第288話


 微かな衣擦れの音で、カイリはぼんやりと目を覚ます。

 木漏れ日の様な柔らかで控えめな日差しを受けて、もそりとベッドの中で寝返りを打った。

 もうレインが起きたのだろうかと。口を開きかけて――傍に気配を感じ、ぱちっと今度こそ目が覚める。

 しかも、視界に入ったのは、予想とは全く違う人物だった。



「……ふ、フランツさん?」

「ああ、おはようカイリ。目が覚めたか?」



 ベッドの端で静かに椅子に座っていたのは、フランツだった。読んでいたらしい本を閉じて、カイリの方へと向き直ってくる。


「ど、どうしてフランツさんがここに?」

「ああ。レイン達が手合わせをしていてな。代わりばんこでお前の傍にいたのだぞ」

「えっ!?」

「昨日は襲撃があっただろう。流石に宿舎の中であっても一人にするわけにはいかなかったからな。……よく眠れたか?」


 髪をく様に撫でながら、フランツが穏やかに笑みを落とす。

 だが、彼の話を聞いて、かあっとカイリの頬に全身の熱が集中する様に熱くなった。全員に寝顔を見られたと思うと、羞恥で焼き切れそうだ。


 ――いや、今更なんだけどな!


 カイリは割と醜態をさらしまくっている。既に彼らの前では何度も酷い寝顔も泣き顔も見せていた。

 今更だ。本当に今更ではあるのだが、一人一人となると、何となくまた違った恥ずかしさが込み上げてくる。


「ごめんなさい。今、何時ですか?」

「ああ。……今、十時になったところだな」

「えっ!? 十時!?」


 時刻を告げられて、シーツを跳ね上げる様に飛び起きる。

 既に、朝食の時間は過ぎ去りまくっていた。完全に寝坊をしたと蒼白になる。


「す、すみません! 今日は当番がシュリアで、俺、あ、朝の支度……!」

「落ち着け、カイリ。今日は朝食の準備はしなくても良いことになっていただろう」

「え? あ、……でもっ」

「それに、今日一日はゆっくりする約束だったはずだ。寝坊くらい構わないだろう」

「……それは、……えっと」


 混乱するカイリに、フランツは落ち着かせる様に頭を撫で続ける。

 彼は、頭を撫でるのが好きなのだろうか。嫌ではないが、やはり少し気恥ずかしい。



「今日、レインとシュリアは出かける予定だが、俺は一日宿舎でゆっくりする予定だ」

「……、はい」

「それでな、カイリ。……もし良ければ、俺に歌を教えてはくれないか?」

「え? 歌、……ですか?」



 フランツの突然の申し出に、カイリは目を瞬かせる。恐らく今、カイリは目だけでなく口も大きく開いているだろう。

 思ってもみなかった頼みごとにカイリが戸惑っていると、フランツは妙に大きく咳払いをしながら視線を逸らした。


「いや、……俺はな。カーティスと違って聖歌騎士ではなかったからな。歌というものが、それほど身近ではなかったのだ」

「……、はい」

「歌が特別という認識に違和感みたいなものはあったが、……日常で聞くのは、せいぜい街中で正午に流れる聖歌くらいだったし、あの聖歌もあまり好きではなかった。カーティスと一緒にいても、奴も普段は歌わなかったしな」

「え。そうなんですか……」

「ああ。だから、歌自体にあまり良い印象を抱いていなかった様な気がする」


 フランツの静かな語りに、カイリは新鮮な気持ちで耳を傾ける。

 父は、この首都にいた頃はあまり歌を口ずさんではいなかったのか。村ではカイリが歌うと一緒に歌っていたから、不思議な感覚である。

 それに、フランツが歌というものに不快感を示していたのも意外だ。いつもカイリの聖歌を褒めてくれていたから、まさかそんな印象を抱いているなど、露ほども気付きはしなかった。



