三、異国の騎士

「マリア様は?」

 先に大浴場に着いていた聖子・フィンにそう問えば、彼はちら、と視線を浴場の入り口の方に向けた。

「今、イザベルが背中を流しに行ったところです。一人だとすぐに出てきますからね」

「そうですか。助かります」

 マリアは風呂があまり好きではない。

 身体を綺麗にすることは好きなのだが、熱い湯船に長時間浸かるのが苦手だった。

「……まだか?」

「まだです。髪を洗い終えるまで我慢なさってください」

 イザベルが呆れたように首を振って、マリアの髪に付着した汚れを優しく洗い流していく。

 髪を洗われるのは好きだ。

 幼い頃、ユミルに洗ってもらったのを思い出しながら、マリアは固くなった口元を少しだけ緩めた。

「気持ちいい」

「それはようございました。はい、終わりましたよ。もう出ても大丈夫です。あ、でも外にフィンが居ますから、服はきちんと着てくださいね」

「おう。髪、ありがとな。お前もゆっくり身体清めろよ」

 わしゃわしゃ、と無造作にイザベルの髪を撫でまわして、マリアは脱衣所の扉を開けた。

 そこにはマリアとイザベルの供を務める女性たちが新しい服を用意して待機していた。

「鎧は?」

「汚れが酷かったので、鍛冶職の方に回しました」

「そうか」

 白い鎧はこういうとき不便である。

 マリアの場合、特にそうだ。

 特攻隊長よろしく獣に突っ込んでいく所為で、いつも鍛冶の親方に嫌な顔をされてしまう。

「また小言を喰らうのは嫌だなぁ」

 そう言って苦笑したマリアに、女性騎士たちも小さく笑った。

「ここの方たちがマリア様にお礼をしたいと本部で待っていらっしゃるそうなので、そうお気を落とさずに」

「ああ」

「それから、ユミル様からこれが届きました」

 渡された手紙の内容を見て、マリアの顔が強張った。

「直ぐに戻る。お前たちも手早く身を清めろ」

「はっ」

 殺気に近い冷たい空気を纏ったマリアに敬礼して、女性騎士たちもイザベルの居る浴場に入っていく。

「アッシュ!」

 既に彼が追い付いているであろうことを見越して、マリアは服を身に着けることも早々に建物を飛び出した。

 湯気の立つ乱れた髪、上気した赤い頬。

 入浴後の所為でやや潤んだ目をした可憐な少女が、自分の名前を呼ぶ。

 ぞくり、とした何かが背中を這う感触にアッシュはふるふると頭を振った。

「マリア、またそんな恰好をして!!」

「片付けは後日で構わん。急いで本部に戻る」

「――何かあったのですか?」

「帝国の使節団が来ているらしい。大聖女が一人と分かれば、奴ら何をするか分からんぞ」

 マリアの言葉に、アッシュは彼女の恰好に対する非難を飲み込んだ。

 すっと冷たい光を眼に宿すと脇に控えるフィンに視線を移す。

「全員、引き上げさせてください。戻れる者から先に帰還します」

「分かりました!」

 彼も心得たように頷くと、自分の率いてきた部隊の方へ走っていった。

 その後姿を見送り、アッシュは溜め息を吐きながらマリアに視線を戻す。

「急いでいたのは分かりますが、妙齢のご婦人がそんな恰好で飛び出してくるものではありませんよ」

「あ?」

「ご自身の服装をよくご覧なさい」

 目も当てられない。

 アッシュがそっと視線を外すのを合図に、マリアは自身の恰好を見下ろした。

 開け放たれたままのシャツの隙間から上気した肌が覗き、中途半端に結んだ髪からは雫が伝っている。

 極めつけに、緩く締めたベルトの所為で下衣が今にもずり落ちんばかりの有様であった。

「……!」

「髪は私が結んで差し上げますから、貴女はベルトを締めてください」

「あ、ああ」

 わたわたとぎこちない手付きでベルトを締めるマリアの背後に回って、乱暴に結ばれた髪紐を解いた。

 はらり、と花が風に揺られるように広がった髪を、手櫛で無心に整えていく。

