第96話


「エリックさん、これ、なんですか?」


 いつのことだっただろうか。

 エリックが鉢植えの作業をしていると、幼いカイリが恐る恐る問いかけてきた。

 彼は昔から、子供なのに子供らしくない。実に気に食わない子供だった。

 だから、だろうか。



「何って、鉢だよ」

「……。……はい」



 意地悪をしたくなって、見たら分かることを当然に返してやった。

 その時、カイリは押し黙って。

 その後、会話をしたのかどうか。



 今でも、エリックは思い出せないままでいた。











「ふん。こんな夜に晩餐とは、相変わらずお気楽な連中だ」


 今夜、捕獲対象であるカイリが任務を受ける。

 そう聞いたエリック達は、任務先である元第一位団長クリストファーの屋敷のテラスに忍び込み、待機していた。

 予定通りに宴が始まった屋敷の中を観察しながら、黒い外套がいとうまとう男性が毒突いた。エリックも同じ気分だったので、同意する様に無言を貫く。

 今は頭上でも、ちらちらと控えめに星空が輝く静かな夜だ。

 しかし、屋敷の中は楽しげな笑い声に包まれている。綺麗な静寂を引き裂く様な下品な笑い声は、エリックにはわずらわしくて堪らない。


 ――村にいた時を思い出して、気分が悪くなる。


 吐き気さえもよおしながら、エリックは狂信者の仲間と共にテラスの窓から階下を見つめる。

 そこには、教会騎士の制服を身に付けたカイリが佇んでいた。仲間らしき者達に囲まれ、笑っている。

 誰かと話し、そしてまた誰かに誘われて別の人間と挨拶をし、笑っている。

 そう。



 笑っている。



 村が潰れたのに、彼は何も無かったかの様に笑っていた。

 頭を撫でられて、可愛がられて、無邪気に笑っていた。

 村のことなど、何も無かったかの様に。彼は、何の曇りもなく笑っていた。


「……はっ。所詮、そんなもんだよな」


 悪態を吐いてエリックはカイリを脳裏で踏み潰す。何度も、何度も、それこそ擦り切れるほどに踏み潰した。

 そうしなければやっていられない。胸の中で黒くうごめき、波打つ激情を制御出来そうになかった。狂信者達に「一番盛り上がって良い気になっているところで潰すのが最適だ」と言われていなければ、すぐにでも彼を叩き潰してやりたかったのに。

