第143話


「……ああ。今度こそ、死のうと思っていたのに」


 ルナリアから少し離れた丘の頂上で、街並みを眺望しながらシエナは嘆く様に崩れ落ちた。ふわりと夜風に藍色の髪が舞う様は、まるで夜の煌めきが優雅に流れる如く美しい。

 そんな彼女の美しさにうっとりしながらも、兄であるカナスはやれやれと肩をすくめた。彼女の肩を抱き、綺麗に瞬く星空を魅入られる様に見上げる。


「まあまあ、シエナ。ほら、素敵な星空だよ。自殺なんて、もうやめた方が良い」

「……、はい」

「おや、今夜は素直だね」


 おどけて大げさに肩を竦めたが、すぐにカナスは、ふふっと笑ってしまう。そんな兄の意地悪い笑みに、ぷくっと膨れる彼女は愛らしい。


「ほら。機嫌を直して」

「……お兄様は意地悪です」

「ごめんごめん。……でもまあ、確かにわざと大声を出して切り裂き魔の注意を引いたのに? カイリさんに助けられちゃったもんね。それがお前の運命の分かれ道だった」

「……、はい」

「己を顧みずに助ける彼に、お前は恋に落ちちゃったもんね?」

「……はい! そうなんです……!」


 ああ、と悲劇のヒロインの様に頬に手を当て泣きじゃくる妹に、カナスは今宵こよい何度肩を竦めたか。数えるのは十を数えた頃に放棄した。結構律儀に数えたと自画自賛する。


「あの時のカイリ様、自らの右手まで犠牲にして……! とっても凛々しかったです! ああ、あの時のカイリ様を思い出すだけで、胸がときめいて止まらない……!」


 涙を流しながらも顔を赤らめる妹に、カナスは苦笑交じりに頭を撫でた。


「そうだね。その話、ずーっとしてるよね。お兄様、焼いちゃいそうだよ」

「あら。可愛いお兄様」

「大丈夫。可愛い可愛い妹のためなら、お前をカイリさんにあげたとしても悔いはないよ」


 ほら、泣きやんで、と軽く唇にキスをする。

 シエナもカナスの首に腕を回して、もう一度口付けてきた。深く入り込む熱に、体の芯が震えそうになる。


「こら。カイリさんはどうしたの」

「カイリ様は特別です。でも、お兄様も特別です。それは、いつでも……いつまでも変わらないです」

「そうかい、愛しの姫君。君の騎士になれるならば、本望だよ」


 ぽんぽんと後頭部を撫でれば、妹はとろける様に笑った。

 ああ、やはり妹が世界で一番愛らしい。幼い頃から見守ってきた、可愛くて花の様な妹だ。



 対する両親は、ゴミ溜めにも劣るクズだった。



 彼らにとって自分達は子供ではなく、生まれた時から奴らの私物。むしろ奴隷だった。

 両親は子供を食い物にし、散々使い果たした挙句に最後は狂信者にはした金で売り払った。兄妹身を寄せ合って生きてきて、物心付いた頃にはもう、互いしか信じられなくなったのは自然の成り行きだっただろう。

 組織で上り詰めた後に再会した時も、彼らは身寄りのない子供を食い物にしていた。

 相変わらず下種な生き方をしていたため、罪悪感も湧かない。丁寧にゆっくりと、最後まで残らず料理をしてあげたものだ。

 あの時の獣の様な悲鳴や薄汚い命乞いは、今思い出しても愉快で堪らない。

 本当に、クズばかりが我が物顔で這いずり回っている。


 だが、世の中とはそういうものだ。


 平和であれば互いに手を取り合う者達も、いざ命の危機に瀕すれば、平然と数秒前まで手を取っていた相手を突き飛ばす。

 今まで捕まえた聖歌騎士共も、己を助けるためにどれだけの生贄を自ら差し出したか。――どの道助かる未来などないのに、本当に愚か者ばかりだった。

 故に、縁も利も何も無い妹を、それでも形振なりふり構わずかばったというカイリをカナスは信じ切っているわけではない。

 しかし。


「……。……カイリさんは、不思議だね」


 ぽつりとささやいたのは無意識だ。

 はっと我に返って軽く口を右手で塞ぐが、もう遅い。妹が透き通る笑顔を見せてくるので、認めざるを得なかった。

 そうだ。カナスはカイリを信じ切ったわけではない。

 けれど。



 人を食い物にし合う腐った連中を見続けてきたせいか、その行動はとても高潔に思える気がしたのだ。



 しかも、彼の言動は表面だけの薄っぺらなものではない。

 それは、今回の事件の顛末てんまつを見ても容易に悟れる。本気で相手に殺されかけたのに、それでもまだ強く手を伸ばそうとする人間をカナスは初めて見た。

 だから、例え死に直面したとしても、彼は妹を助けるだろう。

 何より、妹が信じた人だ。

 薄暗い世界で生きてきたにも関わらず、それでも心動かされるものを彼から感じたのだろう。ならば、少し様子を見てみるのも一興だ。


「ああ。……パリィを助けた時の、あの凛々しいお姿……。あの優しくもたくましいお姿を、私のかいなで掻き抱きたい」

「わあお。熱烈だね」

「あの熱を自分のものにするまで、死ねません、お兄様」

「そうだね。死んではいけないよ。お兄様も悲しいからね」

「はい……」


 しゅんっと項垂うなだれる妹の額に口付けを落とす。

 嬉しそうにはにかむ彼女を、カナスは軽く抱き寄せた。



 妹には、自殺願望がある。



 死にたくて死にたくて仕方がないのだそうだ。理由は分からないと言っているが、カナスにも少しだけ共感出来る気がした。

 彼女はこの十年、あらゆる手段で死のうとしたのだが、自分で自分を殺すのは駄目だというルールだけは頑なに守っている。カナスがそれを禁止したからだ。律儀に守る彼女はやはり可愛い。


