第208話


 ケントの微笑みの前に、眩い光が降り立っている。


 それを見ながらゼクトールは、一体何が起こっているのかと混乱していた。むしろ、何故ケントが平静でいられるのかと、疑いの眼差しが色濃くなっていく。

 だが、ゼクトールが混乱している合間にも、光は形を取って緩やかに収束していった。ふわりと宙に浮かぶその存在は、真っ白な羽を広々と伸ばし、穏やかな笑みをたたえて二人を見下ろしてくる。

 艶やかに周囲を照らす金色の髪に、漆黒の夜空を思わせる深い瞳。夜明けの眩い光を、更に心洗われる空気へと昇華していく。

 何より、人ととは思えぬほどに整い過ぎた顔立ちだ。美という存在を表すのならば、こういう者を指すのだろう。膝を折りたくなるほどに、清廉で高貴な風が辺りに舞い上がっていた。

 しかし。


 ――胡散うさん臭い。


 清廉で高貴という印象に反して、ゼクトールは心の底で根深く疑心が止まらない。何故、と思うのに、思考が麻痺した様に停止する。

 そんな彼は、ゼクトールの思考を見透かした様な眼差しを注ぎながらも、そこらの石ころの様にどうでも良い顔をしてケントに向き直った。



「ケント、ですか。私を覚えているとは思いませんでした」

戯言ざれごとを。僕をこの世界に転生させたのは君だよ。……カイリを呼び寄せたのも、君だ」

「ああ、そうでしたね」



 まるで忘れていたと言わんばかりの軽口だったが、ケントを見下ろす視線に油断は無い。

 この二人の関係を称するのに、ぴりっとした緊張感などとは生温い。今にも地割れを呼び起こす様な隔たりを、ざっくりと切られる様に肌で感じた。


「……しかしまさか、強引に眠りから叩き起こされるとは思っていませんでしたよ。せっかくゆっくりと次の転生者を探していたというのに」

「だって、会いたくて仕方が無かったんだもん。毎晩恋焦がれて恋焦がれて、夢の中で君の首を掻っ切りたくなるほどにね」

「それは熱烈ですね。夜道には気を付けるとしましょうか」


 先程から、とんでもない暴言がケントの口から飛び出す。

 しかもそれを受けるフュリーシアとかいう羽の生えた青年も、さらっと返すあたり同類な気がした。

 しばらく笑顔で真っ黒な空気を醸し出していたが、やがてケントが口火を切る。



「教皇の交代は必然。でも、……それはあくまで『自然』な交代だった場合」

「……」



 ケントの静謐せいひつな言葉に、青年は無言。

 だが、ケントは構わずに続ける。


「もし教皇もそれを守る騎士も役に立たなくなったら、気が気でない。だって、自分の『餌』を確保する手段が無くなるから」

「……」

「だから、非常事態を引き起こせば、君が降りてくるかもって。当たったね」

「……はあ。そんなことまで調べているのですか。貴方は本当に面倒ですね」

「会いたかったんだから仕方がないじゃない。……でも。今日は、何だか転生した時と雰囲気が違うね?」

「そうでしょうか? ……何故でしょうね」


 青年は一瞬考える素振りを見せ。

 けれど、とても遠くを見る様に目を細めた。



「……。……懐かしい歌を、聞いたからかもしれませんね」

「……。あ、そう。まあ良いや」



 訳の分からないまま、真実を爆発させて話は進んで行く。

 教皇が殺されたら、降りてくるとでも言うのか。

 つまり、教皇――エイベルの死が引き金になって、この青年が降り立ったということになる。あまりに真実が超越し過ぎていて、ゼクトールの頭は既に飽和した。


「今の君なら、話は通じそうだね。……本当に、何かあった?」

「特に何もありませんでしたが……。……まあ、私であることに変わりはありませんよ。何か話したいことがあるのならば、どうぞ」

「良いよ。……君が了承してくれたなら、嬉しいんだけど」

「まあ、話の内容によりますね」


 ぽんぽん進んでいくが、本当に何も分からない。雰囲気が違う、とか一体何の話だろうか。

 だが、説明など一切されないまま、彼らの会話はさも当然の様に進んでいき。



「カイリのこと。……もう少しだけ、大人しく見守っていてくれないかな」



 青年の表情から、笑みが落ちた。

 その瞬間、凄まじいほどの冷気が吹き荒れる。心臓ごと凍り付かされる様な殺意に、ゼクトールは必死に歯を食いしばって耐えた。

 だが、ケントには涼しい風にしかならないのか、笑ってさえいた。楽しそうに――憎々しそうに。目を細めて彼は受け流す。


「カイリは、僕のものだ。僕だけのものだ。……他の奴に邪魔されることほど、腹立つことは無いんだよね」

「……。……彼は、貴方の人形にはなりませんでしたよ」

「人形? っ、ははっ」


 おかしそうに一度、ケントはわざとらしく笑い飛ばし。



「――冗談。元々、僕こそが人形でしょ?」



 くっと、薄く微笑んだ。

 底意地の悪いその笑みは、深く落ちる闇が吹雪いて堪らない。目にした者全てを奈落の底に叩き落す様な彼の黒さに、ゼクトールは意識を持っていかれない様にすることで精いっぱいだった。


「ねえ、そうでしょう? だって、君は最初からカイリを狙っていた。彼を依り代にするにしろ、殺すにしろ、君にとってはカイリだけが狙いだった。……この世界に転生させるために、君は僕達の世界に働きかけていた。そうだったよね」

「……」

「僕の存在こそがイレギュラーだったんだ。全てを従えるはずの神にさえ、想像から外れた現象は起こるというもの。……ねえ? フュリーシア?」


 語り掛ける彼の口調は、端々だけではなく芯までどす黒い。

 青年の表情からは、笑みだけではなく感情そのものが落ちていった。すなわち、ケントの言い分を認めたことに他ならない。


「……貴方は、本当に転生前から彼が大好きですね。良いのですか? このままでは、彼は貴方の意のままには動いてくれませんよ」

「……」

「転生する時、貴方は私に取引を持ちかけました。貴方とカイリの二人で、私の願いを果たしてくれると。結果的に彼が転生したから乗ることにしましたが……、今のところ上手くいっていない。貴方だけで、果たして私の願いを叶えてくれるのでしょうか?」

