第277話
突然会話に割り込まれ、カイリは思わず大声を上げた人物を振り返ってしまった。
そこには、初老の男女一組が寄り添う様に
「ば、バラッド殿……」
ガルファンが、
ケントも、彼らの関係に着目している様だ。淡々とした視線は、探る様に深くなっている。
「ガルファン殿、まだその様な世迷言を言っているのかね。聖歌とは、この世で最も神聖なもの。いくら高貴な貴族が開いた晩餐会とはいえ、そう易々と聖歌をお披露目になるわけが無いであろう」
「……そ、それは……しかし。私の他にも鑑賞された方はいらっしゃいます。それこそ、クリストファー殿が開かれた晩餐会の夜に――」
「わしは招待されなかったでな。到底信じられん」
言葉を遮って鼻息を荒くするバラッドに、「あ、そういえば呼ばなかったな、父さん」と軽い調子でケントが肯定する。
カイリも、クリスなら彼を呼ばないかもしれないと納得してしまった。彼は、嫌々な付き合いをする仲でも、ある程度人物を選別しそうだ。カイリとしても、端から
「なあ、そうは思わないかね、皆様も。あろうことか神聖なる聖歌を、特別でもない日に歌うなど。ミサならともかく、晩餐会に歌うとなると、よほどの物好きでない限りいないではないかね」
「その通りですわね、あなた。ガルファン殿は、きっと夢を見るあまり幻聴をお聞きになったのですわ」
バラッドに追従する様に、寄り添っていた女性が賛同する。
周囲はざわざわと顔を見合わせながら
まるで責められている様な格好になってしまっているガルファンの前に、カイリは思わず進み出てしまった。
「初めまして、バラッド殿。俺は、カイリ・ヴェルリオーゼと申します」
「……む? 無礼な、……いや。カイリ殿と言えば、確か」
「僕の親友で、聖歌騎士です。お久しぶりです、バラッド殿」
すかさずケントが援護射撃に入ってくれる。
そこで初めて気付いたと言わんばかりに、バラッドは「おお」と腕を大きく開いた。目も口も大きめに開いたその表情は、芝居がかり過ぎて胡散臭い。
「ケント殿ではございませんか。お久しゅうございますな」
「ええ。何でも、カイリが聖歌を歌ったことを信用してもらえていない様で」
「なぬ? カイリ殿……、とはそこの」
「ええ。しかも、物好きとは……。――少々言い過ぎなのでは?」
最後のケントの声が低まった。地を這う様に底冷えした声音に、バラッドも一瞬顔を引きつらせる。
すぐに持ち直したが、腰は少しだけ引けていた。ケントは相変わらず、人を選ばずに
「い、いや。しかし、聖歌は貴重なものでございましょう。クリストファー殿は、わしよりも身分は高い方ですが、それでも――」
「じゃあ、歌ってみせましょうか。カイリ、良いよね?」
「は? ――は?」
いきなり話題を振られ、カイリは目を点にした。ぱちっと瞬きも大きくなり、言葉も馬鹿みたいに「は?」しか出てこない。
突然、売られた喧嘩は真っ向から買うと断言するケントに、カイリは眉根を寄せてしまった。自分達は今、ホテルの下見のために訪れているのだ。変に目立つ様なことをしてどうするのだと、内心焦る。
「でも、……ここでって」
「それは良い案です、カイリ。ケント様が自分の手柄ではないくせにまるで自分のことの様に自慢するのははっきり言って頭からぶん殴って沈めたいですが、それはさておき私も聞いてみたいものです。どうぞ、心行くまで神々までをも魅了する勢いで歌って下さい」
「レミリアまで……、……」
ケントの提案にここぞとばかりに乗っかるレミリアに、カイリはふと思いとどまる。
レミリアもそうだが、ケントも腐っても騎士団の団長だ。
いくらカイリを馬鹿にされて血が上ったとしても、任務を放り出して不利になる様な意見は述べないはずである。多分。恐らく。きっと。
ならば、彼には思惑があるはずだ。カイリが歌い、目立たなければならない策を立てている。
歌を見世物みたいにと思わなくもないが、ガルファンを援護したい気持ちもあった。何より歌が身近なカイリとしては、バラッドの意見をぶん殴ってやりたい。
