第175話
芯の通った涼やかな声が、空気を軽やかに駆け抜けた。
音色に誘われカイリが顔を上げると、
途端、周囲の空気が変わった。
ざわっと、浮き足立つ様な、遠巻きにする様な、様々な感情が相反する様に乱反射しながら、空気全体を染め上げていく。
かつん、と。高らかに靴音が鳴り響く。
繊細でいて、その実大胆不敵な足音は、その少女の全てを表現する様に辺りに広がっていった。
光り輝く金の髪は緩やかに腰まで流れ、歩くたびにふわりと揺れる。その揺れ方にさえ気品が感じられ、カイリは思わず吸い寄せられる様に凝視してしまった。
大きな
――彼女が、今回の護衛対象。
王女、ジュディス。
認識して、カイリが気を引き締めていると。
「――やーん! カッコ良いー!!」
「――は?」
今の今まで上品に歩み寄ってきた推定王女は、つかつかと
どしーん、と派手にぶつかり合う音が響き渡り、レインが笑顔で拳を握り締めている。痛いらしい。
思わずカイリが声を上げると同時に、周囲の目もぽかーんと呆気に取られた様に点になっていた。特に第十位、そしてファルなどは、今起こったことを無かったことにしたい。そんな顔芸を瞬時に披露している。
だが、周囲の困惑など何のその。推定王女は、気品溢れる登場とは裏腹に、どこまでも庶民的にきゃーきゃー騒ぎ始めた。
「もう、もう! 何よ、このレベルの高いの! 貴方、
「……それはまあ、もちろん。今日は、そのために来たんだからな」
「まあ! 喋り方もフランク! 合っているわ! この容姿に素晴らしく合っているわ! 素敵よ! お父様、最高! たまには気が利くわね!」
ぴょんっと一度器用に跳ねて、推定王女は頬を上気させて叫びまくっていた。もはや道行くアイドルに黄色い声を上げる様なはしゃぎっぷりである。この世界にアイドルがいるかはもちろん、カイリは知らない。
しかし、推定王女に対しても、レインは敬語を使わない。ある意味、彼は大物だ。それでこそ彼らしいともカイリは感嘆した。少しだけ現実逃避がしたい。
「それに引き替え……」
ぐるん、と彼女がカイリの方を振り返ってくる。
そして、睨み殺す様に凝視した後、びしっと手にしていた
「貴方。イモっぽいわね」
イモ。
衝撃の命名に、カイリは頭から隕石が降ってきた様な大打撃を受けた。
シュリアが後ろでぷっと噴き出しているのが腹立たしい。思わずぎっと睨んでしまった。
しかも、先程までの甲高い声とは打って変わってなかなかに低めだ。これが
「い、イモ、ですか?」
「そうよ。貴方。制服や、その品の良いラリエットで誤魔化してはいるし、ちょーっと可愛い顔をしているけれど。貴方、田舎育ちでしょう? 田舎のほのぼのーっとしたぽわわーんとした、
「え、あ、……はい。初めまして、カイリ・ヴェルリオーゼと申します」
「あら、貴族なの? おかしいわね、田舎の出じゃないのかしら?」
「ええと、いえ、春頃までは田舎でのんびり暮らしていました」
「やっぱり。……って、あら。ということは、玉の輿なのかしら。……イモなのに、……やるわね」
イモじゃない。
そう叫びたかったが、確かにカイリはつい最近まで田舎暮らしだった。休日に着る普段着もレインやリオーネのセンスのおかげで、そこまでやぼったくは無いと思うが、やはりどこかで滲み出ているのかもしれない。
「というわけで、イモ貴族」
「い、イモ貴族……」
「そこの、犬っぽい顔したのも仲間かしら?」
「い、犬っぽいって、ボクのことっすか!?」
いきなり飛び火したエディが、己を指差して飛び上がる。
抱き付かれたままのレインはというと、笑いながら遠い目をしていた。楽しむ余裕がないらしい。本当に珍しいこともあるものだとカイリは現実逃避を進めた。
「って、ボクはエディっていう名前があるっす!」
「もう、喋り方が犬じゃない。というわけで、貴方は今日から犬よ。決定だわ」
「ひ、酷いっす……っ! 確かにパシリっすけど! それは、フランツ団長をはじめとする、兄さんや姉さんのためだと思って……!」
