第214話


 チャイムの音が鳴ると同時に、はいはーい、とエディが軽やかに玄関に向かう。


 そうして、程なくしてばたばたと戻ってきた。

 だが、その足音はエディ一人のものではない。二人分だ。

 誰だろうと疑問に思うまでもない。この足音は、カイリもすっかり聞き慣れてしまったものだ。――ついでに、ラッシーがいつの間にか音もなく消えていたので、確定である。実に残念だ。



「――カイリー!」



 ばーん、と叩き開ける様に扉が開いた。いつも思うが、蝶番ちょうつがいが吹っ飛ぶのではないかと冷や冷やする。

 入ってきたのは、カイリの親友である第一位団長のケントだった。息を切らして、物凄い形相でカイリを凝視してくる。


「カイリ……」

「ケント、いらっしゃい。……でも、少し静かにな」

「……カイリ! ……うん! カイリだ! ……カイリ――っ!!」

「うわっ!」


 カイリの顔を見て少し目を潤ませたかと思えば、突進しながら抱き付いてきた。直前で、フランツがカイリの皿とフォークをさっと回収する。

 右肩を避けてくれている辺り、ケントもカイリの状態は存知している様だ。心配をかけてしまったのだなと反省する。


「ケント。ごめん、心配かけて」

「本当だよ! でも! 良かった……本当に、良かった」


 ぎゅうっと、しみじみと感じ入る様にケントが抱き締めてくる。

 いつもの抱き着き方とは違う。少し不安そうな雰囲気を漂わせる彼に、なだめようと手を伸ばす。

 ケントはその手を甘んじて受け入れ、大人しくカイリに背中を叩かれていた。ふふっと、へにゃへにゃ笑いながら突っ伏す彼は、こうして見ると本当に子供に見える。団長という責務を抱えているのが嘘の様に幼い。


「はー。……カイリだ。ふふっ。こうしてまた触れられて嬉しいな」

「ああ。……ケント。あの時、助けに来てくれてありがとう。俺も、こうしてまた触れ合えて嬉しいよ。……本当に、……」


 囚われていた時は苦しくて、痛くて、恐くて、一秒一秒が長く感じられた。早く抜け出したくて、でも抜け出せなくて、地獄の様な拷問が続いて堪らなかった。

 けれど。



 もう駄目だ、とは決して思わなかった。



 絶対に帰ると決意し、フランツ達も助けに来てくれると信じていた。だからこそ絶望に叩き落されずに頑張れたのだ。

 実際、第十三位だけではなく、ケント親子も救出に乗り出してくれた。感謝してもしきれない。


 ――みんなのおかげで、またここにいられる。


 改めてしみじみと実感して、感慨にふけってしまった。腕の中にある温もりが優しいからという理由もあるかもしれない。

 感謝と共にケントを見下ろすと。



 何故か、彼はじーっと首元を強く凝視してきていた。



 あまりに強すぎて穴が開きそうなほどだ。強烈なまでの貫く視線に、カイリがぎくりと顔を強張らせる。


「け、ケント? どうしたんだ?」

「うん。大事なこと忘れてた」

「……大事なこと?」

「うん。絶対放置しちゃいけないこと。ちょっと首を見せてね。……あ、そこのエディ殿、濡れタオルくれません?」

「へ? は、はいっす」


 カイリの首元から目を離さないまま、ケントが左手でぞんざいに手招きする。困惑するエディからタオルを受け取りながら、彼は右手でカイリのパジャマのボタンを器用に少し外した。

