第289話


 ゆっくり起きてカイリがフランツと食堂に行くと、全員が総出で待ち構えていた。

 カイリが起きてくるまでは意地でも食事を取らないと決めていたらしく、彼らは腹の虫を盛大に鳴かせながら笑顔で睨んできたのだ。その姿はまさしく飢えた獣の様で、カイリが震え上がったのが二時間ほど前だ。

 ホテルが用意してくれた豪華な食事を終え、カイリは今、中庭の縁側でフランツと二人で座っている。



「――あめあめ ふれふれ かあさんが」

「じゃのめで おむかい うれしいな」

「「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」」



 優しい緑が咲き乱れる中庭に、カイリとフランツの歌声がゆったりと舞う。

 仰いだ空は真っ白な雲が泳ぎながら笑っている。日差しもこの季節にしては柔らかく、過ごしやすい一日だ。

 その中で雨の歌を歌うのは不思議な感じがするかもしれないが、カイリにとっては彼と歌えるだけで嬉しい。


「……ふむ。やはり、カイリの歌はなかなか面白いな。まだ一番しか覚えてはいないが、これは母と子供が仲良く雨の中を帰る歌なのだな」

「はい、そうです。途中で泣いている子供に傘を貸す場面もあります。……昔の人が作った歌なので、貸す時の子供の口調が今の子供らしくはないんですけど、味があって俺は好きです」

「ほう、そうなのか。それは覚えるのが楽しみだな」


 腕を組んで楽しそうに笑うフランツに、カイリは自然と頬がほころぶ。自分が好きな歌を気に入ってくれるのは、やはり嬉しいものだ。



 しかし、フランツに歌を教えていると、村で歌えた者達が如何いかに異様だったかも気付く。



 父もラインもミーナも、カイリの歌を覚えるのは凄まじく早かった。

 童謡唱歌は単調な旋律だから覚えやすいのもあっただろう。それでも、彼らはカイリが二、三回歌っただけで、少しずつだが口遊くちずさむ様になった。

 母が一番覚えるのが遅かったはずだ。フランツとそこまで変わらない速度だったと記憶している。

 つまり、聖歌騎士である父は言わずもがな、ラインやミーナも、下手をすると聖歌騎士になれるくらい前世の記憶があったのかもしれない。

 前世では有名な歌ばかりだったのだから、記憶があるのならばすぐに歌えるのも納得だ。


「そういえば、カイリ。……ちょっと恥ずかしいのだが」

「はい? 何ですか?」


 頬を掻きながら照れくさそうにするフランツに、カイリは首を傾げる。

 最初はどうしようかと迷っていたようだが、決意をしたのだろう。思い切る様に口を開いた。



「じゃのめとは、どんな傘なのだ?」

「え?」

「いや、……歌詞を教えてもらった時に、『じゃのめ』とは、傘のことだと言っていただろう? だが、……俺が知らない名前なのでな。さっきはそうかと流したのだが、ちょっと気になってな」



 無知だと恥ずかしがっているのだろう。フランツの語尾がだんだん尻すぼみになっていくので、カイリは思わず笑ってしまった。

 すると、フランツが少しだけむっつりとねてしまったので、慌てて首を振る。


「すみません。馬鹿にしたわけではなくて。……フランツさんでも、そういうことで恥ずかしがるんだなって」

「別に、馬鹿にされたとは思っていないが。……有名な傘なのか?」

「いいえ。ケントにも聞きましたけど、この世界には無い傘みたいです。……本来は『蛇の目傘』って言います。日本……聖歌語で蛇の目、って書いて、『じゃのめ』です」

「蛇の目、か。何と……」

「傘の上の部分を中心に、白い輪のデザインが入っているんです。上から見たら蛇の目みたいに見えるから、そう呼ばれたんだそうです」


 カイリが説明すると、フランツが興味深そうに唸った。頭の中で思い描いているのか、視線が少し上に向いている。


「しかし、名前だけを聞くと少し恐いな。実物を想像すると綺麗な気がするが」

「はい、綺麗ですよ! シンプルで、色も模様もごちゃごちゃしていなくて、俺は好きです」

「カイリが言うのだから、きっと美しい傘なのだろうな。……俺も、見てみたいものだ」


 目を閉じながら感傷気味にフランツがささやく。

 彼は、前世の記憶が断片的にしか無く、しかもほとんど覚えていないのだという。日本流の火葬を覚えていなかったことを鑑みると、蛇の目傘のことも全く記憶に無いのだろう。

 その横顔が少しだけさみしそうに映って、カイリは思わず腕を叩いた。



「俺は、フランツさんからこの世界のこと、たくさん教えてもらっていますよね」

「ん? ああ、そうだが」

「俺は、……お互いに知らない世界のことを教え合えるのって、嬉しいです。自分の世界が、広がる気がするから。傘だって、俺は都会に来るまでは種類が豊富だって知らなかったし。きっと、まだまだ知らないことがたくさんあるから、色々教えて欲しいです」