「上等。彼の意思で僕の元に来てくれないと、それこそ意味が無いし、カイリじゃないよ」

「……」

「彼は彼のままで、僕に力を貸してくれないと駄目。……そうでないと、結局カイリは君にされるでしょう?」


 難解な会話がゼクトールの外側で繰り広げられる。

 話題が、カイリに焦点が当てられているのは理解出来た。

 しかし、その先が全く読めない。

 何故、カイリがケントのものにならなければならないのか。人形にならなかったとはどういうことか。

 そして、一つだけ分かったことがある。

 先程、この青年は、カイリという存在を始めはさらりと流していたが。


 今のあの無表情が、無視出来ない存在であると白状していた。


「……貴方の言うことを聞くにしても、懸念があります。彼は、他の神と契約しているようですから」

「そう。つまり、君との契約は反故ほごにしたんだね」

「……ケント。何故、そんなに楽しそうなのです?」


 不可解そうに、青年が眉をひそめる。その顰め方さえ綺麗なのは、超越した存在だからだろうか。威圧感さえ覚えた。


「楽しそう?」

「ええ。……本来、だったのですよ」

「……」

「貴方は、巻き込まれただけです。それなのに、貴方は」

「僕は、カイリが生きていなければ意味がない。巻き込まれた? 違うでしょ。僕は僕の意思で彼を守って死んだ。昔も、今も、そのためだけに生きている。それに、……」

「それに?」


 青年の問いに、ケントはひどく幸せそうに笑顔を咲かせた。



「カイリは、追いかけてきてくれた。僕にはその事実だけで充分だ」



 嬉しそうに――心から嬉しそうに、ケントが破顔する。

 その笑顔は、無邪気でありながらも純粋な残酷さが滲み出ていた。青年も一瞬だけ、強張った様に見える。

 ケントが、カイリに執着しているのはゼクトールも理解していた。彼や家族以外に興味が無いことも調査で分かっていた。

 しかし。



 ――それ以上に真っ黒な感情が、カイリに真っ直ぐに向けられている。



 純粋過ぎる黒い気持ちを嗅ぎ取り、ゼクトールはこの時初めて、彼が自分の手に負えないことを知った。


「本当は、転生しないのが一番だったのにね。カイリは、約束通り僕を追いかけてきてくれたよ。ねえ、フュリーシア? ――?」

「……」

「これで、僕の有用性が大きく証明されたわけだ。予定外の存在でも、役に立つでしょう?」

「……、ええ。……正直、そこまで覚えているとは思いませんでしたけれど」

「僕が、カイリに関することを忘れると思う?」

「……。愚問でしたね」


 呆れを装ってはいるが、青年はわずかに押されている。ゼクトールには分からなくとも、分が悪いのかもしれない。


「今は上手くいっていない。でも転生の時のことを考えれば、僕という存在で、カイリを意に沿わせる可能性は充分ある。そうは思わない?」

「……。そうかもしれませんね」

「うん。だからこの先、カイリは『生きたまま』僕のものになって、君の願いを叶えてくれるかもしれないよ。そう、もっと言うなら、『自分の意思を持ったまま』。君が一番望む通りに」


