Banka25 俺の歌の新たなる試練

第354話


「わ、鳩が一生懸命食べていますね」

「うむ」

「ついばむ姿、可愛いなあ」

「うむ」

「おじいさんは、いつから鳩に餌やりをしているんですか?」

「……、うむ。もう、かれこれ、三十年くらいは続けているのである」

「そうなんですか。じゃあ、鳩達も世代を超えておじいさんの顔を覚えるはずですよね。すっごい懐いていますし」

「……、……うむ」


 くるっぽー、と鳴きながら、大半の鳩達がゼクトールの足の周りで戯れている。彼から離れようとしないあたり、相当懐いているのが分かった。微笑ましい図だと、カイリは頬を緩ませる。


 月も9月に代わり、ようやく日差しが和らぎ始めた頃。


 カイリは、広場でゼクトールと一緒にベンチに腰を掛け、鳩に餌やりをしていた。

 彼と会って言葉を交わすには、第十三位が必ず立ち会うという約束なので、本日はフランツが付き添ってくれている。隣のベンチに座り、腕を組んで、どーんと石像の様に微動だにしない。睨まれた途端に石化しそうな勢いで、ひたすらゼクトールを睨んでいた。



「……フランツさん。一緒に鳩に餌やり、しませんか?」

「……大丈夫だ。カイリの可愛らしい餌の撒き方を観察し、――和んでいるぞ」



 ――そんな、獅子も殺せそうな眼力で言われても。



 激しく突っ込みたかったが、カイリに対して睨みつけているわけではないので何も言えない。

 カイリは、以前ゼクトールに教皇の元へ連れていかれ、拷問された経験がある。

 例え教皇を倒すための措置で、拷問の方法も少しでも負担を減らす様に取り計らってくれていたとはいえ、それで傷が消えるわけではない。特にフランツ達第十三位の彼への感情は、底辺に在ると言っても過言では無かった。



 それにカイリ自身、まだ彼と二人になるのは恐い。



 それでも彼と交流を図ることを決めたのは、彼が祖父としてカイリを少なからず思ってくれていると知ったからだ。両親のことも、己が悪役になって逃がしてくれて感謝している。


 何より、カイリが彼のことを好きだった。


 だからこそ、もっと彼のことを知りたいし、仲良くなっていきたい。

 その間に、少しずつでも彼に対する恐怖が無くなっていけば良いと願う。

 こうして歩み寄ろうとしてくれる祖父を、もう一度信じてみたい。それが、カイリの願いだった。


「カイリよ。……喉は、乾かないか」

「え? あ、はい。少し」

「では、……飲むのである」

「え? ……わ」


 おもむろに紙コップを渡され、カイリは反射的に受け取ってしまった。

 その紙コップに、ゼクトールは更にどこから取り出したのか水筒のふたを開け、こぽこぽと綺麗な茶色の液体を注いでいく。

 冷たい爽やかな香りが微かに鼻先を掠めた。嗅ぎ慣れた匂いは、紅茶だと教えてくれる。


「これ、アイスティーですね」

「うむ。……何故か、長男が持たせてくれてな」

「長男……って、えっと、息子さんってことですか?」

「うむ。……、……お前にとっては、伯父に当たるな。アレックスと言うのだが」

「アレックスさん……」


 アレックスという名には聞き覚えがあった。確か、ロードゼルブ家の現当主で、母の兄にあたる。

 そして、一度だけ、カイリは彼の顔を見かけたことがあった。



〝うん。ロードゼルブ家の現当主だね。カイリのことを見に来たのかな?〟



 呪詛事件で、グレワンホテルの調査に行った時だ。

 あの時、彼はじっとカイリの方を凝視していた。話しかけてくることもなく、ただひたすらに、カイリを見つめて佇んでいたのだ。



 ――あの時、話しかけてみたかったな。



 だが、実際に話しかけて拒絶されると、流石にカイリも傷付く。母が出て行ってからは家もぎくしゃくしていると聞いているし、カイリのこともあまり良くは思われていないかもしれない。

 その上、跡継ぎの問題もある。ロードゼルブ家は男性が優先的に継ぐということで、ゼクトールの孫が女性しかいないのも問題だった。カイリはフランツの跡を継ぎたいと思っているが、彼らからしてみれば気が気では無い可能性もある。