「ところで、王子様みたいな貴方は何ていう名前なの?」
「って、聞いてないっす!」
「……。……レインだよ。王子なんてガラじゃねえ」
「まあ、レイン! 素敵な名前ね。イモ貴族や犬とは大違いだわっ」
ぽおっと頬を染め上げる推定王女は、どこまでも推定王女だった。その真っ赤に恥じらう姿はまるで可愛らしい恋する乙女の様に映るが、
おまけに、口調と声の高さまで変わるのか。いっそ清々しいくらいの格差だ。
そんな風に、呆れと感心を
「……ジュディス王女殿下。少々よろしいでしょうか」
フランツが、恐ろしく低い声で王女――ジュディスに呼びかける。
その姿がゆらりと真っ黒に揺らめいていることにカイリは嫌な予感がしたが、時すでに遅し。彼女は企む様な笑みを乗せ、胸を張って出迎えた。
「あら。何かしら?」
「
「まあ。良いわよ」
あっさりと意見を促すジュディスに、フランツは拳を握り締めた。
その並々ならぬ覇気は、歴戦の猛者を連想させるほどに頼もしい。カイリはカッコ良いなと少し惚れ惚れとしてしまう。
だが、それは嫌な予感の通り、間違いだった。
「カイリはイモではありません! カイリは、まっさらな天上から舞い降りた、穢れ無き天使です!」
――この人、何てこと言い出したんだ。
カッと目を見開き、堂々と自信満々に声高に仰々しく大々的に宣言するフランツに、カイリは顔を両手で押さえて天を仰いだ。もうこの場から、一も二もなく逃げ出したい。更に事態をややこしくしないで欲しい。
周囲の
「あら。天使だったの?」
「その通りです! カイリは天使! 俺の元に舞い降りた、俺を幸せにするべく隣で笑ってくれる、この世に二つとない天使です!」
「まあ、素敵ね」
「その通り! 素敵でしょう! そう! 例え、もし、万が一! カイリがまかり間違ってイモはイモだったとしても。カイリは、イモ中のイモです!」
この人、本当に何言ってんだ。
カイリが思わず口に出してツッコミを入れたが、まるで聞き入れられはしない。むしろ、益々フランツの演説がヒートアップしていく。
「イモ中のイモ? 本気かしら?」
「当たり前です! そう、カイリはキングオブキングならぬ、イモオブイモ。どこをどう切り取っても最高の味で、どのイモも真似出来ないほどにずば抜けて素晴らしい、そう! 王女殿下の言葉を借りるならば、
「って、はあ⁉ イモ天使⁉ ちょ、フランツさ……!」
「天使であるカイリにはぴったりの名称! そう、カイリはこの通り可愛らしい、最高の息子です! それをただのイモとは……何事か! 取り消して頂きたい!」
「って、そのフォローもどうかと思いますわよ」
フランツが拳を振るって反論するのを、シュリアが乾いた視線でばっさり切る。
だが、ジュディスは、あら、と気を引かれたらしい。カイリとフランツを交互に見つめ、レインに抱き付いたまま話しかけてきた。
「貴方達、親子なのね」
「ええ、その通りです。カイリは俺の大切な息子で、最高に可愛らしくカッコ良く男らしい上に底抜けなまでに優しい人柄。つまりは天使! これ以上ない息子を得られて、俺は果報者だと思っております!」
「ふ、フランツさん! フランツさんはいつも恥ずかしいことを宣言し過ぎです!」
「何を言う。本当のことだろう。恥ずかしいことなど一つもない」
臆面もなく言い切られ、カイリの顔に物凄い勢いで熱が集まる。イモのフォローはどうかと思うが、それでも彼がここまで断言してくれることが嬉しい。
あまりに真剣な眼差しに黙ってしまうと、ふーん、とジュディスはどうでも良さそうにレインの胸に頬を寄せた。
「まあ、良いわ。今までの護衛とは違うみたいだし。レインだけでなく、貴方もイモ天使も犬も、私と共にいることを許可するわ。ついでに、白い目をしているそこの女も」
「……い、イモ天使……。せめて、イモだけにして下さい……」
「女って、シュリアって名前があるんですのよ!」
「それと」
ついっと、ジュディスはリオーネに視線を向ける。