 緋色の髪が一本の薔薇に収まる頃に、漸くベルトも整えられたらしい。

 ふう、と一息吐いたマリアの後頭部で、アッシュも同じように溜め息を吐き出した。

「はい。出来ました」

「おお、助かった」

「全く。いつも言っているでしょう? 貴女はタダでさえ特別な方なのですから気を付けてくださいと」

「……分かっている。分かってはいるのだが、どうにも昔の癖が抜けないんだ。許せよ」

 両手を上げて降参の意を示したマリアに、アッシュが何か思いついたのか、人の悪い笑みを浮かべてみせた。

「――そうだな。お前は昔から、一人で風呂に入るのが苦手だった」

 子供の頃を彷彿とさせる口調にマリアがムッと唇を尖らせる。

「お前だって意地の悪いところは、昔からちっとも変っていない。――アッシュ兄さんのそういうところが嫌いよ」

 ふん、と小さな爪痕を残し、肩を怒らせて歩いて行ったマリアの華奢な後姿に、アッシュは苦笑を零した。

「無理をしてナギ様の口調を真似なくても、お前はお前のままで十分俺たちの助けになっているよ」

――我らが聖女。

 どうか早く、そのことに気が付いてくれ。

 誰に捧げるでもなく呟かれたアッシュの小さな声は、烏の鳴き声に紛れて消えてしまった。

「ただいま戻りました」

「あら、おかえりなさい。マリア」

 優しい表情でマリアを出迎えたユミルであったが、その額には微かに汗が浮かんでいた。

 彼女の横に立つ赤い鎧を纏った騎士たちが威圧感を隠そうともせず、マリアを出迎える。

「おや、これは珍しい顔だ。お久しぶりです、聖女殿」

「お久しぶりです、レオンハルト団長。本日はどういった御用向きですかな?」

「近くまで寄ったものですから、ご挨拶に、と」

 礼儀正しく頭を下げたのは、二十代後半の青年だった。

 作り物のような笑みを浮かべる青年に、マリアもまた着せ替え人形のように形ばかりの美しい笑顔を彼へ向けた。

「それはそれは、ご丁寧にありがとうございます。ですが、大聖女ユミルはこの後、会議を控えております故、これにて失礼させて頂きたく」

「ああ、そうでしたか……。それは失礼致しました。それでは、我々もそろそろ暇させて頂きます」

「申し訳ありません。また後日、機会がありましたらお食事でも」

「ええ、是非とも」

 ぴりり、とした冷たい空気を纏いながら青年は騎士たちを引き連れて帰っていった。

 その後姿が完全に見えなくなるのと同時に、ユミルの身体から力が抜け、その場に蹲ってしまう。

「大聖女!」

「大丈夫よ。少し疲れただけだから。でも、今日はもう休むわね」

「ああ。そうした方が良い。おい、誰か大聖女を部屋までお連れしろ」

 マリアの呼び声に応じるように、講堂の奥から慌てた様子で修道女たちがユミルの下に駆け寄ってきた。

「……偵察隊の準備は?」

 遅れてやって来たアッシュにマリアが問う。

「抜かりありません」

 彼は心得たように頷いた。

「明日の朝に戻るように伝えておけ」

 赤い眼にゆらり、と炎が宿る。

 怒りの熱を孕んだそれに、アッシュは小さく肩を竦めると「分かりました」と零して偵察隊へ出発の命令を出すべく講堂を後にした。


 南を統べるコーラル帝国は北のエレウッド国が崇拝する聖アリス教会のことを目の敵にしていた。

 かつて、ユミルがコーラル帝国を訪れて魔族と人間の共生を説いた際も、この国は彼女のことを否定した。

 皆が皆、瞼を落とし、耳を塞ぎ、口を閉じてユミルの存在を受け入れようとしなかったのである。

 それも無理はなかった。

 元々、聖アリス教会が居を構えていたのは、このコーラル帝国だったのである。

 先の戦いで魔王ヴォルグと聖人ジグが争った場所は、コーラル帝国の外れだったとはいえ、その被害は甚大だった。