 何するんだ、とカイリが抗議しようと口を開くと同時に。



 ごしごしごしごしごしごしごしごしっ! と、物凄い高速で猛烈に右側の首元を拭かれまくった。



「……いーっ⁉ い、いたっ⁉ いいいいいいいいたっ⁉」



 あまりに強すぎる摩擦で、擦られた場所が熱を持って悲鳴を上げる。皮膚が裂けそうなほどの激痛も襲ってきて、カイリは思わず絶叫した。


「いーっ! い、たっ! い、いいいいいいいたい! ケン、……いいいいいい!」

「はい、我慢して。もう少し拭くよー」

「はあっ⁉ おお、おおおおい、ケント! いいいいいたいいっ! いたっ! 痛いから……っ! やめろ、本当に! 痛い!」

「あー。本当はキスしたいんだけど。完全消毒のために」

「はあっ⁉ 何言ってるんだお前!」

「だって、許しもなくカイリに触れたんだもん、あいつ」

「はっ⁉ 触れた⁉」

「そう。あのくそじじい」

「く……?」

「あのクズじじい。……あいつ如きが、カイリに触れるとか。考えるだけでもおぞましい。殺しても殺しても……殺し足りないよ」

「――っ」


 拭く手を止めて呟いたケントの表情からは、表情という表情が抜け落ちていた。瞳からも光が削ぎ落ち、真っ暗な空洞が奥に広がっている。

 ぶわりと、彼の背後に殺意が真っ黒に燃え上がっているのを視認し、カイリはこくりと喉を鳴らした。

 ようやくタオルをどけてもらえたが、拭かれた箇所がひりひりと焼ける様に痛い。

 ケントの怒りで思い出す。そういえば、ここは教皇に口で吸われた場所だ。「喰っている」と言われた時は、震え上がるほどの恐怖を覚えた。

 ただ、すぐに助けられたし、拷問の方が印象が強すぎて忘れていたのだ。今も水の方が圧倒的に強烈なので、トラウマにはなっていない。

 しかし。


 ――消毒って、そういうことか。


 カイリを助けに駆けつけてくれた時、ケントは首元を凝視していた気がする。フランツも首元を見下ろし激怒していた。今思えば跡が付いていたのかもしれない。

 みんな、口には出さなくとも腹立たしく思ってくれたのだろう。果報者だと嬉しくなる。

 とはいえ、キス云々はまた別の話だ。タオルで拭かれたので無かったことにして頂きたい。


「あー、……ケントの気持ちは嬉しいけど。もうこれで、本当に跡形もなく消え去っただろ。正直、今の摩擦の方がトラウマになりそうだ」

「ぶー。キスは最高の消毒になるって父さんも母さんも言ってたのに」

「……それって、夫婦や恋人の場合じゃないか? って、そもそもお前、男だろ」

「じゃあ、相手が女性だったら大人しくキスを受け入れる?」

「は?」


 ――何言い出したんだこいつ。


 女性のキスなら良いとかそういう問題ではない。

 唖然あぜんとしている合間に、ケントはすっかりいつも通りの良い笑顔で、くるんと可愛らしく振り返った。


「リオーネ殿、どうです? 女性なら良いそうですよ」

「まあ。私の出番ですね♪」

「お、おい? リオーネ?」

「ああ、シュリア殿はまかり間違ってもノリだとしなさそうなので。お呼びじゃないですよ」

「……あなた。喧嘩売っていますの? しませんけれど」


 きらきらと無駄に輝かしい光を撒き散らしながら誘うケントに、リオーネは頬に手を当てて同じく良い笑顔を振りまき、シュリアは腕を組んで青筋を額に刻んでいる。

 そうして可憐に足音もなく寄って来るリオーネに、カイリは「え」と本格的に飛び上がった。


「い、いや! リオーネ、冗談だよな⁉」

「冗談じゃありませんよ? カイリ様にキスとか、光栄です♪」

「その『♪』喋り! 全然光栄とか思ってないだろ!」

「うふふ♪」


 ――うふふじゃない!


 物凄く愛らしく無邪気に首を傾げるリオーネに、カイリは本気で危機感を覚える。このままでは、別の意味で喰われそうだ。

 そうだ、こんな時こそエディ! と、カイリがなけなしの希望を抱いて彼を仰ぎ見たが。



「り、りおー、ね、さんが、き、き、き、ききききき、……すすすすすすす」

「ちょっ⁉ おい! エディ⁉ 何で魂抜けてるんだ!」



 何故かエディは、今日に限って役立たずと化していた。

 カイリの願いも空しく、魂が口からひょろんと抜けて、天井を向いて虚ろになっている。



「りおおおおねさん、……しんじいんと、ききききき、きいいいいいいいい」

「エディ⁉ おい、戻ってきてくれ! 良いか? 普通、ここはいつも通り『りおーねさんのきーす。ゆるすまーじ』とか言って怒るところだろ⁉ むしろ邪魔するところだろ⁉ 頼むから! 怒ってくれ! 主に俺のために!」

「り、りりりりり……りおーねさん、の、きいいいいいいいすううううううう……」

「え、エディいいいいいいいいい⁉」

「ああ、カイリ。遂に大人への階段を上ろうとしているのか……。お前も男だ。存分に大人の光景を拝むと良いぞ」

「はあっ⁉ フランツさん! そこは止めるべきです! 止めて下さい!」

く言う俺も、メリッサとの初めてのキスはな……」

「フランツさん⁉」

「あー、カイリ。いちゃつくのは良いけど、ほどほどになー? 何なら、お兄さんがちょっとだけ『初めてのキス』ってやつをレクチャーしてやろうか?」

「レクチャーって何ですか! そんなことより助けて!」

「あー、ムリムリ。いくらオレでも、人の恋路を邪魔したら、アーティファクトあたりに蹴られそうだしなー」



 ――どいつもこいつも止める気ゼロかよ!