 だんだんと話が混線していく。

 彼は一体何を言っているのだろう。青年の願いのために、カイリだけではなく、ケントも転生させたと言っているのか。

 ならば、ケントはカイリにとって人質になるということだろうか。これだけ自由に動いている様に映るのに、不可解だらけで困惑する。



「……ねえ、フュリーシア。また賭けをしない?」

「……どの様な?」

「僕の元に、僕の思惑を知った上でカイリが来るかどうか」



 当然といった風に提案するケントに、青年は押し黙った。

 ケントはとても輝かしく笑っている。

 それなのに、滲み出る覇気は真っ黒に染まっていた。底が見えないほどに深く、深淵を覗き見るのさえおこがましく思えてくる。


「次の教皇は、そうだなあ。あのいつもがみがみうるさい司教で良いかな」

「……そこの男では駄目なのですか」

「駄目だよ! 彼は、枢機卿としてこれから馬車馬の様に働いてもらわないと」

「……。……貴方のために、ですか」

「そう。……だって、カイリを痛めつけた張本人なんだから。教皇になって、君の操り人形になる? 駄目。そんな楽な道、選ばせてなんてあげない。――選ばせてなるものか」

「――」


 ぞっとするほど黒い満面の笑みだった。青年の方も、歯切れ悪く気圧されている。

 ゼクトールとしても、堂々とケントの操り人形宣言をされ、反駁はんばくしそうになりながらも圧倒されてしまった。


 今、反論を唱えれば、彼は問答無用で首をねてくるだろう。


 それほどの威圧感がにこやかに発せられていた。触れるだけで肌が斬られる様な錯覚に、ゼクトールは歯を食いしばって堪える。

 しかし、青年がケントを転生させたという話が本当であるのならば、かなり強い力の持ち主のはずだ。

 それなのに、ケントの方がよほど底知れぬ何かを感じさせる。不服そうにしながらも耳を傾ける青年に、ゼクトールは場違いながら同情すら覚えた。


「ゼクトール卿は、僕の手足になるとして。僕も、第一位の団長という利用できる立場を捨てるのは嫌。だから、次の教皇は司教で」

「……私は、極論誰でも構いませんよ」

「そう? 良かった」

「――っ、ケント殿っ」


 先程から、とんでもない提案ばかりが畳み掛けられていく。

 あまりに惨憺さんたんたる申し出に、堪らずゼクトールが口を挟んだ。

 だが、ケントは振り返ってにっこりと邪気のない笑みを向けてくる。

 その奥でうごめく執着が、どろりと纏わり付く様にゼクトールの心に伸びてきた。命を握られる様な感覚に、ゼクトールは自然と武器を構えそうになるのを堪える。


「黙っていて下さい、ゼクトール卿。カイリを酷い目に遭わせたこと。さっきも言ったけど、僕は一生許さないですよ」

「……っ」

「まあ、僕も同罪だけど」


 肩を軽くすくめた彼の声は、しかし軽い。

 まるで予定調和の様にそらんじる彼は、果たして何処を見つめているのか。ゼクトールには全く計り知れない。

 ただ。



 カイリの存在が、思った以上に重要な位置にある。



 それだけは、何も分からないことだらけのゼクトールにも十二分に理解出来た。


「ねえ、フュリーシア。僕は転生する時の君との契約を反故にするつもりはない。それは絶対だ」

「……」