故に。
「――分かった。歌う」
「うん! そうこなくっちゃ!」
「でも、……ケント」
「うん? 僕は歌えないよ! だって、童謡唱歌知らないもん!」
「――」
一瞬の間。
次には、カイリはケントの両頬を引っ張ろうとして――寸でで踏み止まった。ぐぐっと両手を握り締め、中途半端な位置で両腕を掲げる。
それを見ながら、にこにこと良い笑顔をするあたり、相当ケントはあくどい。後で覚えてろ、と殺意さえこめて睨みつけた。
「それに、……カイリ。ここでは、範囲指定なんてしなくて良いでしょ?」
「――……」
ケントに指摘され、カイリは確信を抱く。やはり、カイリが歌うことが目的なのだ。
歌わせたいのは、クリスの屋敷でも歌った『
何の幻かという疑問は残るが。
「……そうだな。でも、俺達も、歌ったら観光に行きたくなるかもな」
「もちろん! 『僕達三人だけ』で、行こうね! ……あ、今まで案内してくれた彼も一緒だとガイドとして最適かなあ」
伝わるか不安だったが、ケントは正しく受け取ってくれた様だ。
返事が、答え。
――自分達の、幻。
幻を最初は自分達に重ね、ケントが合図をしたら幻とは別行動をする。幻は、親切に案内してくれたスタッフに付いて行っていると周りに思わせろと言うことだろう。
そんなに繊細な技術を求められているのか。クリスの屋敷で歌った時よりも、遥かに難題を押し付けられている。
だが、やるしかない。ある程度強めに力を注ぐべきだろう。久しぶりに人々のために歌うので、カイリも緊張してしまう。
「け、ケント殿? まさか、本当にこの者が」
「ええ。僕の親友は物好きですから。ねえ?」
「……はい。俺は、聖都に来るまでは歌が身近にある暮らしをしてきたので。皆さんの前で歌うことに抵抗はありません」
「え、……むぐっ」
「あの、ガルファン殿。せっかくですから、貴方の意見をお聞きしたいです。あの時に歌ったのは『紅葉』という歌なのですが、それでよろしいですか?」
「え?」
バラッドとあまり長く
彼は最初こそ戸惑っていたが、徐々にくしゃりと顔を歪ませて頷く。何だか泣いているみたいだと、少しだけカイリは気になった。
「あの歌は、……紅葉がざあっと目の前に広がって、本当に綺麗でした。……妻とは毎年よく、紅葉狩りに行っていたのです」
「――」
その一言だけで、カイリは察してしまった。ああ、と、胸が鈍い痛みを告げる。
――この人は本当に、奥さんを愛していたのだ、と。
嬉しそうに――けれど悲しそうに笑う彼を目にして、カイリは感傷を断ち切る様にきょろっと辺りを見回す。少しだけ高い位置に立って歌った方が、声も遠くまで通るだろうという判断だ。
案内してくれていたスタッフの男性が、素早く「こちらです」と導いてくれた。彼はカイリの思考を見透かしているのだろうか。優秀すぎて、何処に就職しても万能な働きをしそうだ。
位置は窓際。シェフ達が料理をしている場所より少し離れている位置に、小さなステージの様な段差があった。
何か
ケントとレミリアも移動してくる。さりげなく、ケントがガルファンのことも前の方に誘導していた。
その際に、ケントがガルファンに向かって素早く何かを告げていた。レミリアがその動作の際に、二人の密談をバラッドから隠す様に動いていたので、カイリは後で聞こうと心に決める。
カイリが改めて室内を見渡すと、推定大半の貴族達が、戸惑う様にざわついていた。「まさか」「本当に?」と、疑心暗鬼に陥った様子でひそひそ
極々一部の者達だけが、歓声を上げる様な表情でカイリを見上げてきた。恐らく、クリスに招待された者達だろう。
――あの時は、リオーネがいたけど。今度は一人か。
カイリは、リオーネほど歌が上手くない。
聖歌の訓練で、腹式呼吸や滑舌の練習などあらゆる歌い方に関して厳しく指導を受けているが、それでも凡人に毛が生えた程度である。満足させられるかどうかと言われると、はっきり言おう。全く自信がない。カイリの歌は、特別なものでも何でもないのだ。