「カイリ? どうしたのであるか」

「あ、いえ。あの、いただきます」


 思考に没頭してしまった様だ。ゼクトールが気難しい顔をしながら心配してくるので、カイリは慌てて笑顔で紙コップに口を付けた。

 こくんと、喉を通る冷たい感触が気持ち良い。紅茶の深みのある爽やかさも美味で、カイリの体を隅々まで浸していく。


「美味しいです!」

「うむ。良かったのである。長男は、紅茶を淹れるのが得意でな」

「そうなんですね。……フランツさんも、一緒にどうですか?」

「……。……いや、構わん。カイリ、飲むと良い」


 物凄い形相で拒否された。もはや般若も裸足で逃げる顔つきである。どこからどう見ても、恐い。

 気候も涼しくなってきているとはいえ、まだ九月に入ったばかりだ。太陽も高く昇っているこの時間帯、喉が乾かないはずが無い。

 カイリはゼクトールからもう一度紙コップに紅茶を注ぎ足してもらい、フランツの方へと歩み寄る。



「フランツさん。どうぞ」

「……」

「フランツさん」

「……」

「……、……フランツお父さん。美味しいですよ? 飲みませんか?」

「――。……っ、……分かった。カイリがそこまで可愛らしく言うのであれば」



 呼び方を変えてみると、あっさり陥落した。

 何故だ、とカイリが疑問に思っている間にも、フランツは一気に飲み干してしまう。相変わらず良い飲みっぷりだ。


「ああ、……美味いな」

「はい。美味しいですよね」

「……ところで、カイリ。もう一度、俺のことを『お父さん』と呼んでくれても良いのだぞ?」

「……、……い、意識すると、まだ……恥ずかしいです」

「……、……そうか」


 落胆しながらも苦笑するフランツに、カイリは申し訳なく思いながらも、まだ羞恥が勝るので我慢してもらうことにした。

 父と呼ぶのは気恥ずかしいが、悪い気分ではない。

 それでもまだまだ慣れない感覚で、素直に呼称し続けるのは時間がかかりそうだ。


「……。……カイリは、フランツ殿を、父と認め始めたのであるか」

「え? はい」


 ゼクトールの問いかけに、カイリは迷いなく頷く。まだ「お父さん」と呼ぶのは恥ずかしくても、もうとっくに父親と認識しているからだ。

 ゼクトールは一瞬遠い目をしてから、そうか、とだけ呟いた。腕を組んで目を閉じる姿は、何かに耐える様な空気をたたえている。フランツも刹那的にだが、彼を見る時の表情を和らげた。――すぐに険しい岩の様に戻ってしまったが。

 二人には二人なりの、何か通じるものがあるのだろうか。教会に来たばかりのカイリでは、まだまだ想像が及ばない範囲が多いな、と少しだけさみしくなる。



「……。……む」

「――」



 不意に、ゼクトールが短く唸った。フランツも視線を彼から別の方角に移す。

 何だろうとカイリが二人の視線を辿ってみるが、そこには何もない空間があるだけだ。強いて言えば、曲がり角が見えるくらいだろうか。

 しかし、確かに集中して見れば、気配が感じられる様な気がする。誰かがいる、ということだろう。瞬時に気付いた二人は、やはり歴戦の騎士だ。

 じーっと、二人で一定の方角を凝視していると、確実に気配が揺れた。今度はカイリでもすぐにはっきりと分かるほどである。

 そのまま、今度は三人で見つめ続けていると。



「……父上。恐いので、その顔は止めて下さい」



 観念したのか、弱り切った声で一人の人物が姿を現した。

 その姿に、カイリは「あ」と小さく声を上げる。

 姿を見せたのは、カイリにも見覚えがある人物だった。

 夜空の様な黒い髪に、青みがかった黒の双眸そうぼう。どことなく母に似ていると思ったその男性は、ホテルで見かけた人と同一人物だ。


「……アレックス。お前、そこでこそこそ何をしているのであるか」

「……」


 ゼクトールの厳しい一声に、しかしアレックスと呼ばれた青年は無言だ。いや、母より上だというのならば、父と同じくらいの年齢だから壮年と言っても良いのかもしれない。

 しかし、それにしても見た目が若すぎる。

 アレックスは確か聖歌騎士だと聞いていた。――フランツも四十近くには見えないし、クリスなど年齢不詳の若さだ。教会騎士は全員若作りなのかと、カイリは場違いな感想を抱いてしまう。