 本心から伝えると、フランツは微かに目をみはり、次には表情を和らげてカイリの頭を撫でた。彼の手は本当に大きいし、大雑把ではあるがとても優しい。やはり父の手と似ているなと、しんみりしてしまう。


「さて、続きを教えてくれるか? この歌は、五番まであるのだったな」

「はい。メロディは全部一緒です。二番の歌詞は、『かけましょ かばんを かあさんの』で……」

「ほう。母親の鞄を子供が持つ、ということか」

「ええっと……実は、どっちなのか分からないんです」

「分からない?」

「続きの歌詞は、『あとから ゆこゆこ かねがなる』なんです。だから、何処で文章を切るかで意味が変わってくるというか……。鞄をかけ直して母親の後を付いて行くのか、母親の鞄を持って母について行くのか」

「……なるほどな。カイリはどっちだと思っているんだ?」

「え」


 微笑ましそうに聞いてくるフランツの顔には、少しだけ悪戯っぽさが光っている。明らかに面白がっている雰囲気に、カイリはぐうっと声に出さずに唸った。

 カイリがどう解釈しているか。

 自分だったらどうするかと考えて、カイリはそろそろと口にした。


「俺は……最初、お母さんの鞄を肩にかけているんだと思いました」

「ほうほう」

「ただ、……この歌詞に出て来る子供は小学生……ええっと、七、八歳くらいの子供のイメージなので……。自分の鞄を持って、かつ母親の鞄を持って傘を差して歩くって相当大変な感じがして。俺なら、途中でへばりそうだなって」

「ははは、まあそうだな」

「だから、……結局、鞄は自分のものを指していて、お母さんの後を嬉しそうに歩いているんじゃないかなって思いました」


 根性が無く、夢の無い回答だが、これがカイリの考えだ。最初は張り切っていても、途中でへばってしまったら母親が心配するかもしれないと思ったのだ。――実際、そうだった。

 素直に吐露すると、フランツがやがておかしそうに喉を震わせた。かあっと、カイリの頬が一気に熱くなる。


「ど、どうせヘタレです!」

「っはは、いや、素直なのは良いことだぞ。確かに、小さな子供が鞄を二つ肩からかけた上に、傘を持つとなると結構な重労働だ」

「……ううっ」

「じゃあ、俺は、子供は最初張り切って母親の鞄を持ったが、途中でへばってしまって、母親に微笑ましく思われながら鞄を返し、二人で並んで歩くに一票入れるとしよう」

「……」

「――お前がそうだったんじゃないのか? カイリ?」

「――っ!」



 ――何故、バレる!



 的確に事実を突かれ、がばっとカイリは振り子時計の様に顔を上げてしまった。その反射で、ばっちりとフランツには見抜かれてしまう。

 墓穴を掘ってしまい、カイリは頭を抱えた。あああ、と悲鳴の様な声を噛み殺す。


「ど、どうして分かったんですかっ。もしかして、また父さんが手紙に……!」

「いや、……お前ならちょっとやりそうだな、と。困っている人がいたら突っ走るところがあるし、いつも無茶をするし、何かをしてもらったらお返しをしたいと思う様な子だからな」


 ぽんぽんと軽く頭を撫でてくるフランツに、益々ますますカイリの顔が羞恥で真っ赤に染まる。もう湯気が出ていてもおかしくないほど熱い。今、鏡があったら憤死する自信がある。


 小さい頃、村長や他の村人達の家におつかいに行った時、急な雨に降られたことがあったのだ。


 そろそろ日も落ちる頃で、大人が送って行こうかと言い出した頃に両親が揃って迎えに来てくれたことがあった。

 みんなで傘を差して歩いている最中、カイリは迎えに来てくれたことが嬉しくて、お礼に母が持っていた荷物を持つと言ったのだ。――その中身が、カイリがずぶ濡れだった時のためのタオル一式や、怪我をしていた時のための大袈裟な救急道具や、カイリが腹をすかせていた時のための食事と飲み物や、カイリを背負うための抱っこひもだったりなど、あらゆる可能性を想定した過保護セットだったのは、家に帰ってから知った。