けれど。
〝今の歌、本当に素晴らしかった。……とてもお前らしい、優しい音色だったぞ〟
〝だけど、ほんとに良かったぜ。綺麗だった〟
〝んー、やっぱりいいな! ……父さん、この歌が一番好きだな〟
〝母さん、カイリの歌が聞きたいわ〟
〝歌に誘われての。……カイリが思い付く歌は、どこか懐かしくなるから好きでの〟
好きだと、そう言ってくれる人がいる。
大切な人達も大切にしてくれた歌。大好きな人達と共に過ごしてきた、掛け替えのない歌だ。
その歌で、少しでも誰かの心に安らぎを与えられるのならば、カイリはその誰かのために歌いたい。
一度目を伏せ、息を整える。
次に顔を上げた時、カイリは胸を張って心を優しく声に乗せた。
【秋の夕日に 照る
空気が凛と、涼やかに鳴った。
風が爽やかに駆け抜ける様に、目の前にひらりと、鮮やかな色が舞い始める。
【濃いも薄いも 数ある中に】
ひらり、ひらりと色とりどりの葉っぱが舞い上がり、人々が嬉しそうに声を上げた。
声が空気と溶け合って、彼らの元へと運ばれていく。
【松をいろどる
山のふもとの
天井はまっさらな青空に生まれ変わり、空から差し込む光に照らされて葉っぱが陽光を弾きながら室内を楽しそうに踊る。
人々の顔が歓喜から感動に変わっていくのを目にしながら、カイリは更なる祈りを乗せて、舞い散る葉に想いを織り込んだ。
【
紅葉に染まる山の麓に流れる綺麗な川に、人々が笑顔を向けながら手を差し出す。
その川に舞い落ちた葉っぱが、清らかな川に一層の彩りを添えていく様に。
どうか、この景色を見つめる人々の心にも、少しでも幸せな彩りが増えます様に。
特にガルファンを思いながら、カイリは紡ぐ。
枯れ果てているかもしれない彼の心の隙間が、一時でも温かな色で彩られて欲しい。願いながら、一層カイリは思いを声に乗せた。
【波にゆられて 離れて寄って】
空を、大地を、鮮やかに埋め尽くす色に、誰もが心を奪われる様に見つめ続けるのが見えた。
そして最後には吸い寄せられる様に、カイリの歌声へと彼らの瞳が向けられる。
【赤や黄色の 色
水の上にも
最後は静かに声を流し、カイリは一曲歌い終える。
ぼうっと我を忘れた様に見上げていた観衆に向かって、カイリは丁寧に腰を折った。
途端。
「――素晴らしいっ!」
割れんばかりの喝采と拍手が室内に響き渡った。
中には階上から聞いていた人達が、頭上から拍手をし始める者もいて、カイリは伸し掛かる疲労が吹き飛んでいくのを感じ取る。
「何だ、これは! 聖歌なのか? いや、今まで聞いたことのない歌だな」
「何だか私、胸がいっぱいになりましたわ。……ミサで聞くのと全然違います」
「しかもこの紅葉も素晴らしい! まだひらひらと舞っているぞ! 掴むことは出来ないが、これは見事だ」
「まだ夢を見ているみたい……」
次々に送られる称賛に、カイリは「ありがとうございます」と礼を告げて舞台から降りる。あまりもたもたしていると、あっという間に囲まれてしまいそうだ。先程まで馬鹿にしていたバラッドが、そそくさと隅に隠れていくのには胸がすいた。
「……上手く、いったか?」
「うん! カイリ、流石! 最高だったよ!」
「ええ。私も初めてですが……本当に胸を打たれました。流石はカイリ。ケント様を自由に殴る蹴る足蹴の権利を有している者。感服しました」
「え……いや、……え?」
ケントのにこにこ顔はともかく、レミリアの称賛がおかしい。前半はともかく、後半はケントへの暴行に感動されている上、脚色されまくっているのは何故だろうか。
「あはは! レミリア殿は相変わらず酷いね! まあ、足蹴にするのを許すのはカイリにだけだけど」
「いや、否定しろよ!」
「大丈夫! 他は潰すから。カイリを足蹴にした奴も論外ね!」
「……おい」
「何はともあれ、……良い感じに動いてくれて良かったよ。何パターンか考えていたんだけど……こういう時、浅はかな人間は扱いが楽だよねー」
