第333話
歓楽街の人達に一番必要なのは、『人』に戻る訓練。
エディの発した一言に、カイリ達は何も言えなくなった。喉に言葉がつっかえた様に痛みを覚える。
「……エディ。それって」
「……。ボクは五歳で売られるまで、かなり貧乏でしたけど人として暮らしていました。だから、人間がどんな風に暮らしているか、大雑把にですが知っていたんですよね」
話し方が昔に戻っている。
エディは、歓楽街にいた頃と今では口調を変えたと話してくれた。その言葉遣いが表に出ているという事実が、彼の気持ちの強さを雄弁に物語ってくれる。
「でも、……歓楽街や貧民街で暮らしている人達の中には、あの地区しか知らない人達っていうのもかなりいるんです。ボクの様に売られて来た人、落ちぶれて流れ込んで来た人ならともかく……最初からあそこで生まれた者達は、『普通の生活』を知らない」
淡々と話すエディの声に激情は無い。
それなのに、何よりも荒れ狂う心が吹き付けてくる様な感覚に陥った。
「ロディも……かなり努力したと思います。おかげで、クリストファー殿が用意してくれたあの娼館で働けるくらいには色々知識を身に着けました。……でも、全員が全員そうじゃない。そして、……娼婦や男娼、人身売買など……そういった仕事以外に考えられない人間っていうのは確かに存在する」
それ以外の生活を知らない。絶望して光を
そんな人達は、クリスが用意してくれた商店街の住居には来なかったと話してくれた。エディは足抜け出来た数少ない一人なのだと。
改めて突き付けられると、重すぎる現実だ。確かに、体が完治してきたからと言ってすぐに仕事を与えられても困惑するばかりな気がする。
「生活っていうのは、楽しいもの。……新人の言う通り美味しいものを食べることをはじめとして、誰かと暴力の心配もなく話すこと、服をまともに着られること、安らかに眠ること。そういったことを実感できる様になって、初めて『これからどうしよう』って考えられる。そこでようやく『仕事』の取っ掛かりにありつける」
「……」
「ボクが見てきた同僚達は、それが出来るか出来ないかで、道が分かれた……んす。その生活を続けていくことが信じられない人達は、みんな歓楽街へ帰っていった。……ロディ達の娼館にいるのも、そういう人間の集まりっす」
気付いた様に、エディの口調が戻る。
その心境はどこから来るものなのか。カイリには想像すら付かない。
エディの言葉に、誰も何も返さなかった。返す言葉などありはしない。どれだけ経験を積んだ大人でも想像力が及ばず、実際に地獄にいた者達にしか理解できないことはある。
だからこそ、クリスも全てを救うことは出来なかった。彼らの奥底までは本当の意味では想像が及ばず、理解が不可能だったから。
エディの指摘に、カイリは頭が下がる思いだ。思い出すのだって辛かっただろうに。彼はカイリのために、そして今も歓楽街で生きる同僚達のために傷口を無理矢理開いて打ち明けてくれた。
「新人。……新人が思うよりもずっと、ずっと、……ずっと。あそこに生きる人達を救うのは、険しい道のりっす」
「……、うん」
「それでも、その道を選びますか。……きっと、長い期間、彼らには本当の意味では受け入れてもらえない。偽善だ、嘘吐き、もっと寄越せ、って。酷い罵倒を浴びせられる日々が待っています」
「……うん」
「最後まで理解してもらえない可能性だってあります。分かっていない、だから貴族は、……とか。……報われない未来かもしれません」
「うん」
「それでも、……、……それでも……っ。新人は、歓楽街に、貧民街に手を差し伸べますか」
エディの声が泣いている。見つめてくる表情も濡れている様に映った。
どうしようもない現実が依然として彼らの底にはたゆたっていて、希望を遠くに見ることも難しい。カイリの知らない絶望は、死ぬまで理解出来ないかもしれない。
それでも、カイリは決めた。
あの現実を知ったからこそ、全てを救えなくても、せめて直接手を差し延べられる人達は守りたい。
村を出てから、ずっと貫きたい信念。二度とカイリの様な悲しい思いをさせないという誓い。
その領域が広がった。ただ、それだけだ。
「……うん。やるよ」
「――」
「逃げることも、見て見ぬふりをすることもすごく簡単なことだけど。俺は、彼らと向き合いたい。……何より、俺が、一生後悔するからやるんだ」