 そうだ。

 村ではあれだけ可愛がられていたのに、あれだけ大切にされていたのに。喉元過ぎれば熱さなど簡単に忘れるものなのだ。



 カイリにとって、あの村は所詮その程度の存在だったということだ。



 馬鹿げている。

 歌えるから、重宝されるから良い気になっているのだ。居場所を失くしてもまた見つけ、上手く世間を渡っていく。そのそつなさに反吐へどが出た。



 ――お前のせいで、村が滅んだのに。



 最初から彼があの村にいなければ、あんなことにはならなかった。大人しく出て行けば良かったのだ。それこそ、教会に連れていかれていれば、悲劇は免れた。

 それなのに。


「……お。やっぱり、宴で何かやるみたいだな」

「偵察から帰った。……道楽連中め、予想通りだ。あと、あのターゲットが、何か見せるとか言っていたぞ」

「……始まるか。集中しろ」

「……始まる?」


 何が。

 問う前に、少し開いたテラスの窓から聞こえてきた声にエリックは意識を持っていかれた。



【――――― ―――――】

   【――――― ―――】



 綺麗で、のびやかな歌声だった。

 つたなくもよく通る少年の声を、高くて綺麗な歌声が笑い合いながら追いかける。



【―――――― ―――――】

【―― ―――――― ―――】



 何を歌っているのか、まるで分からない。発せられているのは確かに言葉なのに、意味がまるで伝わって来なかった。

 しかし。


「……おお」


 感嘆の声が、隣から上がる。

 同時に、ひらっと、目の前で鮮やかな紅葉が舞い降りた。

 それが合図の様に、ひらり、ひらりと、風に踊る紅葉が増えていく。



 まるで雪の様に、風の様に。色とりどりの葉っぱが、吹雪く様に空に舞い上がった。



 目の前いっぱいに広がる紅葉は、圧倒されるほどに美しい。まるで、夕暮れ時の様な黄金色の光が差し込んで、辺り一面が輝きに満ちていく。

 思わず目を奪われずにはいられないほどの圧巻の光景に、エリックは無意識に息を呑んだ。



「……あれは、聖歌か」

「挨拶で何かを見せるとは言っていたが……」

「これのことか……?」



 仲間の男達も、一瞬景色に見惚れていた。エリックも、呆然と夜空を舞い踊る紅葉を見上げてしまう。

 今も階下からは、歌がのびやかに届く。二つの歌声が絡み合う様に、流れる様に空気を伝って世界を満たしていく。


 歌が満ちる度、世界は輝きを取り戻し、楽しそうに、嬉しそうに、手を取り合って踊っていた。


 初めて見る光景に、エリックは心が震える様な感覚に囚われる。どくん、と大きく、何かを求める様に心臓が跳ねた。

 この光景は、見たことがある。

 そうだ。


 見たことがある。


 胸を締め付けられるほどに苦しく、切なく、泣きたくなるほどに懐かしい。

 これは。



〝――うさぎ追いし、かの山〟



「――――――――っ」



 彼の、歌だ。

 彼だけの、彼だけが歌える、彼の歌だ。

 この屋敷でその歌を歌っているのは、二人。彼と、そして仲間であろう少女。

 他の者達なら考えるだろう。これは、彼だけの歌ではない、と。

 だが、違う。エリックには分かる。分かってしまった。

 何故なら。



〝もしもし かめよ かめさんよ

 せかいのうちで おまえほど〟



〝夕焼け 小焼けの 赤とんぼ

 負われて見たのは いつの日か〟



 村で、彼が歌っていた旋律だ。



 彼がよくみんなに聞かせていた歌と、同じだ。歌声が胸を叩くたびに、締め付けられる様な痛みが刻まれる。

 エリックが村を出て以来、時折――本当に時折だが『聖歌』と呼ばれる歌を聞く機会があった。

 彼の歌しか知らなかったエリックは、彼の歌を否定したくて、機会があらばよく聞きに通ったものだ。本物の歌はどれだけ素晴らしいのかと期待を膨らませてもいた。

 けれど。



 ――ああ。何か、面白くないな。



 聞くたびに、落胆した。思い描いていたものと違ったからだ。

 聖歌と言うくらいなのだから、神聖な空気があふれ、神々しい輝きに満ちた、素晴らしく胸を打たれる様な歌だと心のどこかで思い込んでいたのだ。むしろ、そう思いたくて仕方が無かった。

 教会で聞くミサ曲や讃美歌は、確かに威厳に満ち、どこか侵しがたい聖域を連想させる旋律だった。

 素晴らしい。最高だ。本当にそう思った。

 それなのに。


 いつだって、心は全く震えなかった。


 確かに、厳かで神々しいのに。皆が涙を流しながら褒め称えているのに。

 だが、あんな『聖歌』と崇められている歌よりも。

 今、聞こえている。



 ――あいつの、歌の方が。



「――っ!」



 だんっと、エリックは無意識に壁を拳で殴っていた。傍にいた狂信者達が、びくっと驚愕で肩を跳ねさせるのを冷めた目で見つめる。


 ――今、自分は一体何を考えた。


 恐ろしい結論に辿り着きそうになって、エリックは無理矢理頭を振る。振り過ぎて一瞬眩暈めまいがしたが、それでも何とか思考は散らせた。

 はあっと、荒く息を吐いてテラスの向こうを見やると、いつの間にか歌は終わっていた。

 招待客が全員、興奮した様に拍手を送っている。凄い、素晴らしい、とこちらにまで大歓声が届くほどだ。恐らくスピーカーを使っているのだろう。貴族は無駄なことに金を使うのが好きだ。吐き捨てたくなる。


 気に食わない。――そうだ、気に食わない。


 捕える、なんて愚かしい真似、真っ平ごめんだ。狂信者がいくら欲していたとしても、彼が生きたままなど虫唾が走る。毎日顔を合わせるのもご免だ。考えただけでおぞましい。

 なのに、今更。



〝エリックさん〟



「……いま、さら……っ」



 彼が、発端なのだ。彼が、いなければエリックはこんなことにはなっていなかった。

 彼さえいなければ、村だって。

 彼さえ。



〝これ、なんですか?〟



「――っ」



 彼、さえ。



「……、……殺すぞ」

「……は?」



 一際ひときわ低い声で宣言するエリックに、周りが困惑に満ちた声を上げる。

 だが、構うことは無い。別に、最悪彼を殺したとしても、エリックは狂信者の仲間だと、従順であると証明できる。聖歌騎士を一人失うことにはなるが、その代わりに教会から力を奪うことにも繋がるのだ。