 誰も彼も役に立たない反応を寄こし、カイリは本格的に慌てた。シュリアも溜息を吐くだけで椅子から動く気配がまるで無い。

 にじり寄って来るリオーネに、ケントも制止の素振りは全く見せなかった。それどころか、カイリが逃げようとすると、良い具合でケントが邪魔する様に塞いでくる。

 ふふ、と明らかに面白がっているリオーネを前に、カイリはひくっと口元を吊り上げ死に物狂いで思案する。

 どうしようか。このまま本気で口づけをしてくるとは思えないが、それでも万が一がある。

 ならば。



 ――こういう時はっ!



 恋愛経験ゼロのカイリが言っても説得力はゼロだが。



「……き、……ききききキスっていうのはな! す、すすすすすすっごく! すっごく! 真っ白で無垢で純愛の限りを尽くした! 神聖なものなんだぞ!」

「――――――――」



 ――『彼女』の言葉なら!



 脳裏に思い浮かべた彼女を信じ、カイリは思い切り声の限りに叫び続けた。



「と、ととととと特に! 初めてのキスっていうのは! おおおおおお乙女にとっては、人生を捧げるか捧げないかくらいに大事な人生の岐路きろなんだからな! そ、それこそ一生貴方と添い遂げますみたいなことを暗に誓うくらい大切な一歩で、そんな軽々しく『あいさつあいさつ♪』みたいなノリでするものじゃない!」

「――……」

「い、良いか! 初めてのキスっていうのはな! 二人っきりの部屋でも、風がささやかに吹き抜ける木漏れ日の場所でも、熱と心と情炎が高まりあう思い出の場所でも、とにかく何でもどこでも良いから! し、ししししシチュエーションっていう、ムード最高潮的な時間に、邪魔など塵一つ入らない場所でするのが肝心なんだ! そう! い、いつまでもいつまでも心の奥にあたたかな思い出として仕舞われる記念日になるものなんだから、それくらい時間を見計らって行うのが大事なんだ!」

「…………………………」

「ムードとシチュエーションが整ったらようやくチャンス! そ、そそそそそこで、す、すすすすすす好きな人同士が、お互いにふとした瞬間に意識して! どきどきどきどきしながら! 静かに見つめ合い! お互いに求める様に惹かれ合って! 吸い込まれる様にどちらからともなく触れ合って! そして遂に! ようやく触れ合えた先から! 柔らかく互いの熱を受け入れるものなんだああああああ!」

「………………………………………………」



 って、ミーナが言ってた。



 ぜえっ、はあっ、と荒く息を吐きながら、力の限りカイリは叫んだ。それはもう全身全霊を持って叫んだ。ぽかーん、と場が奇妙な困惑と共に静まり返る。

 前にミーナが、ロマンス小説だかを読んでいた後に、うっとりと空を見上げながら頬を染めて力説していたのが懐かしい。恋愛を経験したことのないカイリは、「そういうものなのか」と妙に感心したものだ。