「アレックス。答えよ」

「……、……父上が、今日はうきうきとしたご様子でしたので。俺が渡した紅茶にもどんな反応をするか見たかったですし。……本日は非番で、好奇心が湧いたので後を追いました」


 不承不承とアレックスが答える。

 ゼクトールが渋面になったのがカイリにも分かった。いつもの厳つい顔に、更に厳しい色が刻まれる。

 だが、その緊迫した均衡は二秒で瓦解した。



「ふん。ゼクトール卿、息子殿の尾行に気付けないとは、耄碌もうろくしたのではないですかな」

「……息子に『お父さん』と呼ばれただけで鼻の下を伸ばす、騎士としては底辺の存在には負けんと自負しているのである」



 何故か、部外者であるフランツと火花を散らし始めたからだ。

 どうして今の話でこんな流れになるのか。カイリは目と口を棒にして現実逃避をする。


「貴方に言われたくないですよ、ゼクトール卿。カイリに『おじいさん』と呼ばれて舞い上がっていたのは、どこのどなたでしたっけね。おじいさーん卿」

「……お父さん殿は、本日も頭が沸いているようであるな。流石は息子を少し馬鹿にされただけで頭に血が上って見境が無くなる唐変木なのである」

「はあ? 貴方なんて、この前の会議の時、カイリを馬鹿にされてペンをばっきばきに何本折ったんですかっ。俺が気付いていないとでも? 気付いていなかったのは、カイリだけです! カイリは心優しい天使の子ですからね!」

「え? 俺だけ?」


 一体何の話だと思いつつ、カイリだけ気付いていなかった事項がある様だ。恐らく会議とは、先日のファルエラへの対策のことだろう。

 しかし、カイリだけまたも気付けなかった異変があったのか。すぐに成長出来るとは思っていないが、やはり焦りが募る。


「……お父さん殿は、少し息子のことを考えては如何か。カイリが落ち込んでいるのである」

「は? お、ぐ、か、カイリ! す、すまん! どうした! 俺は何か変なことを」

「あ、いえ。俺、早く色んなことが出来る様にならなきゃなって思っただけです」

「……カイリっ。何て偉いんだ。いつでもどこでも向上心を忘れず、努力を怠らないその姿勢っ。それでこそ俺の息子だ……っ」


 だばーっと涙を流しながら喜ぶフランツに、カイリはどう反応して良いか分からない。ただ事実を言っただけで、どうしてそこまで褒め称えられるのだろう。フランツこそ褒める天才な気がする。