 そうだ。何も問題は無い。


「あいつは、危ない。こんな風に、油断させる」

「……油断って」

「お前らだって、あいつの聖歌に一瞬心を奪われたじゃないか」

「……」


 否定出来なかったのか、影達が顔を見合わせる。

 その動揺に付け込み、エリックは淡々と、しかし素早く話をたたみかけていった。


「油断させる様な聖歌に喝采を上げている奴らも邪魔だ。狂信者の目的を妨害されることになるかもしれない」

「……それは」

「全てまとめて始末してやるんだ。違うか? 狂信者は、言うこと聞く聖歌騎士が欲しいんだろう? あいつじゃあ、油断させた隙にお前らの寝首を掻くかもしれないぜ」


 ここにいる者達は、組織の中でもベテラン格、というわけではない。あくまでエリックの監視役で下っ端だ。

 だからこそ、流される。そうかもしれないと、にわかに空気がエリックの思う方向へと流れていった。

 ただ一人、上司だけが不気味なほど静かに見守っている。それでも口を挟まないのは、見極めを行っているからかもしれない。

 どうでも良い。――ああ、どうでも良い。

 今は、彼さえ消せれば。



〝うさぎ追いし〟



 あの声さえ、消せれば。



「……そうだったな。派手な花火を打ち上げるってお前は言ってたんだったな」

「ああ、そうだ。あいつは、戦いが嫌いだ。剣もまともに振るえない奴だ。問題は無い」

「それも、言ってたな」

「じゃあ、……出会い頭にやっとくか」



 テラスの窓から侵入し、仲間達が次々と会場を見渡せる位置に移動する。

 エリックは、武術がそこまで得意ではない。斬り込み役は彼らに任せ、自分はフォローをする役回りになっていた。

 そうして。



「――それが、貴様の最後の聖歌だ」



 鋭く閃く刃と共に、一人が彼へと襲い掛かる。

 エリックだったならば、一瞬で何も気付かないまま死んでいただろう。それくらい素早い一撃だった。


 ――これで。


 エリックの口元が、歪んだ笑みを形作ると同時。



 彼は、一気に後方へ飛んだ。



 信じられないほどの俊敏な動きで、狂信者の一撃をあっさりかわす。



「なっ! 外した……⁉」

「……そんな馬鹿なっ!」



 カイリを攻撃した男も、エリックも、思わず声を荒げていた。

 てっきり即座に討ち取れると思っていた相手が、思った以上の反応の良さを見せてわずかに呆然とする。

 しかも。


「……おい! いねえぞ! あんだけいたボンボン共がいねえ!」

「何だと? どういうことだ……っ!」

「今まで、確かに馬鹿みたいに笑って聖歌を褒め称えていたくせにっ」


 あちこちから、階下へ向かって飛び降りていった狂信者達の悲鳴と戸惑いが空気を裂く。

 エリックが急いで見渡すと、いつの間にか招待客で埋まっていた会場が空っぽになっていた。姿が見えるのは、カイリをはじめとした教会騎士達だけだ。

 ここには、もはや誰もいない。もぬけの殻だ。


「ど、どういうことだ⁉ あいつらは⁉」

「……っ、あ、……っ!? まさか……っ! 聖歌か⁉」

「聖歌で、幻覚を見せられてたというのか⁉」

「馬鹿なっ! そんな高等技術を、この新人如きがやったっていうのか!」


 やっと事態の重さに気付いた彼らが、驚愕から脱した瞬間。



「――彼を甘く見た、そちらの負けですわっ!」

「……っ! ち、ちいっ!」



 騎士の女性が瞬く間に一人の男に詰め寄り、素早く切り伏せた。

 どっと、重々しく転がる男には目もくれず、そのまま別の男と距離を詰めて更に叩き伏せる。

 他の騎士達も鮮やかな動きで一人、また一人と狂信者を討ち取っていく。あまりの格の違いは、武術に素人のエリックでも一目瞭然だった。

 その上。



「くそっ! 舐めた真似しやがって!」

「――っ、舐めたのは、そっちだろ!」



 叫ぶや否や、カイリが躍りかかってきた二人の男の剣を一気にさばいた。右手で木刀を振るい、左手でさやを流し、流れる様な動きで彼らの剣の軌道をいなしていく。

 エリックが知る彼とはあまりに違いすぎる腕前に、激しく混乱した。眼前の光景が認められなくて、手すりを掴みながらよろけてしまう。



 何故だ。何故、彼が剣を振るえる。



