第256話
ことん、とカイリの目の前にカップが置かれる。
図書室のテーブルに座り、フランツに肩を抱かれながら、カイリは必死に怯える心を落ち着けていた。
隣ではシュリアが厳しい目で書物に目を通している。テーブルを挟んだ向かいでは、エディやリオーネも他の書物に目を通し、少し険しくなっていた。
レインがカップを乱雑に置いた後、一冊の書物を手にする。
それは、カイリが最後に読んでいた本。『ある聖歌騎士の、日誌』だ。
「――っ」
視界に入れた瞬間、ぶるっとカイリの体が大きく震える。すぐにフランツが力を入れて抱き締めてくれたので落ち着いたが、それでもまだ、心臓が怯える様に伸縮していた。
「……確かに、この本も文字が書かれているな。シュリアには見えねえの?」
「ええ、そうですわね……。冒頭だけは、辛うじて読めましたけれど……後は、真っ白にしか見えませんわ」
「すみません。ボクは、ぜんっぜん。むしろ、書かれてるんすか?」
「はい。書かれていますね。私は半分くらいまでは読めました」
レイン達が、それぞれに結果を口にする。
そのばらつき具合に、カイリは不穏なものしか感じられない。フランツが、ふむ、と唸ってレインが持つ本を受け取った。
「俺も、冒頭のみだな。レインはどこまで見えるんだ?」
「……。……割と、最後の方までだな」
「……それは凄いですね。私は半分ですが、……カイリ様は、全部読めたんですよね?」
「……、……うん」
力なく頷くと、全員が一斉に眉を
先程から、手の震えが収まらない。小刻みに振動して、何かを掴むのも一苦労だ。
「カイリ、まずは飲むと良い。体を温めれば少しは落ち着く」
「……、はい」
手を伸ばすが、依然として震えが止まらない。カップの持ち手に指をかけるが、このままだと落としてしまいそうだ。
かりっと、持ち手を引っ掻いてしまった指をもどかしく思っていると、シュリアが「ああ、もう」と苛立った様にカップを引っ
「早く飲みなさいっ。まったく、子供ですの!」
「……ごめ、……わぷっ!」
言うが早いが、シュリアがさっさとカップをカイリの口に付ける。そのまま少しだけ傾けられて、カイリは慌てて口を少しだけ開いた。
こくっと、舌に広がって喉を伝う温度が心地良い。ほろ苦い甘さも恐怖を解き解す様に溶けていって、ようやく人心地ついた様な感覚になった。
「……、美味しい」
「おうよ。オレが淹れたココアだしな」
「はい。……ありがとうございます」
胸を押さえて、深呼吸を繰り返す。
一人でないという事実が徐々に広がっていき、カイリの震えが小さくなっていった。
落ち着いたのを見計らって、フランツが声をかけてくる。
「カイリ。お前は、……昨日のケント殿とのやり取りで、異世界や転生のことなどを調べようと思ったのだろう?」
見透かされている。
フランツ達に打ち明けたわけではないが、カイリは分かりやすいのだろう。きっと、朝食の時に既に気付いていたのかもしれない。
観念して、カイリは全て白状することにした。
第十三位は、決して馬鹿にする様な人達ではない。
「俺、……この前ケントに転生の時のことを聞かれて、……大事な記憶が抜け落ちていることに気付いたんです」
カイリは、ケントが死んでから自分が死ぬまでの一週間の記憶が綺麗さっぱり抜けている。辛うじて葬式のことは覚えているが、よくよく辿ってみると、とても不自然な穴だ。
逆に、ケントは転生の時の記憶を持っている。口振りでそう伝えてきたのだから間違いない。
それに。
「それから、昨日、ケントと話していて。……あいつが、前世について俺に嘘を吐いていることも知りました」
「……、嘘だと?」
「はい。……でも、多分普通に問い詰めても、ケントはしらを切る。だから、……記憶を取り戻さないと同じ土俵に立てないと思って。……少し、焦ったのもあります」
だから、今日は一日中図書室に引きこもり、転生や異世界に関係する情報を収集しようと決めたのだ。
けれど。
「……あの。……他の本はどうですか。真っ黒に塗り潰されていたり、しませんか」
カイリの質問に、フランツ達が無言で書物を
時折手を止めたりしながらも、ばらららっと、確認作業を進めていった。