「だが、……あの村で初めてお前の聖歌を聞いた時。……とても切なくて、けれど温かな気持ちで満たされたのだ」

「――」



 フランツの横顔に柔らかな日差しが宿る。

 少しだけ開いていた窓から風が吹き込み、差し込んだ陽光がカイリ達を優しく包み込んだ。


「あの時初めて、俺は、歌というのはこんなに優しいものだったのかと知った」

「……フランツさん」

「だが、お前の歌は良いものだと思っても、……一緒に歌うという発想がつい最近まで無くてな」

「……はい」

「だから、……この前、ケント殿が一緒に歌おうとお前に言った時……衝撃を受けた。俺の世界はこんなに狭かったのかと。……何故、お前と一緒に歌おうと思わなかったのかと、……ちょっと嫉妬をしてしまってな」

「え? 嫉妬、ですか?」


 フランツの暴露にカイリは仰天した。

 この前、フランツはケントに嫉妬をして、その感情も混ざって色々冷たく当たってしまったと懺悔してきたのは覚えている。

 だが、何故歌のことにまで嫉妬するのだろうか。歌が身近で無かったのならば、一緒に歌うという発想は確かにあまり浮かばないだろう。

 カイリが驚きのあまり凝視していると、フランツは気まずそうに頬を掻いて、更に外向そっぽを向いた。


「……ケント殿は、お前と一緒に歌おうと。水のトラウマを楽しいものに塗り替えようと、そう言っただろう? それが悔しくてな」

「悔しい……」

「そうだ。お前が雨を呼ぶ歌を歌った時、……俺も一緒に歌って楽しいものにすれば良かったのに、聖歌に気を取られ過ぎて、その発想が無かった。……お前が水を親しむ歌を歌う時、まずは共に歌えれば、そして水そのものを楽しめれば良かったのではないかと思ったのだ」

「……フランツさん」

「ケント殿が先にその発想に容易く辿り着いたのが、……お前のトラウマを少しでも和らげられたのが、悔しくてな。……レイン達に叱られた時、俺は嫉妬してばかりだと気付かされた。ただ、見習えば良かったのにな」

「……」


 ぽかんと、カイリは口を馬鹿みたいに開くしかない。

 だって、そうだろう。まさか、フランツがあの時のケントの発言でそこまで気に病むなど誰が想像する。

 一緒に歌えば良かった。楽しめば良かった。

 そんな風に思ってくれていたこと自体が驚きで、カイリは呆然とフランツの横顔を見つめる。



「……お前みたいには歌えないかもしれないが。俺も、お前と一緒に歌を歌ってみたいと、……その、思ってな」

「……」

「何より、お前の歌は、お前が好きで大切なものなのだろう? だったら、……俺も大切に歌ってみたい。そう、思ったのだが、……、……子供っぽいだろうか」

「……っ」



 フランツが更に罰が悪そうに頬を掻くのを見た瞬間、カイリの心からぶわっと喜びが花開く。無意識に彼の腕に手を伸ばし、ぎゅっと握り締めた。

 驚いてフランツが振り返って来るが、カイリは構ってはいられない。笑顔が零れ落ちて仕方が無かった。胸の奥が震えて、泣きそうだ。


「ありがとうございます、フランツさん」

「う、うむ」

「俺、……嬉しいですっ。……フランツさんと一緒に、口遊くちずさんで、歌ってみたいです」


 素直に歓喜を打ち明ければ、フランツも大きく目を見開いた後、くしゃりと顔を歪めた。昨日の弱り切った顔とは違った表情に、カイリの体が春の様に温かくなっていく。


「そうか」

「はいっ」

「……じゃあ、後で教えてくれるか?」

「はい! じゃあ、……雨の歌で、良いですか?」

「そうだな。……『あめふり』だったか。あれも、楽しくて優しい良い歌だ」

「はい、そうなんです。……ははっ。楽しみです」

「……っ」


 この聖都に来てから、誰かと歌うということなどなかなか無い。ケントとは何回かあったが、フランツとは二回目だ。ルナリアでは全員で合唱をしたが、何気ない日常の中でとなると、初めてで浮き足立ってしまう。