 しかも、今の彼は明らかにエリックよりも剣の腕が上に映った。

 剣の稽古では秒単位で負け、村の者達にもあれだけ「才能が無い」と馬鹿にされていたのに。


 何故、あれほどまでに剣が振るえるのだ。


 おかしいだろう。村に帰った四ヶ月前だって、彼は何ら変わっていなかった。八歳近く下の子供に簡単に負けて、頭にコブを作っていたくらい弱かった。

 それなのに。


「……何でだよ」


 何で、と子供じみた声を漏らしてしまう。

 彼は、剣が苦手だった。狩りも駄目だった。エリックの方が剣の扱いは上手くて、狩りで貢献をしていたのも自分の方だった。

 それなのに。



「てめえっ! 木刀なんてふざけた武器のくせにっ」

「生意気なんだよ! さっさとられろっ!」

「……、ふざけてるのは、どっちだよ」



 彼は今、エリックが聞いたことも無い様な低い声を出している。



 気を取られたその瞬間、別の二人が男達を討ち取った。

 彼は、倒れ行く狂信者達を目を逸らさずに見つめていた。真っ向から、彼らの血を凝視していた。

 あれほど血が苦手だったのに。いつも倒れそうなほど青い顔をしていたのに。

 彼は今、恐ろしいほど冷静な顔で死んだ奴らを見据えている。

 それは――。


「……、は……っ」


 嘲る様に笑って、エリックは額を押さえる。おかしくもないのに笑いが零れて止まなかった。

 聞くところによると、村の惨劇に彼は一部始終立ち会ったという。

 狂信者達に連れていかれた故郷の村は、跡形もなく無くなっていた。

 それでも村の者達は綺麗に埋葬されていて、故人を大切に思う気持ちが眠っていたのを覚えている。恐らくそれを行ったのは、最後に生き残った彼だろうと推測も立てられていた。

 彼は、あの日を境に変わったのだ。

 エリックは、変われなかった。

 だが。



 彼は――カイリは、変わった。



 歌を携え、木刀であっても剣を握り、前へ進む決意をした。

 だから。


「……、……何でだよ」


 ぎりっと歯を食い縛って、呪う様に彼を睨む。

 すると、その殺意が届いたのか、彼がエリックを見上げてきた。目を見開き、息を呑んでいた。



「……っ、……エリックさん……っ!」

「――」



 彼は、変わった。



 それなのに、エリックの名を呼ぶ声が変わらない。

 それが、ひどく。



〝エリックさん〟



〝エリックさん、これ、なんですか?〟



 おっかなびっくりに、けれど好奇心たっぷりに話しかけてくる幼い彼が、脳裏をよぎって。



「――っ!」



 瞬間、エリックは強くきびすを返した。そのまま元来た道を戻り、テラスに逃げ込む。


「は、……はっ」


 荒く息を吐いて、呼吸を整える。一緒に心も思考も整えて、エリックはテラスに続く窓を振り返った。

 逃げるわけにはいかない。ここで、彼を逃がすわけにはいかない。

 だから。


「……っ、みんなは、一回隠れてくれないか」

「……し、しかし」

「あいつは、……あいつだけはっ。俺が、この手で殺すんだっ!」

「――……」


 テラスで待機していた者達と、劣勢を悟った生き残り数名がエリックの元へと集まる。

 追いかけてくる気配を嗅ぎ取ったのだろう。エリックの言葉ではなく、事態を把握して彼らは気配を断って姿を隠した。

 そして。


「う、わああああああああああああああっ!?」


 空をつんざく様な悲鳴がだんだんと大きくなり、どしゃあっと何かがテラスに転がり込んできた。

 誰、だなんて聞くまでもない。

 転がっていたのは、一人の少年。夜空の様な黒い髪に、透き通るほどに深い黒曜の瞳。

 その眼差しに貫かれるのが、いつだって辛くて、恐かった。

 そう。誰かなんて分かり切っている。



「……エリック、さん」



 自分が今、一番聞きたくない彼の声。

 村にいる間、ずっと聞いていた鬱陶しい耳障りな歌声。

 ああ。

 本当に。



〝エリックさん、これ、なんですか?〟



「――会いたかったよ、カイリ」



〝何って、鉢だよ〟



 ――こんな風に会いたくなんて、無かったよ。


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