「……、新人」
「かなり自己中心的な言い方になるけどさ。同情とか、そういうのじゃなくて。……俺が暮らしている近くに、底知れぬ闇が在る。人と思わない様な扱いをされる人達がいる。それが嫌なんだ。……自分が幸せに笑っている隣で、泣いている人がいるのが、嫌なんだ」
ひどく我がままな言い分だ。エディはもちろん、ロディ達も呆れて物が言えなくなるかもしれない。
それでも、これがカイリの本心だ。ここで暮らしている以上、同じ聖都で暮らす人達が常に泣いていることはふとした時に頭をかすめるだろう。それは、遠い将来他の地へ行くことになったとしても、ずっと心に残る。
そうして引っ掛かりが残ったまま遠くで笑って生きていても、それは幸せと呼べるだろうか。
大抵なら「仕方がない」と言って、済ませられるかもしれない。それが普通なのだと割り切れる人もいるかもしれない。
けれど。
〝こうげきはできなくても、そんな風に人のやくに立てる剣術だとおれは思うんだ〟
ラインが、かつて教えてくれた剣の様に。
力を振るって守るだけではなく、そんな生き方をしていきたい。
「さっきも言ったけど、突き放されるのは覚悟している。きっと、今の生き方の方が楽だ、邪魔するな、っていう人もいるとは想像しているよ。急に生活を変えるなんて、難しいよね」
「……っ」
「でも、……それでも俺は少しずつでも変えていきたい。そしていつか、心の底から笑える地区にしたい。みんなが胸を張って、これが自分なんだ、って。前を向いて生きていける。そういう世界にしたい」
「――」
「そう願ったから、……やるよ。かなり無謀なこと言っているのは承知している。全てのそういう人達を救えるわけじゃないのも分かっている。だからこそ、……せめて俺の目の届く範囲の人達には、手を伸ばしたい。例え偽善だと言われようと、俺がそうしたいからするんだ」
実際、クリスに話した時も相変わらず無謀なことを考えると笑われた。
それでも、決して否定はしなかった。ケントと一緒で、力を貸すと約束もしてくれた。
カイリは本当に恵まれている。それは、歓楽街に生きる人達にとっては、やはり目障りな点かもしれない。
だが、それが何だというのか。例え偽善と罵られようと、カイリはやりたいことを実行していく。誰にどんな目で見られようとも、カイリは顔を上げて歩いていきたい。
カイリが真っ直ぐ見つめ続けると、エディは微かに目を細めた。嫌がっているのかな、と不安になったが。
「……新人って、……ほんっとうに頑固で向こう見ずっすね」
笑われた。屈託なく。
けれど、どこか案じる色も混じっていて、本当に複雑そうだ。どちらかの感情に寄せるのが難しいのだと何となく感じ取る。
フランツ達も
だが、反対されることも想定していた。それでも諦めることは考えていない。
生半可な覚悟では、あの闇に立ち向かうことは不可能だ。故に、カイリは最後まで胸を張って前を向く。
「……カイリの美点だ。止めても無駄だろうな」
「はい」
「……、はあ。俺の息子はどこまでカッコ良いのだ。ああ、……歓楽街でさえなければ、万歳三唱で讃えるというのにっ」
「団長。諦めろ。あんたの息子はそういう人間だ」
「ああ、そうだな。そうだろうなっ。……くっ。俺に相談してきたのだ。最後まで相談に乗るのが、親の務め……っ」
くっと何度も呻き、テーブルに突っ伏し、ぐぬああああっと叫ぶのを繰り返すフランツ。何度も何度も同じ行動をするため、だんだんカイリは心配になってきた。もし本当に嫌なのならば断っても構わないのにと、申し訳なくなる。
それでも、フランツは真正面から受け取ってくれているのだ。だからこそこうして葛藤し、悩んでくれている。それがカイリにはとても嬉しい。
しばらくフランツは奇妙な悩みっぷりを披露した後、がばりと唐突に顔を上げた。びくっと、カイリだけではなく、エディも肩を跳ねさせる。
「――分かった。……ただし、条件がある」
はあっと長々と溜息を吐き、フランツが人差し指と中指を立てる。額を押さえているのは、苦悩の表れだ。
「一つは、当然資金だ。俺達のコネを使っても良い。まず領主になる前に、衛生面や衣食住など、ある程度保障できるほどの金を集めること」
「はい」
「二つ目は、人材の確保だ」
これが一番厄介だと、フランツの顔全体が物語っている。カイリも漠然とだが予感がした。