「もし見守っていてくれるなら、教皇を通して少年少女を食い物にし、生命を吸い取るのも、仕方がないから見逃してあげるよ。そうじゃないと、そもそも僕達人間がこの世界で生きていられないんだし」

「……。……いえ」


 ふうっと青年は疲れた様に息を吐く。

 そして、ゆるりと首を振ってまぶたを閉じた。



「しばらくは、少年少女の命は必要ありませんよ」

「え?」

「言ったでしょう? 懐かしい歌を聞いた、と。……本来、私達に必要なものは

「――――――――」



 にっこりと妖しく笑う青年の吐露とろに、ケントはわずかに目を見開いた。どこか固まった様な横顔に、ゼクトールは彼にとっても予想外の真相なのだと知る。

 ケントが何事かを言おうとしたが、その前に青年が話をあっさり戻してしまった。この青年も存外食わせ者に過ぎる。


「二度目の賭け。自信はあるのですか」

「……。うん。僕は、僕の力でカイリを僕のものにする。僕の力になってもらう。そして、君の願いと共にいさせてあげる。世界のうみを浄化してあげる」

「……」

「だけど、そうだね。どれだけ力を費やしても、どれだけ手段を尽くしても、どうしてもそれが出来なくて、……カイリに負けてしまったら」


 ケントは一度言葉を切り、目を伏せる。

 その横顔に満ちたのは、一瞬の苦渋。

 だが、迷いなど微塵も見当たらなかった。再び開かれた胡桃くるみ色の瞳に宿るのは、揺るがぬ決意の灯火だ。



「僕が、カイリを殺すよ」

「――――――――」



 静謐に、波立たぬ水面の様に、綺麗にケントは宣言した。

 ひどく清冽せいれつな響きに、ゼクトールは刹那的に呼吸をするのを忘れてしまう。青年も同じだったのか、食い入る様にケントを凝視していた。

 澄み切った空気が、辺りに広がって行く。

 それなのに、足元から揺るがす様な薄暗い不安が、ゼクトールには見えない薄靄うすもやの様に映ってならなかった。


「カイリを殺すのは、僕だ。殺して良いのは、僕だけだ」

「……」

「殺したカイリを君に引き渡して、その後、僕も死ぬよ。だって、『生きた』カイリがいない世界に意味なんてないから」


 さらりと、何でも無いことの様に告げてくる。

 唸る様に、青年の周囲が震えた。彼をまとう圧倒的な光の気配が、戸惑っているのだと本能的にゼクトールは察する。


「……。……今の家族を、捨てでもですか?」

「――、……」


 今度はケントが口をつぐんだ。

 けれど、すぐにさみしそうに笑って頷く。



「うん。捨てるよ」

「……」

「今の家族も大切だ。彼らのためなら死んでも良い」

「……」

「でも、カイリはそれ以上なんだよ。……前世の頃から、ずっと。カイリは、僕にとってたった一つの光だった」



 淡々とした硬い決意の声は、けれど何故か滲んでいる様にゼクトールには聞こえた。

 青年も、もう何も反論をしない。ただ黙って、ケントの言葉に引き寄せられていた。


「だから、しばらく大人しくしていて。待っていて」

「……」

「君にとって、思い通りにならないカイリは危険だし、いざとなったら、意思も記憶も、命さえも奪って人形にしたいだろうけど。僕にとっては、生きる意味なんだよ。確実に願いを叶えたいのなら……邪魔をしないで」