一瞬だけその目が細まるのをカイリは見逃さなかった。冷めた様な、少し奥にちらついた色が気になる様な――どこかで見た様な瞳に、カイリの胸が不意を突かれて息を呑む。
「リオーネ。久しぶりね」
「お久しぶりです。ジュディス王女殿下」
淡々と挨拶を交わす二人の間に、ぴりっと雷が散った様な音が鳴った。
ジュディスは無言。リオーネはにこにこと無難な笑みを浮かべて、ひたすら彼女を見つめている。
いつまで続くかと思った沈黙は、だがすぐに終わりを告げた。
ジュディスはレインに抱き付き直し、第十位の方へと振り向く。
「そういうわけで、護衛はこの人達だけで充分よ。他は帰りなさい」
「――――――――」
唐突な宣言は、その場にいた全員の度肝を抜いた。
水を打った様に静まり返り、カイリも
カイリ達に対しては、一応護衛の任を許可するという様な言い方をジュディスはしていた。
ならば、この宣言は――。
「……って、そんなわけにはいきませんよお! ねえ、フランツ殿?」
「何を言っているのかしら。今回の任務を依頼したのは私よ? フランツ殿に権限などないわ」
真っ先に我に返って食いついたのは、第十位のファルだった。いきなりの解雇宣言に必死に食い下がる。
だが、ジュディスは取りつく島もなく言い放つ。見下す様に、虫けらを見る様な眼差しが、かえって彼女の心情を雄弁に物語っていた。
「たかだか私の護衛に、そんなぞろぞろもさもさいらないわ。だって、私は別に次期女王っていうわけでもないのよ」
「それは……、……っ、い、いえ!」
「私が死んだとしても、後にはお兄様が二人もいるじゃない。この城で存分に私の家族を守ってあげなさい?」
「……し、しかし! これは、陛下からも直々に!」
「それに、第十位って、いっつもどこかで馬鹿にした様に守ってくれるんだもの。
にっこりとレインを見上げ、ジュディスは輝かしいまでに毒を吐く。
その言葉に、ファルが歪んだ様に憎悪を向けてきた。主にカイリの方へと殺意を突き刺し、
だが。
「あら。イモ騎士に嫉妬したって無駄よ。日頃の行いじゃない」
「い、イモ騎士……決定事項……」
「どうせ、夜はみんなに食事を振る舞うから。その時に、名誉を挽回してみせなさい?」
「じゅ、ジュディス王女殿下……!」
「気安く名前を呼ばないでちょうだい、馴れ馴れしい」
ぴしゃりと、ジュディスがファル達を切り捨てる。
その視線は氷の様に冷え冷えとしていた。心底毛嫌いするその姿勢に、カイリは思わずファル達第十位の方を見つめる。
彼らは、それぞれ苦汁に満ち満ちた色を顔に広げていた。
だが、それは「王女に断られてまずい」という
こんな奴に、下に見られるなんて。
そんな屈辱に
「パーシヴァルに伝えなさい。第十位は今回はお役御免よ、と」
「……っ! ジュディス王女殿下!」
「それじゃあ、行きましょ。レイン、エスコートをお願いね」
「……はいはい。では行きましょうかね、お姫様」
「まあ! 凄い! 良いわ、その呼び方! 許すわ!」
「それは光栄の至り」
レインが
それを見送ってしまってから、カイリは慌ててフランツを見上げる。
彼はというと、何故だか面白そうな笑みを浮かべていた。エディやシュリアは不満そうだが、フランツは何かを見出したのだろうか。
「フランツさん?」
「いや、なかなか面白い方だ。今まで面識は無かったが……ふむ」
「ふん。ま、
「いいっす、いいっす。……行くっすよ、新人」
「あ、うん」
エディに促され、カイリも背を押される様に追いかける。
だが。
――何だか、嫌な予感がする。
背後から飲み込む様に襲い来る殺気の津波が、恐ろしい。目には見えないのにひしひしと忍び寄ってくる寒々しい空気に、カイリはラリエットを握り締めた。
手の平の中のパイライトは、応える様にほのかな熱を伝えてくれる。
それに励まされて、カイリは震えそうになる足を必死に動かして城を出た。
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