 魔王の魔力の余波が帝国の建物と言う建物を悉く壊し、遂には王を守る城をも崩してしまったのだ。

 魔王を招いたのが聖アリス教会の仕業であると帝国の人々が知ったのは、当代の王が城に押しつぶされて亡くなったその翌日のことだった。

「……私はあの日のことをきっと一生忘れないだろう」

 レオンハルトは焚火に向かって、小さな声で呟いた。

 上官が思いつめた顔で炎を見つめる姿に、部下の一人が同意を示すようにゆっくりと瞼を閉じる。

「私も覚えております。今や大聖女となったあの女が、忌々しい三つ目を晒して我らが領地を汚したことを」

 帝国の住人は、自分たちの王を殺した聖アリス教会のことを憎んでいた。

 その上、表向きは害悪として殺されていたはずの「混血児」が、聖騎士の大半を担っていたと知らされては、ますます心を閉ざすというものだ。

 結果、両国の間では長年、臨戦態勢が続いていた。

 一触即発の二国を辛うじて抑えているのが、近隣諸国――自分たちに被害が及ぶのを防ぐためである――だ。

「今回も収穫はなし、か。あの女たちが戦っているバケモノの正体はいつになったら、分かるのだ」

「はっ。それも巧妙に後始末をしているようで、町も草原も綺麗に片付けられていました」

 ぶつぶつと悪態をつく男たちの様子をフィンはそっと斜め後方の木の上から窺っていた。

 幻影(ファントム)と人間の混血児の彼は、隠密行動が得意なのである。

 木陰に同化して、彼らが国境を越えていくのを見届けると、音もなく教会の方へと踵を返すのだった。


「やはりな。奴ら、まだ次元の獣のことを諦めていなかったらしい」

「そうですね。これまでは国内でしか出現しておりませんが、国外に出現した際の対策も考えねばなりません」

「ああ。ところで、大聖女の具合はどうだ? 発作は治まったか?」

 ゆらり、と影から人の形へと姿を戻したフィンにマリアが問えば、彼は少しだけ眉根を寄せて首を横に振った。

「睡眠薬を飲まれたそうなのですが、魘されているようで……」

「またか。今後帝国の奴らが来たらオレの所に通せ。大聖女の前に奴らの姿を晒すことは避けろ」

「承知いたしました」

 マリアとアッシュに一礼すると、フィンはまた影の中に沈んで部屋を後にした。

「お前も下がっていいぞ、マーブル卿。一昨日から戦闘続きで疲れているだろう?」

「いえ、平気です」

「……アッシュ」

 マリアは二人きりのときだけ、アッシュを名前で呼んだ。

 いつの頃からかは忘れてしまったけれど、彼女の中でアッシュは「兄」から「有能な副官」へと線引きがされている。

 それが少しだけ寂しいと思っていたのは向こうも同じで、こうして人目がないときにマリアはアッシュのことを名前で呼ぶようになった。

「オレのことを気にしているのなら構わず休め。お前と違って、暇なときに仮眠を摂っている」

「そう、ですか」

「ああ」

「では、お言葉に甘えて」

 アッシュはそう言うと何故かマリアの座るソファの方に移動した。

 何をするつもりなのだ、とマリアが眉を顰めるのとほぼ同時にアッシュの身体が大きく傾いだ。

「アッシュ!?」

 灰にも銀にも見える珍しい髪が、マリアの太腿にぼふんと可愛らしい音と共に着地する。

 突然のことに目を白黒させるマリアが見えている訳でもないのに、アッシュは喉を逸らして笑った。

「くくっ」

「おま! 誰か来たら、どうする――」

「仮眠を摂っていると言えばいい。少しだけ、こうさせてくれ」

 マリアが断らないと分かっていて、アッシュは瞼を閉じた。

 わなわなと唇を震わせながら、寝息を立て始めたアッシュをマリアは睨む。

 この男は昔からちっとも変っていない。

 マリアが嫌がることを平気でやってのけたかと思えば、その嫌そうな表情を見るのが好きなのだ、と人の悪い笑みを浮かべる。