 気恥ずかしくて頭を掻きながら視線を逸らすと、アレックスとばっちり目が合ってしまった。互いに目を逸らせずに、しばし見つめ合う形になってしまう。

 しかし、見れば見るほど母にそっくりだ。目元の優しそうなところなどは瓜二つである。


「……、君は」


 つらつらとカイリが感懐を抱いていると、アレックスの方から言葉を零してきた。



「……君は、……ティアナにそっくりだな」

「――」



 遠くを見る様に、アレックスがささやく。カイリを通して、全く別の者を見ているのが伝わってきた。

 確かにカイリは、母親似だ。父に外見で似ているのは瞳くらいで、男らしさとは程遠い。


「あ、の。……初めまして。俺は、カイリ・ラフィスエム・ヴェルリオーゼと言います」


 呆けた様に立ちつくしているアレックスに、カイリは立ち上がって頭を下げた。いつまでも挨拶をしないのは失礼に値する。

 すると、相手も我に返ったのか、さみしげに笑みを崩した。


「こんにちは。初めまして。俺は、アレックス・ロードゼルブ。ロードゼルブ家当主で、枢機卿補佐をやっています。……君の母親、ティアナの兄でもある」


 柔らかく挨拶をしてくれる彼の声は、母の声をそのまま低くしたような響きだった。兄弟なのだなと、ぶわっと何かが心の奥底から溢れ出る様な感覚に襲われる。


「まあ、でも、初めまして、では無いよね。前に一度、ホテルでお互い認識はしていたはずだから」

「……、やっぱり。俺のことを見ていたんですか?」

「うん。たまたま、ね。……君が、ケント殿やレミリア殿と一緒に何処かへ行くのを見かけて、……気付いたら、追いかけていたんです」


 ははっと、恥ずかしそうに頭を掻いてアレックスが俯き加減になる。仕草から明らかに罰の悪そうな雰囲気が漂ってきていて、カイリとしてもどう答えようか迷う。

 カイリは、彼らロードゼルブ家の中では微妙な立場だ。それに、いきなり妹の息子が現れても、どう接して良いか分からないだろう。

 それでも見かけて追いかけてきたのは、きっと無視は出来ない存在だからだ。

 ホテルの時も、今も。アレックスは、焦れるままにカイリを確かめに来たに違いない。

 それに――。


「……アレックス。会いたいのなら、堂々と会うべきなのである。それでも、次期枢機卿候補であるか」

「……っ、……すみません」


 ゼクトールの叱咤に、アレックスは苦しそうに謝罪する。頭を下げる時の表情は、どこか悲しそうに映った。

 アレックスにとって、ゼクトールは父で、大切な家族のはずだ。カイリの母が家出をした後からずっと気まずい関係だったのであれば、尚更カイリの存在は心を波立てる一石だっただろう。

 現に、叱責の後から二人の間には一切会話が無い。フランツが息苦しそうにしているが、成り行きを見守っているだけなのが良い証拠だ。

 その上。



「……、――」



 ゼクトールは、溜息を吐いて目を閉じてしまった。その様子に、アレックスも何かを言いかけた口を閉じてしまう。タイミングが悪すぎるとカイリは頭を抱えた。

 ゼクトールが不器用だということは、カイリも身をもって体験している。

 だが、アレックスの方も超絶に不器用な予感がした。現に、もう本当に彼らの間に会話が起こる気配が微塵も無い。



 ――家族が、こんなぎこちないままだなんて。



 きっと、母は望まない。

 この二人を見たら、絶対に何かしら口を挟むに決まっている。

 カイリは、彼らからすれば赤の他人だ。

 けれど。



〝まあ。愛の力を加減するなんてできないわー。ねえ、カーティス〟



 ――俺は、母さんの息子だから。



 母の家族がぎこちないままなのは、見ていて悲しい。


「……おじいさん」


 カイリは静かに語りかける。どう説明すれば刺激しないだろうと頭を捻ったが、結局そのまま伝えることにした。



「もう少し、会話をして下さい」

「……、……む?」



 カイリの一言に、ゼクトールが僅かに目を丸くした。アレックスも顔を上げて、驚いた様に目を瞠る。


「今のは、アレックス殿に非があったとしても。叱ったのだったら、その後きちんと会話をして下さい」

「む。……いや、しかし」

「しかし、じゃありません。おじいさん、母さんが出て行ってから、家族と上手くいっていないって言っていましたよね」

「むっ、ぐ。……う、うむ」

「家族とはぎくしゃくしているのに、外側にいるぽっと出の俺と仲良くしていたら、ますます『何であいつとは』と家族が思っても不思議じゃないと思います。しかも、突然現れた得体の知れない孫ですよ? いや、孫かどうかも分からないどこぞの馬の骨と思われてもおかしくない奴なんですよ?」

「う、馬の骨ではないのであるっ」

「おじいさんには証明出来ましたけど、家族にはまだ証明していませんよね?」


 じとっとカイリが睨むと、ゼクトールがうぐぐっと詰まってしまった。口を一文字に結んで腕を組む姿にほだされそうになったが、カイリは心を鬼にする。


「俺や俺の両親の真実を、おじいさんは何も家族には話していない。それなのに、俺と仲良くしている。そんな光景を見たら、アレックス殿が何か聞こう、話そうと思っていたとしても、一歩を踏み出すのが恐くなると思いませんか? もし話さえ聞いてくれなかったら……とか。家族より、あんな孫かどうかも分からない奴の方が良いのか……とか。色々考えてしまってもおかしくないですよね。むしろ、考えていますよね?」