「仮住宅を建てるにも、本格的に家や店などを建てるにしても、人材が確保出来なければどうしようもない。食事などの物資の配送もそうだ。配送だけでなく、提供するというだけでも嫌な顔をされるだろう。……誰が好き好んで、治安の悪すぎる歓楽街に志願してくれるか、という話だな」
「……、はい」
「カイリが思う以上に、あそこは毛嫌いされている。当然だ。足を踏み入れればすぐ狙われる。子供が迷い込んで売り飛ばされたり、殺されたりというのも当たり前の世界だ。金を積まれても嫌だと断る者も多い。……特に、まだ環境が整っていない最初の内は護衛も必要だろうし、ここが一番難航するだろうな」
難しい顔で唸るフランツに、カイリは途方もない道のりを垣間見る。
確かに、一度足を踏み入れたカイリでさえ、もう二度と行きたくないと断言したくなる場所だった。一般人はおろか、騎士達だってげてものでも見る様な目つきをしてくるかもしれない。
だからと言って、他の国の人や事情も知らない者達を引き入れるのは論外だ。あくまであの歓楽街の噂や実態を知っている者を説得しなければならない。事情を知らない者が志願してくれるなら、よくよく教え込まなければならないだろう。
かなりの長期戦になる。少しずつ味方に引き入れていかなければならないという
「分かりました。……資金の方は、今のところ一人だけいます。……実は、クリスさんが力になって下さると約束して頂いていて」
「……。……予想はしていた。だが、……ほんっとうに何故俺が先ではない……っ!」
「す、すみませんっ。ケントに話したら、そのままずるずると……。……でも、貸して下さるだけです。それに、……歓楽街運営の計画書を見せて、それに了承出来たらという条件付きなんです。俺だけだと、経営の経験値がゼロだから穴だらけになりますし。だから、……フランツさん達にもたくさんお世話になると思います」
「是非そうしてくれ。クリス殿を唸らせる計画、是非とも立ててやろう」
ふんっと鼻息を鳴らして腕を組むフランツに、カイリは益々頭が上がらない。
今回の呪詛事件では、散々フランツに怒られた。カイリは第十三位なのに、フランツ達よりも先にケントやクリスに相談したり頼ってしまったことをカイリも反省している。
今回の話をしたのも結果的にケントやクリスが先となってしまったが、これからは中心となって具体的な相談を最初にするのはフランツ達第十三位と決めていた。
「色々足りないことが多いし、明後日の方向に話をしたりするかもしれないですけど、……お願いします。力を貸して下さい」
深々と頭を下げれば、四方八方から溜息がぶつけられた。呆れに呆れ、開いた口が塞がらないと溜息だけで語られている。
「……ま。あなたが突拍子もないことを言うのは、今更ですわ」
「そうだなー。計画を聞いたり、お前が成長していくのを見て、オレも直接一緒にやってやるかは決めてやるよ。あくまでオレはな」
「私も同じですね。カイリ様は変なところで頑固で突っ走る傾向がありますから♪ 厄介ごとが許容範囲内なら引き受けます♪」
「……ボクは、……」
エディは視線を
数秒ほどの時間が、カイリにはやけに長く感じられた。それだけ緊張しているのだと、いつの間にか握り締めていた拳を開いて初めて気付く。くっきりと、爪の跡が手の平に残っていた。
「……。……正直、手を出すのは止めておいた方が良いっていう気持ちはまだありますけど。でも、……」
「……」
「……でも、見てみたい」
顔を上げて、はっきりと、エディがカイリを見据える。
彼の茶色に染まった瞳はとても澄み切っていた。何となく色々なしがらみを吹っ切った様な、そんな清々しささえ風の様に感じ取る。
「新人が、どんな風にあの世界に斬り込んでいくのか。……本当に、変わるのか。……ボクの、仲間がいる場所だから」
「……エディ」
「ボクは実際にあそこにいた人間ですから、アドバイス出来ることも他の人より多いと思います。……だから、……」
言葉を切って、息を吸い。
そして、エディはほのかに笑う。控えめな笑い方は、どこか木漏れ日の様な静かな温かさに満ち溢れていた。
「新人。賭けてみても、良いですか」
「……っ」
「ボクも一緒に、過去を乗り越える……過去を未来へと変える、お手伝いをさせて下さい」
「――。……うんっ!」
気付けば、カイリは自然と身を乗り出していた。手を伸ばして、エディに差し出す。