 当然、その荷物は子供が背負うには重く、早々に降参してしまったのは今でもカイリにとっては黒歴史だ。


 まさかフランツに見抜かれてしまうとは。そんなにカイリは分かりやすいのだろうかと、少し落ち込む。

 けれど。



「カイリらしいな。……昔のお前が見られなかったのは少し残念だ」

「……フランツさん」

「だが、……これからゆっくり、お前に教えてもらえば良いことだな」

「――」



 フランツの優しい眼差しに、カイリの胸の底が温かな光で満たされる。

 最初の頃は、フランツのことを父の親友という風にしか見ていなかった。

 保護者になってくれた優しい人で、足手まといの自分の面倒を見てくれる、ちょっとお茶目な頼もしい騎士団の団長という目線でしかなかった気がする。

 だが、ここで過ごす内に彼の違う一面がたくさん見られた。別れを告げられ、弱気な面を見せられ、仲直りをし、ぶつかって、その度に歩み寄って。


 こうして、照れくさく思いながらも少しずつ距離を縮めていける時間が、愛しい。


 父への家族としての愛情とは違うかもしれない。未だに、カイリはフランツのことを「父」とは呼べていないし、呼ぶのも照れくさい。

 だが確かに、彼のことを少しずつ、第二の『父』の様に慕い始めているのは本当だ。家族の様に思い始めているのも気付いている。

 父のことを忘れたわけではない。



 けれど、今、ここにもう一人の父が生まれ始めている。



 その感覚が不思議で、むずがゆくて、だがとても幸せなことに感じられた。


「……、フランツさん。二番、歌いましょうか」

「ああ、そうだな。……いや、その前に、歌詞の『かねがなる』とは何だ?」

「え? あ、えっと……学校で、鐘が鳴ったりはしませんでしたか? 例えば、授業の始まりとか終わりとか、放課後……つまり、学校が終わった後とか」

「ん? ああ、そういえば鳴っていたな。なるほど、この歌詞に出て来る子供は、学校帰りということか?」

「そうです。雨が降ってきたので、傘を持って迎えに来てくれた……ということだと思います」

「なるほどな。短い歌の中にも色々物語が出来ていて面白い。やはり、カイリの歌は良いものだな」

「あ、ありがとうございます……」


 自分で作ったわけではないのに、妙に照れくさくて嬉しい。カイリはじわじわと足元から這い上がる喜びを誤魔化す様に、下を向く。

 だが、フランツには見抜かれた様だ。何故か弾む様に頭をくしゃくしゃと撫でられて、余計に照れくさくなった。

 こういうやり取りも、少しずつ慣れていくのだろうか。当たり前になったその時が、秘かに楽しみになった。



「フランツ団長、新人! ここにいたんすね」



 二人で話していると、エディが廊下の向こうから歩み寄ってきた。隣にはリオーネもいる。ふふ、と花の様に笑みを零してからカイリとフランツを交互に見つめてきた。


「もしかして、歌を歌っていましたか?」

「ああ。カイリに教えてもらいながらな」

「ああ! フランツ団長がしょんぼりしていた時に、悔しいなら新人に教えてもらえって言わ……むごおっ!」


 フランツが高速で立ち上がり、目にも留まらぬ速さでエディの頭をがしいっと鷲掴みにした。

 その般若さえも裸足で逃げ出す形相と握力に、エディはびしいっと石像の様に固まった。ぴくぴくと、心なしか泡を噴き出して痙攣けいれんしている様に見えるのは気のせいだろうか。


「あ、あの。フランツさん? どうしたんですか?」

「うふふ。実は」

「リオーネ」

「……エディさんの様にはなりたくないので秘密です♪」


 フランツのドスの利いた低い声音に、リオーネは笑顔で言葉を引っくり返した。さしもの彼女も、あのエディの顛末てんまつを目の当たりにすると、命が惜しくなる様だ。それでも冷静な微笑みなのは、ある意味図太い。


「でも、フランツ様は可愛いんですよ。カイリ様、愛されていますね♪」

「え? は、はあ」

「リオーネ……」

「あら。良いじゃないですか。愛情は、どんどん伝えていかないと。言い合える仲って素敵です♪」


 にこにこしたリオーネは、やはりリオーネである。真相は明かさなくても、フランツを茶化すあたりは一筋縄ではいかない。

 フランツが苦虫を潰した様に顔を潰すのを見ながら、カイリは聞かないことにした。誰にだって、知られたくないことの一つや二つ、二十はある。レイン曰く。


「それで、お二人は何を歌っていらっしゃったのですか?」

「ああ、『あめふり』だよ。いつも練習している」

「まあ、素敵です。フランツ様、私もご一緒してもよろしいですか?」

「もちろんだ。歌う人数は多ければ多いほど楽しいしな」

「うん。リオーネ、一緒に歌おう」


 復活したフランツが肯定し、カイリも歓喜に満ちる。

 こうして日常の中でみんなで歌を歌うのは、随分ずいぶん久しぶりだ。何だか村にいた頃を思い出して懐かしくなる。

 誰からともなく目を合わせ、同時に息を吸ったその時。



 ぴんぽーん。



「……。……無粋な奴だな。文句の一つでも言ってやるか」

「ケント様だったら面白いですね」

「……だったら益々文句を十個ほど言ってやるぞ。まったく、誰だ一体」


 ぶつぶつ文句を連ねながら、フランツが玄関へと向かう。

 カイリとリオーネもせっかくなのでそれに続き、途中でエディを黄泉の国から引き戻して向かっていった。

 そうして扉を開けた先。カイリ達の目は、一様に丸くなってしまった。



「久しぶりね、フランツ殿、リオーネ、イモ騎士。下見ついでに遊びに来てあげたわよ」

「――、……、じゅ、ジュディス王女殿下!?」



 華やかなワンピースを身にまとい、艶やかな金の髪を掻き上げながら、ジュディスは高らかに堂々と目の前に佇んでいた。


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