 リックは「ほへー」と分かっていない顔で聞き流し、ラインは「あーはいはい。ミーナはそうだなー」と半ば呆れ気味に流していたが、正直何が正しいのかはよく分からない。

 だが、こんな冗談半分でするものではない、ということくらいはカイリにも十二分に理解出来る。


「えーと……カイリ。初めてのキスに、相当なロマンと憧れを抱いているんだ、ね?」

「……お、おおおお乙女の師匠のミーナが! そう教えてくれたんだ!」

「……お、乙女? 師匠? って、何?」

「ああ、カイリ様の奥様になる予定だったミーナ様ですね♪」


 ケントが目を点にする横で、リオーネが可愛らしく小首を傾げて両手を合わせる。そういえば、リオーネももうミーナのことは知っていたなと遠い目をした。

 奥さん、という単語に反応したのか、ケントが「へえ」と興味深げに口元を吊り上げる。意地の悪い笑みに、カイリはついっと視線を逸らした。


「オヨメサンになる予定だったんだ?」

「……そうだよ。七歳の女の子。村の子」

「……、そう」


 少し噛み締める様に、ケントが頷く。

 村という単語を出せば、もう亡き者だということは推測出来るだろう。ケントは肩をすくめて身を引いた。リオーネもいつの間にか離れている。


「あーあ。カイリには、ガードの固いオヨメサンが心の中に住んでいるんだね。こんなに従順に教えを守るくらいだから、キスはしばらく無理そう」

「……そうだな。ミーナのおかげで助かった」


 ケントが残念そうに呟くが、完全に顔は笑っている。趣味が悪い。

 ぷくっとカイリが膨れて外向そっぽを向くと、ケントはおかしそうに、けれどどこか感慨深げにささやいた。



「そっか。……じゃあ、カイリにとってそのミーナっていう人は、初めてカイリの心に住み着いた女の子だったんだね」

「え?」

「だって、身の危険を感じたら、真っ先に助けを求めるくらいなんだから」

「――」



 悪戯っぽく茶化すケントの言葉に、カイリは何故か胸の底が沈む様に重くなる。

 初めてカイリの心に住み着いた人。

 指摘されて、気付いた。確かに、カイリの中でミーナは心を大きく占める存在だ。

 当然、ミーナだけではなく、両親やライン達、村の人達も心の大切な部分を占めている。

 だが。



〝わ、わわわわわかったわ! カイリのよきつまになるために、わたし、がんばる!〟



 いつも全力で好意と共にカイリに突進してきて、一生懸命だった女の子。



 カイリのこの気持ちが恋かと言われると分からない。違うとも言えるし、そうだとも言えるかもしれない。

 だが、大きくなった彼女と共に育っていたならば、そんな日々もあったかもしれない。そう思うくらいには大切な存在だった。

 あるはずだった未来。

 けれど、もう無くしてしまった『もしも』の世界だ。


「んー……。そうだな」


 もう今は亡き、幼くも大人な女の子。



「確かに、ミーナは。人生の中で、一番最初に俺の心に住み着いた女性だったと思うよ」



 そんな彼女は、夢の中で再会した時に言ってきた。



「でも、彼女は俺に、良い人を見つけて幸せになってね、って最後に笑ってくれたよ」

「……」

「だから、……いつか、そういう……そう。自然とキスしたいって思える人が出来ると良いなって、願ってはいる」



 悲しくも強い彼女が願う様に。

 そして、カイリ自身が願っている様に。

 いつか、お互いに自然と触れ合い、笑い合える人と共に隣を一緒に歩けたなら。

 それは、とても幸せなことだろう。



「……だから! ケント! そういう軽はずみな冗談を言うんじゃない!」

「は、はい! すみません!」

「リオーネも! 反省!」

「はい♪ 大丈夫です。本気でしようとは思っていませんでしたよ?」

「そ、そうか。って、そういうことじゃない!」

「ふふっ。……でも本当は、シュリアちゃんが止めてくれるのを待っていたのですけれど」

「はあ……」



 ケントはびしっと直立不動になり、リオーネは楽しそうに口元に手を当てて笑う。

 しかし、シュリアは全く動いていなかったのに、何故彼女が止めるとリオーネは思ったのだろう。

 思いながらカイリが何気なく振り向くと。



 ばちっと、綺麗なシュリアのアメジストの瞳とかち合った。



 すぐにふいっと顔を逸らされてしまったが、カイリは、あれ、と微かな違和感に気付く。

 そういえば、彼女は先程までは椅子に座って梃子てこでも動こうとしなかったのに、いつの間にか立ち上がっている。心なしか、リオーネの近くに陣取っていた。

 本当に、リオーネの言う通り助けようとしてくれていたのだろうか。もう事件は終わってしまったから真意は分からない。

 けれど。



 ――そうだったら、良いのにな。



 ふと胸の内をかすめた己の願いに、カイリは首を傾げる。

 やはり、誰かに助けて欲しかったからだろうか。もし本当にシュリアが手を貸してくれようとしていたのなら、嬉しかったとカイリも思う。

 だから、きっとそれだけの話だろう。

 それなのに。



〝でも、……ちゃんと幸せになってね。良い女性ひと、見つけてね〟



 何故だろうか。

 あの時くれたミーナの言葉が、今は脳裡のうりに響いてなかなか消えてくれなかった。


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