「……確かに、ちょっとひでえな。教会の検閲の関係で、都合の悪い部分は塗り潰されるってのはあるけどよ。ページ全体を、ってのは……今まで見たこと無かったぜ」
「そうですわね。……しかし、……ここにある本はどれも、わたくしの記憶にある限りは見たことがありませんわ」
「え?」
「あなた、ここで見つけたんですわよね?」
「え、あ、ああ。……十番目の棚の中間あたりに、ごっそり抜けている箇所があると思うけど。そこから取ったから」
カイリが指し示すと、フランツを残して全員が確認に行く。
程なくして戻ってきた彼らの顔は、渋面になっていた。不可思議なものを目撃したと言わんばかりの表情に、カイリは一気に不安に陥る。
「あ、あの」
「……あの棚、何だ?」
「え?」
「えっと、……ホラーみたいなんすけど。新人、ボク達あの棚、初めて見た気がするっす……」
「――っ」
瞬間。
がたっと、例の本が嘲笑する様に動いた。
カイリが反射的にフランツに
だが、それっきり、その本は何も反応はしなかった。ただ行儀良く静かに横たわっている。
「……えええええ。な、何なんすか? 本当に、ホラーっすか?」
「いや、……そもそも、いきなりあの棚が出現したって時点でおかしいだろ。……もしかしたら、カイリに反応したのかもしれねえな」
「……、俺、ですか?」
「ああ。……カイリの考えている通り、お前が転生した時のことが鍵になってる可能性はあるな。狙われてんのか、……危険視されてんのか。分からねえけど、確実に意味はあるだろ」
レインが苦々しく述べる推測に、カイリは目を伏せる。
一体転生の時に何があったのだろうか。思い出そうとしても霧に隠された様に何も見えないし、もどかしくて堪らない。
「……カイリ様が読めた最後の数ページ。……何となくですけど、聖歌の様なものが刻まれている気がしますね」
「……聖歌ですの?」
「はい。聖歌かどうかは正確には分かりませんが……微かにですけど、声が聞こえます。……ただ、随分古い様な……少なくとも、私には何を歌っているかは分からないですね」
リオーネがしげしげと最後の方のページを凝視する。そんなに凝視して大丈夫かと不安になったが、彼女はにこりと不敵に笑った。
「私は読めませんので。むしろ、破り倒したいです」
「……、そ、そうか」
「これは、……読める者を限定している気がします。途中までは本人の手記で、それ以降やこの本自体は……誰かが細工した様な、書き手本人の狂った心が何かしらの形で刻まれた様な、そんな雰囲気を感じさせますね」
「……何のためにだ。そもそも、カイリがこれを読むに値するということか?」
「……カイリ様は、この中で一番聖歌を使いこなせている聖歌騎士です。記憶もそれこそ大量に保持していますし……。カイリ様。最後の方は、何が書かれていたのですか?」
リオーネに問われ、カイリは一瞬言葉に詰まる。どくどくと嫌な風に心臓が脈動し、指先が震えた。
だが、ここで口を
「……お前は、聖歌の生贄だ」
「――」
「この本には、書き手である聖歌騎士がだんだん教会や教皇の手によって狂っていく様子が書かれていて……お前も、こうなる、と。……シュリアが来てからは、言葉が変わって、……っ」
〝さ あ た い せ つ な も の こ ろ そ う〟
「――――――――っ!」
瞬間、ぶわっと本に広がった残酷な光景が脳裡を塗り潰す。
大切な父や母、前世のケントの死にざま。
まるで見せつける様にカイリの心臓を殴り飛ばし、狂え歌えとせせら笑っていた。
「は、……っ! ……、さい、ご、はっ」
「……カイリっ。どうしたっ」
「最後、は、――っ」
駄目だ。言えない。
まさか、両親達の
ましてや。
――大切な者達を殺せと本に推奨された、なんて。
そんな恐ろしすぎる言葉など口にしたくもない。説明だけだとしても、胸がぐるぐると吐き気で酷く揺さぶられた。
それに、もし言葉という形にして、現実になったら。
〝お ま え の せ い で み ん な し ぬ〟
「……っ」
言えない。絶対に、言いたくない。
言葉とは時として恐ろしい力を発揮する。決まっていない未来の形を、人の不安や恐怖で決定付けてしまうかもしれない。