「え? 何か言ったか?」
「うん! 上手くいって良かったなって!」
「ああ、そうだな。……」
とっても良い笑顔のケントだったが、悪巧みが成功した様な満足そうな横顔なのが気になった。一応目で問うてみたが、ケントはにっこり笑って黙殺だ。
やはり別のことを言ったんだな、とは思ったが、ケントらしいので肩を
そして。
「……カイリ殿っ。ありがとうございます……!」
目の前で聞いていたガルファンが、泣きそうになりながら頭を下げてきた。貴族に頭を下げられて、カイリはぎょっと体が跳ねる。
「あ、頭を上げて下さい。俺は、歌いたくて歌っただけですから」
「いいえ。……いいえっ。本当に、貴方の歌は素晴らしい。本当に、懐かしくて、温かくて、優しくて……っ」
「い、いえ! 褒め過ぎです!」
「そんなことはありません! ……あの日だって、貴方はその歌で私に生きる活力を与えて下さったんですから」
「え……」
あまりに重い一言に、カイリは胸を突かれる。
だが、それ以上は言わず、ガルファンはカイリの手を両手で握り、深く感じ入る様に感謝を口にした。
「ありがとうございます。とても優しくて、貴方らしい歌だと思います」
「――」
「風の噂では色々あった様ですが、歌を聞けば、貴方は何も変わっていないのだと。そう思えて、安心しました」
「え? 安心って」
「ああ、いえ。お元気そうで良かったと」
分かりやすく言い直すガルファンに、カイリも確かに色々あったと振り返る。
教皇に囚われた時は先が見えなくて苦しかったし、後遺症もまだ残っているが、それでも大切な人達と共に在れる日々が幸せだ。元気になれたのも、みんなのおかげだと感謝している。
「はい。おかげさまで」
「本当に良かった。……私も、……これで……、……」
「……? ガルファン殿?」
「では、また。第十三位の皆さんにもよろしくお伝え下さい。本当にありがとうございました」
何度も頭を下げ、ガルファンが離れていく。追いかけたい衝動に駆られたが、カイリはぐっと踏み止まった。恐らく、後で様子見をしていたケントが説明してくれるに違いない。それに賭ける。
だが、立ち止まっていたせいで、貴族達が波の様に押し寄せてくるのが見えた。カイリが避難しようとすると、スタッフの男性が絶妙なタイミングで割り込んでくる。
「カイリ様。支配人が、貴方とお話をしたいと申しております。是非とも、今回の素晴らしい聖歌についてお礼を言いたいと」
「わ、分かりました!」
「そっかー! そうですよね! 支配人とお話しなきゃいけないですもんね! カイリ、レミリア殿、行こう!」
ケントがわざとらしく大声で周囲を牽制する。カイリの肩を抱いて強引に足早になるのを、貴族達の視線が恨めしげに追いかけてくるのが分かった。
クリスの屋敷では、貴族達は歌い終わった後に別の場所に移動していたから混乱しなかったが、今は違う。速やかな移動が必要だ。
しかし。
「――、……?」
また、視線を感じた。
ホテルに来る前に感じた時よりも強い。
カイリが視線を辿って追いかけると、そこには一人の男性が佇んでいた。フリルが控えめに入った緑のコートに、夜空の様な黒い髪。青みがかった黒の瞳が印象的で、どことなく――母と似ているなと、カイリは思ってしまった。
「……あれ。アレックス殿だね」
「アレックス? ……って、……まさか、おじいさんの」
「うん。ロードゼルブ家の現当主だね。カイリのことを見に来たのかな?」
小声で囁き合いながら、カイリはもう一度アレックスと名の付く男性を見やる。
彼は、一心にカイリの方を凝視していた。こちらが認識しているのも構わずに、ただじっと見つめてくる。
その意味は、一体何を指し示すのか。
急いでいることを口惜しく思いながら、カイリは振り切る様に支配人の部屋を目指した。
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