 淡々と、ケントが熱望する。

 青年としては、あまり良い駆け引きではなかったのだろう。僅かだが眉根が寄っていた。底知れぬ圧が地中深くから湧き出てくる様で、びりびりとゼクトールの肌が焼け切れていくほどに痛い。

 対するケントはぐ様な無表情だった。

 しかし、彼の体からも巻き上がる炎の様に殺意が吹き荒れている。青年の波動とぶつかり合うたび、爆ぜる衝撃が切れる様に襲ってきた。

 しばらく二人は過激に激突していたが。



「……貴方の心意気は買いましょう」



 切り上げたのは青年の方が先だった。

 青年は消耗したらしく、顔色があまり良くはない。眠りに就いていたと言っていたから、元々長くは活動出来ない身なのかもしれないと密かに推測を立てる。


「ただし。彼は、『邪神』に対する切り札でもあります。あまり、命を散らして欲しくはないものです」

「……、……邪神?」


 ケントが初めて疑問を呈する。

 知らない単語の様だ。ここでようやく、青年に主導権が渡った様に空気が揺らぐ。

 しかし、青年はまるで相手にしない。ただ、淡々と、――どこか遠くを見る様に目を細めてからまぶたを閉じた。


「……。喋り過ぎましたね」

「……フュリーシア。邪神って――」

「賭けには乗ります。今一度見守ってみましょう」


 ケントの質問を遮り、青年は淡々と話を進めていく。

 ケントの顔がにわかに物騒なものへと変化していったが、青年にはまるで効き目はなかった。ふっと瞼を閉じていき、体も淡く薄れていく。

 しかし。



「……ケント」

「何、……――」



 呼びかけて、青年が開いた瞳は金色に眩く輝いていた。

 先程の、業の深さを思わせる夜の色とはまるで違う。

 太陽の様に激しく、月の様に静やかに。

 相反する輝きを宿す青年の双眸そうぼうは、全てを照らし出す如き神々しさを強烈に放っていた。

 ゼクトールだけではなく、ケントも吸い寄せられる様に見上げる。まるで神を仰いでかしずく様だと、馬鹿馬鹿しくも考えてしまった。


「……、……この先。カイリの歌を危険視する者が動き出すでしょう」

「――……」

「彼は、今のこの世界において『禁忌』を侵す可能性がある。それが証明されつつありますからね」

「……。……そうだね」

「彼を狙う者達は、今までの敵とは違い、明らかに殺意を持つはずです、……っ」


 一瞬、苦しそうに青年が顔を歪める。

 一体何をこらえているのか。まるでゼクトールには見通せない。

 ケントはどうなのだろうかと探るが、彼の淡々とした横顔からは読み取れなかった。


「だから……」


 静かに瞬きをする合間に、青年は表情から苦痛を消し去った。

 そして。



「……本当に、守り抜きたいのなら。最後まで守り抜いてみせなさい」

「――――――――」

「貴方の賭けとやらが、どれほど功を奏すかは分かりませんが」



 ――期待していますよ。



 その言葉だけを残して。

 ふつっと、青年の体が泡の様に溶けていった。淡く発光しながら辺りにふわふわと舞い散り、そのまま霧の様に消えていく。

 そうして静寂が戻った頃。



「……はあ」



 どっさりと、ケントが壁に背を付いて座り込んだ。普段の団長然とした彼には似つかわしくない粗雑な態度に、ゼクトールはもはや付いていけない。


「……。……やっぱり。転生の時のあいつと、少し違ったなあ。……」

「……ケント殿」

「話は後にして下さい。……ああ。貴方、運良く死ななかったら、一生カイリの奴隷として働いて下さいね。そうじゃなかったら、洗脳しますから」

「……洗脳」


 さらりと挟まれた単語に、震えが走る。

 つまり、ケントは他者に洗脳を施せるほど強い力の持ち主ということだ。やはり彼の力はそこが知れない。