故に、カイリはそこを何とか避けて伝えることにした。フランツ達が辛抱強く待ってくれていることに感謝しつつ、――全てを口にしないことに罪悪感を覚える。
「とにかく、……歌え歌え、……と。……そして、本当の本当に最後に」
躊躇ったのは、一瞬。
けれど、ここで折れたら、カイリは一生負けたことになってしまうだろう。それだけは、決して許せない。
「――全ての元凶、カイリ・ヴェルリオーゼ」
「……っ」
「呼びかけてくる様に、そう書かれていました」
言い終えた瞬間、フランツのカイリを抱く腕が強くなる。シュリア達も忌々しそうに本を睨みつけた。
「……野郎。挑発してくれんな」
「明らかに敵意を持たれていますわね。……しかし、おかしいですわ」
シュリアが
「彼の名前は、確かに今はそうですが……昔は、違いましたわよね?」
「ああ。カイリはカーティスの息子だからな。カイリ・ラフィスエムが昔の正式な名前になる。……つまり」
「ええ。この本は、今の彼に語りかけている。……リオーネ。その聖歌らしきものは、持ち主の現状を認識しているということですの?」
「……そうなりますね。生き物の様で、少し不気味ですが。……私は、その『聖歌の生贄』というのが気になります。カイリ様が、その条件に当てはまっているということでしょうか……」
リオーネの難しい顔に、カイリは見えない視線に絡め取られる様な恐怖に囚われた。
リオーネも聖歌騎士だ。けれど、彼女は半分までしか読めない。
カイリとリオーネの違いは何だろうか。記憶の保持の量など、そういう単純なものしか思いつかない。
だが、そんな単純な線引きがこの得体の知れない本に通用するだろうか。答えは、否だ。
「そういえば、ケント殿ってどうなんすかね。これ、読めたりするんすかね」
「……、え?」
軽い口調で、エディがケントの名を出してくる。
カイリが愕然としたのに気付かないまま、フランツも乗る様に同調した。
「そうだな。……嫌な思いをさせてしまうが、事情を説明して読んでもらうか。クリス殿にも協力を――」
「――っ! 駄目ですっ‼」
「―――――――――」
ばんっと机を叩き、カイリは力の限り叫んだ。全てを掻き消す様にがなるカイリに、フランツ達が一斉に目を丸くする。エディは驚きのあまり、椅子ごと引っ繰り返った。
ケントに頼む。この不吉な本に触れさせる。
前世のケントの死に様をまざまざと映し出したこの本を、近付ける。
そんなこと、許容出来るはずがない。
「……っ、駄目です。ケントは、……っ、……ケントは駄目ですっ!」
「カイリ? 何故だ。昨日の村の件では、お前は冷静にケント殿に協力を仰ぐのが正しいと判断しただろう? 今回だって」
「でもっ!」
「カイリ、落ち着け。……確かに続けざまに協力を要請するから、こちらとしても苦しくはあるが――」
「あ、そ、そうです! そ、それに、……フランツさんだって言っていたじゃないですか。何でもかんでも俺はケント頼りだな、って」
「……。……カイリ。それは」
「だから、その、お、……俺達だけでまずは解決を試みるべきです。だって、……だって、これは、外に出なくたって、……調査が。……出来ますし」
どんどんと語尾が下がっていく。
我ながら苦しい言い訳だ。分かっている。こんな駄々を捏ねたって、彼らが納得するわけがない。しかも、自分でも驚くほど挙動不審だ。絶対不審に思われた。
けれど、どうしても嫌だった。ケントをこの本に対面させるのが。ケントの死を強く突き付けた本を、彼に触れさせたくない。
もし、この本を目にした彼が、前世の死に様を思い出したら。
もし。
〝 こ ろ し て や る 〟
――また、前世の様に、無残な死を辿ってしまったら。
「……っ、……は……っ」
カイリは、耐えられる自信が無い。今度こそ壊れる。
あの本は大切な者を殺そうと誘ってきた。殺してやると宣告してきた。
ただでさえ既にフランツ達を巻き込んでいるのに、これ以上危険に
嫌だ。――嫌だ。
お願い。
〝――カイリっ‼〟
〝愛しているわ、カイリ〟
〝……愛している、カイリ〟
もう、これ以上――。