「え? え、え? え、えっと、その」

「そんな中で、せっかくアレックス殿が一念発起して俺とおじいさんが一緒にいる場所に来たのに、叱って終わりだなんて悲しいです。また、会話の機会が遠ざかります。それじゃあ、いつまで経っても関係の修復が不可能じゃないですか」

「むぐっ、……う、……う、………………む」


 ゼクトールが気圧される様に押し黙ったが、カイリは容赦しない。アレックスも目を白黒させていたが、この際無視をすることにした。


「おじいさんは、ただでさえ誤解されやすいんです。最初の頃は、俺との会話もそうだったじゃないですか。だから、尚更会話をしなきゃ駄目です」

「……、うむ」

「叱るのは別に構わないと思います。でも、叱った後、そのまま放置するなんて絶対駄目です」

「う、む、……ううむ、しかし」

「子供だって、……叱られた後は色々考えます。反省したり、でもこれだけは譲れない、とか、本当に色々なことを考えるんです。……時間が経ったら、もう一度話をしたいとか、仲直りしたいとか、でも謝るのは嫌だとか、反応は人によって様々だと思いますけど、……でも」


 最後まで話さないままだったら、こじれてしまう。


 子供にだって、親にだってどちらにも言い分はある。お互いに至らないところもあるだろう。完璧な人間などいないのだから。

 しかし、その言い分だって、結局は相手に伝えなければ全く意味がないのだ。

 話さなくたって分かってくれる。話さないと分かってくれないなんておかしい。



 そんなのは、ただの甘えだ。我がままだ。



 親も子供も、血がつながっていても違う人間なのだ。考え方や価値観だって違う。

 話さなければ、きちんと相手の言葉に耳を傾けて理解しようとしなければ、相手の考えていることなど本当の意味では分かりはしない。


「それに、……親と話したくても、話しかけられない子供だっているんです。叱られた後なら、尚更」

「……」

「喧嘩して、その後、もし親にずっと黙ったままでいられたら。……嫌われたんじゃないかって、もう口をいてもらえないんじゃないかって。子供は、すごく不安になるんです」


 カイリだって、両親には何度も怒られたことがある。理由は様々だったが、大体はカイリが悪かったり、カイリのことを思ってくれての叱責だった。

 大抵は、すぐにみんなで笑顔になったけれど。


 一度だけ、その叱責が長引いたことがあったのだ。


 もう何が原因だったかは覚えていない。

 だが、その時はカイリも何故か素直に聞き入れられなかったのだ。

 意地もあったと思う。父の方も折れなくて、母は黙って見守っているだけで。食事の時も珍しく会話が無くて、嫌な静けさで一日を過ごしたことがあった。

 カイリもすぐに謝れば良かったのに、出来なくて。時間が経つにつれて、どんどん言い出せなくなってきて。

 父も無言で、どこにも笑顔が無くて。

 家の中が、真っ暗に落ちていって。



 もう、二度と笑ってくれないのではないかと不安になった。



 思い始めたらもう駄目だった。無性に不安になって、ぼろぼろ泣き出してしまったのだ。

 気付けば、ごめんなさい、ごめんなさいと、繰り返し壊れた様に謝っていた。

 カイリが大声で泣き出したことに驚いたのか、父が慌ててすっ飛んできた。母も急いで傍に来て、泣きやむまで二人で抱き締めてくれたことを覚えている。


 その時、心の底からホッとしたことを、カイリは今でも忘れられない。


 ゼクトール達の時はもう全員が大人だっただろうから、カイリの様な子供じみた喧嘩では無かっただろう。

 だが、例え大人であったとしても――親に会話をしてもらえないというのは、やはり悲しくて苦しいことではないだろうか。

 おまけに、当時ゼクトールは母を追い出した理由を一切弁解しなかったと聞いている。今現在も話してはいないだろう。ならば、尚更子供達からの不信や不安は募っていったはずだ。