その手をはにかみながら見つめ、エディがゆっくりと取ってくれる。
互いに、手が震えていた。
それでも、がっちりと握って離さない。
恐怖はある。まだ迷いも悩みも尽きない。
だが、それは歩みを止める言い訳になどなりはしないのだ。
もう、カイリが願ってしまったのだから。エディも前を見る決意をしてくれたのだから。
カイリはどれだけ困難な道でも、最後まで足掻いて貫いてみせる。
「……はー。エディも結構
「ふふん。兄さんよりも逞しくなったかもしれないっすよ!」
「ああ、それはありませんわ。あなた、レインに一度でも勝てたことがありまして?」
「……。……いつか、その内、勝つ……、……っす」
急に弱気になって目を逸らすエディに、カイリは眉尻を下げて笑う。エディはどこまでもエディだなと微笑ましくなった。
「よし。方針も決まったな。……カイリ。少しずつで良い。焦らずに、一歩ずつ進むぞ」
「はい!」
「あー。……そういやオレ、今日の休日は歓楽街行く予定なんだけどよ。カイリはどうする?」
「え、……」
唐突な誘いに、カイリは一瞬惑う。
だが、すぐに首を横に振った。やんわりと目を伏せる。
「俺は、……行きません」
「……」
「中途半端に目標を伝えるのは違いますし。……きちんと行動に移せる目星がついてきて、彼らの話を聞いて調整していける準備をして、ちゃんと胸を張って、彼らの前に立てるその日まで。俺は、ロディさん達には会わないことにします」
ロディは言っていた。
口だけではなく、この現実を変えてくれと。直接言葉にしたわけではないが、裏の叫びは全員が同じ願いを伝えてきた。
今のカイリでは、ただ無謀な夢を語っているだけの、ただの世間知らずのお坊ちゃんにしか映らないだろう。当然だ。まだまだ財力も地位も足りない。実績も知識も遠く及ばないのだ。
故に、今はまだ顔を合わせることは出来ない。
ちゃんと彼らに「一緒に変わろう」と言えるその日まで、カイリは己を磨き続けるだけだ。
「……ったくなー。お前はほんっと『ど』が付くほどの真面目だな」
「はい。それが取り柄なので」
「おーおー言う様になったなー。じゃ、オレ一人で……」
「ボクも行くっす」
エディが遮って挙手する。カイリ達だけではなく、レインも「お」と目を丸くした。
「行く気になったのかよ」
「はい。……ロディとも約束しましたし。時々、会いに行くって。それに、……いつまでもボクだけ逃げていたらカッコ悪いっすから」
遠くを見る様に、エディが目を細める。
きっと、そこにいるだろうかつての同僚に思いを馳せているのだろう。エディの瞳はとても柔らかくて優しかった。
「あ。……あの。俺は行かないですけど、……せめてサイ君にお土産、渡してもらっても良いですか?」
「ん? ああ、良いぜ。何だよ?」
「その、……商店街で本と物を買いたいんですけど」
「ほー? 分かった分かった。じゃ、……団長が付いて行きたそうにしてっから、途中まで一緒に行って、帰りは団長と帰れば良いんじゃね?」
「うむ! カイリ。親子でどこかを回ってみないか?」
「あ、はい! 良いですね。楽しみです」
フランツも一緒となると賑やかになりそうだ。
シュリアやリオーネの方を見ると、のんびりしたいと暗に視線が告げてきている。彼女達は宿舎でゆっくりと過ごす様だ。
明日は今後について会議があるとゼクトールから呼び出しを受けている。ならば、今日くらいは羽を伸ばしても罰は当たらないだろう。
「フランツさん。お昼も外で食べませんか? カツ茶漬けは三時のおやつにします」
「それは良いな。じゃあ、屋台街で食べるとするか」
「あー。ならオレらは、そこで手土産買って娼館で食べるかね」
「あ、良いっすね。……何にしようかなー」
「……本当、
「ふふ。それが私達らしいと思いますよ、シュリアちゃん」
カイリ達の昼食の計画に、シュリアが白い目を向け、リオーネが微笑ましく見守る。
彼らに話して良かった。これからのことを考えるとまだまだ問題は山積みだが、乗り越えられると信じられる。
一つずつ、着実に。
そして、今はこの生活を大切に。
いつもの日常が戻ってきたと実感しながら、カイリはしばらく彼らとの談笑を楽しんだ。
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