「……カイリ。やはり、ケント殿にも協力を仰ごう」
「――っ」
――嫌だっ。
反射的に出そうになった抗議を、カイリはぐっと飲み込む。
分かり切った結論だ。それ以外に道は無いと、本当はカイリ自身嫌というほど理解しているのだから。
「お前が何に怯えているのかは分からないが……、それでもこの本については、これ以上俺達だけではどうにもならない。ケント殿は俺達より聖歌や世界の仕組みについても詳しい様だし、新たな一面を示してくれるかもしれん」
「……、……っ」
「クリス殿は、ケント殿より更に博識だ。俺は、後悔しないためにも彼らに協力を要請する。……お前が己の信念を突き進んだ様に、俺も己が信じた判断を進む」
「……、……フランツ、さん」
昨夜の件について、自分が言ったことがそっくりそのまま跳ね返ってきた。
フランツも分かっていて、
「カイリ。どちらにしろ、このまま放置は危険だ。……生贄とやらに、お前をさせるわけにはいかん」
「……」
「打てる手は全て打つ。……それに、これが記憶を取り戻す鍵になり、打開策も見つかるかもしれないだろう」
「……、……はい」
フランツの真剣な眼差しに、カイリもとうとう小さく頷いた。
そうだ。彼らに助けを求めたのだ。
そして、彼らはカイリの言葉を信じてくれている。彼らの真っ直ぐな優しさが、今のカイリには一番の良薬になった。
今のカイリは、一人ではない。一緒に立ち向かってくれる仲間がいる。
だから、きっと。
〝カイリー! おはよう! 今日もむっすりしてるね! 笑って笑って!〟
〝私は一緒に行けないけど。母さん、ちゃんと
〝父さんの心は、いつでもお前と母さんと共にあるからな〟
「……っ」
きっと、――。
「……分かり、ました」
「うむ」
「……、……ありがとうございます」
「ああ。……カイリ、クリス殿と連絡を取ってくれるか? 確か、笛をもらっていただろう」
「はい。……ケントにも知らせてくれる様に、お願いしてみますね」
一度笛を吹き、カイリはクリスの鳥を呼び寄せる。
程なくして、眼前に鳥が舞い降りる様に姿を現した。いつ見ても綺麗な真っ白さだ。クリスに大切にされているのがよく分かる。
カイリは急いで書いた手紙を、鳥に渡す。恐怖で文字が乱れてしまっていたが、贅沢は言っていられない。
「これ、頼むな。……クリスさんに、迷惑ばかりかけてごめんなさいって伝えて欲しい」
カイリの懇願に、鳥は一度だけぴいっと高く鳴いた。
任せろ、と言わんばかりにくるんとカイリの頭上を旋回し、そのままふっと空気に溶ける様に姿が消える。ふわっと、羽が舞う様に空気が緩み、カイリの心も解れる様に少しだけ軽くなった。
不思議な感覚だ。あの鳥は一体何者なのだろうと、少しだけ疑問が湧く。
「さて。……二人に相談するまで、この本どもは保存しておきたいが……」
「……全員離れて、いつの間にか全部消えてましたってのは勘弁願いたいな。……食堂に持ってくか」
「正直、ここで待機するのも気が滅入りますわ。明るい場所にいて、存分に光を浴びてもらいますわよ」
「……シュリアちゃん。嫌がらせ、ですよね?」
「姉さん、……ツンデレっす」
「ツンデレではありません!」
きいっと唸るシュリアに、レイン達が笑いながらそれぞれ本を持ち出す。
カイリも何か持とうとしたが、フランツが遮る様に本から遠ざけた。シュリア達も何も言わずに、しかしカイリから隠す様に持ち直す。
彼らは、カイリの話をきちんと聞いてくれる。一緒に立ち向かおうとしてくれる。
それは、カイリにとっては希望だった。死んでしまうかもしれないという恐怖が、少しずつ縮んでいくほどに。
――俺、果報者だな。
どんなに苦しい状況に陥っても、助けてくれる誰かが、支えてくれる人達がいる。
その幸せに、カイリは感謝しながらフランツの腕に額を預けた。フランツもしっかり受け止めてくれる。
そんな風に、カイリが己の心に必死に集中していたからだろうか。
それを眺めていたシュリアが、一度だけ見透かす様に目を細めていたことに、カイリが気付くことはなかった。
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