「だから、せめて、何か……そう。『分かったなら良い』とか、何か歩み寄る様なことを言って下さい。すぐに無理なら、少し経ってからでも良いので何か言って下さい。叱りっぱなしは駄目です。……俺だったら、……苦しいし、悲しいし、泣きたくなります」

「……」

「当時の母さんと父さんのことだって、……理由が話せないなら、せめて、家族に真っ直ぐに『話せない』って素直に言えば良かったんだと思います。何年経っても良いから、向き合えば良かったんだと思います。そうしたら、おじいさんにも何か考えがあるんだって、少しでも家族は思えたんじゃないでしょうか」

「……」

「……全部一人で背負ってくれて、誰に誤解されたままでも良いと、信念を貫いてくれて。そんな風に父さんと母さんを守り抜いてくれたおじいさんには、感謝しかありません。でも、……そんな優しいおじいさんが誤解されたままなのは、家族とすれ違ったままなのは、……見ていて悲しいです」

「――」


 事情も何も知らないカイリが口を挟むこと自体が間違っている。何も知らないくせにと、怒鳴られるかもしれない。

 だが、それでも言わずにはいられなかった。目の前ですれ違いを起こしているから尚更だ。

 怒ってくれて良い。なじってくれて構わない。



 それで、二人が心情を少しでも吐露して、歩み寄れるキッカケになってくれるのならと願った。



 ゼクトールにもアレックスにも叱責されるのを覚悟で黙っていると。


「……っはは……」


 アレックスが、堪らずに噴き出した。

 何故そこで笑われるのだろうと、今度はカイリが目を白黒させる。

 アレックスはひとしきり笑った後、はあっと満足げに息を吐いてカイリを初めて真っ直ぐに見てきた。



「本当に、ティアナそっくりだ」

「――」



 笑う顔は、泣いている様に映った。

 やはりカイリを通して、彼は母を見つめている気がする。恐らく、母が大好きだったのだろう。彼の顔は懐かしそうに、愛しそうに、何かをこらえる様に歪んでいた。


「……俺は、兄弟の中でも一番気が弱かったんです。いつもティアナに、『もっとしっかりしてちょうだい』って怒られてて。……母を除けば、ティアナが一番、父上に色々言っていたなあ」

「……、うむ」


 アレックスの言葉に、ゼクトールも仏頂面で頷く。

 そうだったのかと、カイリはまた母の新たな過去を知る。最近、母のことを知る機会が増えた。どのエピソードも、母らしいと微笑ましくなる。

 不思議な心地でカイリが二人を眺めていると、アレックスが眉尻を下げて微笑んだ。


「ごめんね、カイリ殿。……いや、カイリ君、かな。……ティアナの息子なんだから」

「えっと、好きな様に呼んで欲しいです」

「じゃあ、カイリ君。俺のことも、殿、じゃなくて良いですよ。さん、とかそっちの方が良いな」

「あ、はい。じゃあ、……アレックスさん」

「うん」


 花開く様に、アレックスが笑う。笑った顔も母によく似ていた。


「……すみません、アレックスさん」

「え? どうして謝るの?」

「俺、おじいさんに偉そうに言いましたけど……俺だって、ここに来たばかりの頃は、両親の実家と関わるのは絶対嫌だって思っていました。それに、……おじいさんとは色々話しているけど、いざ母さんの実家の人達と関わるとなると……その」

「面倒そうだなあって思った?」

「……それもあります。貴族ですし。でも、……」

「でも?」

「……。……大好きな母さんの家族に拒絶されたら、って思ったら、……会うのがちょっと恐かったんです」

「――――――――」


 黙っていようかと思ったが、結局カイリは正直に全部話してしまった。

 アレックスは一瞬息を詰めた様な顔をした後、何かに耐える様に目を伏せる。

 情けないと思われただろうか。少し不安になったが、顔を上げたアレックスの瞳には、侮蔑の色は全く見当たらなかった。



「……カイリ君。良ければ、今から一緒にお茶をどうですか?」

「え?」

「父上のこともそうだけど、家を出てからの……俺が知らない妹のティアナのことも、……聞いてみたいんだ」

「……っ。はい、是非」



 アレックスの、柔らかいながらも微かに緊張したお誘いに、カイリは二つ返事で頷いた。


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