 しかし。


「僕が洗脳出来ること。カイリには、黙っていて下さい」

「……、何故、……いや。そうであるな。貴殿は、カイリには嫌われたく無い様であるからな」

「ええ。……彼に嫌われても、僕は僕の道を貫くけれど。……やっぱり、死にたくなるほど悲しいと思うので」


 今回の件のことはともかく、洗脳の力のことを知ったら、カイリなら絶対に拒否反応を示すだろう。

 だからこそ、ケントは洗脳された騎士達については、主導権を握っただけなのかもしれない。騎士達を洗脳をしたのではなく、教皇から権利をかすめた。

 確かにそんな離れ業も可能だと聞いたことはあるが、実際に出来る人物がいるとは思わなかった。ケントでこうならば、彼より強いというクリストファーは本格的に底が知れない。


「……カイリ達には、僕から話します。色々誤魔化すこともありますが、貴方は決して口外しない様に」

「……何故、わしには」

「話したくて話したわけではないです。ですが、……今の教皇を、貴方が討ちたがっていた様なので。好きにさせました。……貴方の仕出かすことは一度だけ見逃すと個人的に決めていたので」


 それは、えてゼクトールに教皇を討たせたということか。

 先程の話だと、ケントも教皇をその内討つことを考えていた様に聞こえた。

 それでもゼクトールに譲ったのは、彼に残されているほんの一握りの情か。それとも、打算か。恐らく両方だろうと、希望的観測で片付けた。

 カイリに執着する彼は、およそ執念の塊の様に思える。

 だが、それでも。



 きっと、カイリこそが、彼の人間らしい一面を担い、人として保つための感情の源なのだ。



 正直、ここまで執拗しつように気持ちを向けられるカイリが憐れにも思えたが、同時に彼だからこそ執着を持たれた様な気もする。

 前世での彼らの関係を、ゼクトールは知らない。

 しかし、少なくともケントにとって、カイリは唯一の世界の光だったのだ。

 自分ならそんな関係は嫌だなとも思うが、どこかで羨ましいと感じる自分も居座っていた。



 ――自分にはもう、エイベルはいない。



 唯一の友を失ってしまった。

 この手で討てたことを後悔はしていない。

 だが、救えたかもしれないという道も断たれてしまった。

 けれど。



〝おじいさんは、いつも彼らに餌をやっているんですか?〟



 ――自分にはまだ、彼がいる。



 今更気付くなどもう遅いだろう。

 いや。――本当は、ずっと前から気付いてはいた。

 しかし、気付いてしまったら、エイベルを討つ道が断たれるかもしれない。故に、心の目を閉じて見なかったことにし続けていた。

 もう二度と笑いかけてはくれないかもしれない。それだけ酷い傷を彼の心に負わせてしまった。

 だが、一度は死ぬと決めたこの身。


 我が娘と、そして追い出したカーティスのためにも、使い捨てにされても悔いはない。


「……カイリに死ねと言われたら、死ぬつもりではあるが」

「ええ。その時は、綺麗さっぱり潔く跡形もなく死んで下さい」

「……。だが、もし、……もし、生きることを許されたならば。わしで役に立てるのなら、ケント殿。好きに使え」

「もちろん。ああ、カイリの好きにも使ってもらうので。覚悟して下さいね」

「……うむ。当然である」


 彼と再び顔を合わせた時、どんな反応をされるだろうか。

 恐がられるか、怯えられるか、嫌われるか、――消えることを願われるか。

 様々な覚悟を携えて、ゼクトールは遠くない未来の審判を鉄の心で迎えることを決意した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る