 ふと気付くと、何やらフランツが片手で目元を覆って天井を仰いでいた。何故か、くっとか、ふっとか、よく分からないうめき声を発している。


「あの、フランツさん? どうしたんですか?」

「いや、すまない……。最高の天使がここにいると、思っただけだ」

「は、はあ」


 意味不明な単語だが、恐らくいつものフランツ病だろう。カイリは取り敢えず聞かなかったことにした。父や母も同じ様な病気にかかっていたし、これはもう流すしかない。

 何度か声にならない呻きを上げた後、ようやく正気に戻ったのか、フランツはこほんと軽く咳払いをする。まだ「天使」とか戯言たわごとのたまっていたが、無視をした。


「それと、カイリ。グレワンのキーファという者から伝言だ」

「え?」


 今度はいきなりキーファの名前が飛び出してきた。

 本日は起き抜けから驚かされてばかりだ。何故フランツの口から彼の名前がと疑問に思っていると。



「お前に大層感謝をしていた。子供達というお客様を、苦痛と涙であえがせたまま送り出すことにならなくて良かったと。……ホテルの存在だけではなく、理念も守ってくれて感謝している、とな」

「――」



 不意打ちの様に、カイリの胸に言葉が刺さる。

 それは、昨日も彼やダーティから聞いてはいた。

 しかし、日をまたいでまで同じ感謝をされるとは思ってもいなかった。本当に子供達だけではなく、彼らのことも助けることが出来たのなら、カイリにとってこれほど嬉しいことはない。


「それと、お前の聖歌がいたく気に入った様でな。諸々のお礼にと、今朝、朝食を持ってきてくれた」

「――えっ!?」


 ばふんっと、ベッドを叩き付ける様にカイリが飛び跳ねる。

 朝食をキーファが持ってきてくれた。つまり、あの高級な食事をこの第十三位の宿舎まで運んでくれたことになる。

 そんな贅沢なサービスを受けてしまうとはと、カイリは慌ててベッドから飛び降りようとした。


「き、キーファさん、何処ですか? お礼、言わないと」

「落ち着け、カイリ。もう三時間くらい前のことだ。とっくにホテルに帰っている。また来て欲しいと言っていたぞ」

「え……、え? でも、そんな」

「素直に受け取っておくと良い。……彼らはそれだけ、お前に感謝しているということだ。感謝を拒否すると、逆に失礼に当たるぞ」


 フランツにやんわり諭され、カイリは口をつぐんでしまった。

 確かに、感謝を拒否し続ければ失礼に当たるかもしれない。カイリが彼の立場だったら、本当に感謝しているのにと悲しくなるだろう。

 冷静に推測し、カイリは再びベッドに腰を落ち着ける。フランツの苦笑が、カイリの背中を撫でた。



「昨日、お前は本当に正しい道を選択した。それを俺は、誇りに思う」

「……っ」

「だが、……もう少し自分を大切にな。お前が俺達を失えば悲しむ様に、お前を失えば悲しむ者がいることも、ちゃんと覚えておいて欲しい」

「――」



 フランツの涙の様な言の葉が、ひらりひらりと舞う様にカイリの中に落ちて行く。降り積もって、優しく揺れて、その柔らかな熱に泣きたくなった。

 カイリは、本当に恵まれている。

 故郷を失い、また襲われて、狙われても、フランツ達はカイリの傍にいてくれる。失いたくないと言ってくれる。


 カイリも、彼らを失いたくない。


 来た時にはここまで強い願いを抱くなど思ってもみなかった。あの時のカイリは、ひたすら強くなり、ここで新たな人生を始めるのだと、必死になって食らいついていくだけだった。

 そんなカイリが今、彼らと共に歩きたいと。そう思い始めている。

 ここはいつの間にか、カイリが帰って来たい場所になっていたけれど、それだけではなくなっていた。



 ――今の俺にとって、ここが間違いなく第二の故郷ふるさとになっているのだ。



 教皇拉致事件で救われた時にもおぼろげに感じていたことを、はっきりと再認識する。

 故郷を失ったカイリが、再び故郷と思える場所が出来たことを、心から誇りに思う。


「はい、……はい。フランツさん」


 その事実に心の底からじわじわと喜びが湧き上がってくるのを感じて、照れくささと共にフランツへと頷いた。


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