嬢! 俺たちは先に影の方を始末してきやすぜ!」

「ええ! お願いします!」

 先陣を切ったのは、イザベルの父の弟、グリフォンだ。

 身の丈ほどありそうな巨大な斧を振り回して突進していった叔父の姿に、イザベルは苦笑を零した。

「相変わらず、グリフォンは手が早いなぁ」

 マリアがくすくすと笑うのに、イザベルも釣られて笑い声を上げる。

「そうですね。叔父様は本当に戦いがお好きですから」

「ホント、モノ作りが好きなドワーフにしては珍しい部類だよ、お前らは」

「あら、私も入っているんですか?」

「第二部隊全員に言っているんだよ」

 カラカラと先程までの不機嫌さは形を潜めたマリアは、ナギに言われたことを思い出していた。

『対峙した人間の能力を真似ることが出来る奴が居る』

 こちらの姿に化けることが出来て、尚且つその能力を真似する獣。

 今まで戦ってきたどの獣よりも厄介だと本能が告げている。

 眉間に濃い皺を刻んでいたマリアを現実に引き戻したのは、眼前で白いマントを翻した男が上げた怒声であった。

「ええい!! この!! 我が領土から出ていけ!!」

 コーラル帝国騎士団、副団長のシュナイダーだ。

「げ」

 心中で呟いたつもりがうっかり口に出してしまっていたらしく、隣を掛けていたイザベルが困ったような笑みでマリアを見つめていた。

「どうしましょう? 助けに入りますか?」

「……放っておけ、と言いたいところだが、三対一では分が悪そうだな。加勢しよう」

「はっ!」

 馬の進路を強引に変えた所為で、不機嫌な嘶きが響く。

 その音に反応した獣が、マリアとイザベルの方へ振り返った。

 次いで、音に例えることが出来ないような雄叫びを上げて、飛び掛かってくる。

マリアとイザベルの白い鎧は、獣の返り血で汚れていた。

 同胞の血の臭いに反応して、飛び掛かって来たのか、と獣の首を焼き斬りながらマリアは眉を顰めた。

 嫌な予感が、胸中を占める。

 紅蓮の騎士が身に着けている白銀の鎧は、そのほとんどが返り血に染まっていた。

 何か、良くないことが起こりそうな気がして、マリアは唇を噛み締めた。

 常と違うことがあるとするならば、それは。

「……しまった」

 今が夜で、ここは雪が積もる自国ではないということ。

「すぐにここを離れろ!!」

 奇しくもそれは、マリアの怒声と共に姿を見せる。

 眩いばかりの銀色に覆われた一匹の巨大な狼が、マリアとイザベル、そして紅蓮の騎士団の背後にのっそりとした足取りで迫っていた。

「識別名、『幻狼(フェンリル)』。アイツが再び現れるとは……」

「あれは、あの日の……」

 虚ろな眼でその狼を映したイザベルの身体が震えを帯びる。

 それはマリアが初めて剣を握った日に現れた個体と瓜二つの容姿をしていた。

 影の獣を従える、銀色の王。

 その姿に、苦い記憶が脳裏を掠めていく。

「アッシュには悪いが、やはり『黒炎』を使うしかないな」

「マリアさま」

「お前たちはその男を連れて、この場を離れろ。アレは俺が仕留める」

 マリアが大剣を握る手に力を込めた。

 彼女の髪と同じ緋色の炎が、大剣を覆う。

 聖女の傍らでは女神の眷属が怒りと嫌悪を炎に変えて、敵を捉えていた。

『おのれ、よくもその姿で!!』

「迦楼羅?」

『オレの弟を愚弄するな!!』

 迦楼羅の炎が、赤から青へ変わる。

 猛々しく燃える青い炎が軌跡となって、空気を焦がす。

 銀色の獣が真っ直ぐにそれを見つめていた。

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