 アッシュのそういうところが、マリアは苦手だった。

 胸の辺りがむず痒くなって、呼吸が上手く出来ないような錯覚に陥ってしまうからだ。

「どうしろってんだよ、バカ」

 両手で顔を覆いながら、マリアは泣きそうな声で小さく呟くのだった。


 夕餉の時刻になっても執務室から出てこないマリアとアッシュを不審に思って、イザベルはフィンを伴い、執務室へと赴いた。

「マリア様、お食事の用意が整いました」

 ノックを二回。それから、マリアが飛びつくであろう台詞を述べてみるも、部屋の中から返事はない。

「マリア様? 入りますよ?」

 イザベルは恐る恐る扉を開いた。

 朗らかな西日が部屋に降り注ぎ、室内はほんのりと温かい。

 執務机の方へと視線を映せば、そこにこの部屋の主は居なかった。

「……イザベル」

 フィンがどこか困ったように固い声でイザベルの名前を呼んだ。

 振り返ってみると、眉を八の字に変えた彼がただ一点を凝視している。

「ふ、ふふ。まあ、珍しい」

 ソファに背を預けて座ったまま眠るマリアと、そんな彼女の膝を枕に寝息を立てるアッシュの姿にイザベルは声を抑えて笑った。

「貴方は先に戻っていて。私はお二人を起こしてから行きます」

「ああ、分かった」

 きっと、こんな姿をイザベルやフィンに見られたと知ったら、マリアとアッシュは目に見えて狼狽えるだろう。

 二人より一人に見られた方が幾分か傷は浅い。

 イザベルはそう判断して、フィンには先に食堂へと戻ってもらった。

「聖女・マリア」

 イザベルの声に、マリアの睫毛がふるり、と震えた。

 髪と同じ緋色の睫毛がゆっくりと持ち上げられたかと思うと、ルビーのような真っ赤な眼がイザベルを映す。

「あ? 今、何時だ?」

「もうすっかり、夕餉の時間ですよ。もしかして、フィンが帰ってきてからずっとここに居たのですか?」

 そう言われてみれば、フィンが戻ってきてからずっとこの部屋に居たような気がする。

 午後からの予定もあったのに、どうしてここから動かなかったのだろうか、と視線を動かした先で銀色が光る。

「…………イザベル」

「はい」

「少し後ろを向いていろ。それから、このことは他言無用で頼む」

「分かりました」

 ふふ、と小さく笑い声を漏らした彼女に、マリアは頬が熱くなるのが分かった。

「おい!!」

「ん、」

「起きろ、この馬鹿!! 何が『少しだけ』だ!! もうすっかり夕方じゃねえか!!」

「えッ!?」

 夕方、という言葉に反応して、アッシュはがばりと勢い良く上半身を起こした。

 そして、目線の先にニヤニヤとした笑みを隠そうともせず自分とマリアを見つめるイザベルを見つけて、じんわりと頬を朱に染める。

「イ、イザベル」

「おはようございます、アッシュ様。マリア様の膝はよっぽど寝心地が良いのですね」

「……そうだな。今度貴女もしてもらうと良い。ぐっすり眠れるぞ」

「ええ。そう致します」

 口元を覆って肩を震わせる少女に、アッシュは今にも穴があったら入りたい気分に陥った。

 後ろから刺さる視線が痛い。

「馬鹿言うな。こんなこと、お前にしかしないぞ。オレは」

 ぽそり、と蚊の鳴くような声で呟かれたそれに、アッシュの顔は火でも噴き出すのではないかと思うほどに真っ赤になった。

「マ、マリア」

「……行くぞ、イザベル。腹が減った」

「今夜はチキンカレーですから、たくさんお食べになってくださいね」

「そうか! それは楽しみだな!」

 すっかり無邪気な子供に戻ってしまった聖女の後姿を見て、アッシュは再びソファに沈んだ。

 どんな顔でさっきの言葉を吐き出していたのだろう。

 視界に収めることが出来なかったのが、勿体ないような気がした。

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