 今回の自殺方法は、狂信者の失敗作である切り裂き魔――パリィを使うものだったようだ。


 カナスと離れて一人になった隙に、気配を嗅ぎ取って駆け付けたらしい。

 計画通り殺そうとしてもらったらしいが、カイリのおかげで助かった。しばらくは死ねないと言い出したということは、よほど彼を気に入ったのだろう。良い兆候である。


「しかし、大サービスだね。パリィのこと、ぶつかる様に仕向けちゃって」

「だって、事件を解決したがっていたんですもの。会えなければ、それまででしたけれど」


 カイリを気に入った妹は、何とか彼の力になれないかと腐心した。

 そして、パリィが毎日パン屋に出入りしている時間帯を彼に情報として流し、手助けをすることにしたのだ。

 どうなるかと見守っていたのだが、カイリは律儀に教えられた時刻にパン屋に向かい、結果、面白いことになった。



 教皇や狂信者が仕掛けた強力な洗脳を、解いてみせたのだ。



 時間が経っていたから、効果も薄くはなっていただろう。

 それでも洗脳というのは、普通の聖歌や聖歌語と異なり、効果を心や脳の奥底まで侵す様に刷り込まれる。そのせいか精神の内部まで支配され、持続力が格段に長くなるのだ。

 しかも、パリィの場合は教皇にだけではなく。



 ――その時の『王』に、実験道具にされちゃったんだよね。



 教皇が仕掛けた洗脳に、自分が別の洗脳をかけることが出来るか。

 目的や好奇心に忠実に従う当時の『王』は、躊躇なくパリィで実験した。結果はご覧の通りだ。


 その後、あろうことか、『王』は実験の成功を見届けた末に放置したのだ。


 実験当時、その場にいた部下達を全員彼が殺してしまったため失敗作と判断したのも理由ではある。

 洗脳には成功しても、別の意味で失敗した実験体に『王』はすぐに興味を無くした。

 失敗したのならせめて始末すれば良かったのに、最低限の責務を怠ったことは許しがたい。


「……前の『王』は、本物の『王』では無かった」

「ええ。さっさと死んでくれて清々せいせいしました」


 嘲笑と共に呟くカナスに、シエナも侮蔑の笑みで応える。



 パリィがいつ、見境なく周囲を喰らう殺戮者になるか。



 正気と狂気の落差が激しく、不定期に殺戮を行う狂人。

 そんな扱いづらい彼を、狂信者の上層部は監視付きで野放しにしておいた。勝手に殺してくれる中に、教会のいぬがいれば良いという考えもあったからだ。

 ただし、監視というのも名ばかりで、監視役は誰もパリィに勝てはしない。

 今思い返しても、当時の『王』周りは本当にひどい体たらくばかりだった。命令だったとはいえ、全員葬って正解だったとカナスはしみじみ感じ入る。


「パリィは幸運だね。今の『王』なら、正気に戻った彼を殺す真似はしないだろう」

「ええ。今の『王』なら、正しい判断をして下さいます。……洗脳される前後を覚えていないからこそ、私達の追跡をもう受けない」

「うん。この街まで付いてきていた監視役も全て始末した。パリィも死んだことになる。……もう誰も、彼の顔を知る者はいない」


 これで、カイリの力が増えるのだ。カナスも異論はない。仏心を出して、手を貸した甲斐があったというものだ。

 先代までと違い、例外が今の『王』が統治する狂信者には存在する。それが、今回のパリィの件に当てはまるだろう。洗脳の前後を覚えていないからこそ、彼は確実に見逃される。

 手段を選ばないながらも、少々手心を加える様になった。狂信者内部は、少しずつ変化を迎えつつある。

 今の『王』は初代の再来とまでうたわれており、様々な期待も寄せられていた。

 しかし。



 そんな変化を遂げた中でも、カイリの存在は別格だ。



 教皇と狂信者の合わせ技である洗脳を解くほどの、聖歌の歌い手。

 狂信者の最終目標を考えれば、喉から手が出るほど欲しい人材だ。



「……カイリさんのことを知ったら、何が何でも手に入れたいと。売ってしまいたいと。低レベルな輩は思うだろうね」

「――」



 ささやくと、シエナがぴくりと反応した。

 おお恐い、とおどけて見せる。


「大丈夫。だから、殺したんだよね? あの騎士の風上にも置けないクズどもを」

「当然です。――カイリ様のことを、あろうことか敵である私達に売ろうとするような下種げす。生かしておく価値などありませんわ」


 うっすらした笑みに狂気が乗る。

 透き通る様な翡翠の瞳には、吐き捨てるほどの嫌悪感を宿らせていた。


「そうだね。心優しいカイリさんに手を出す輩には、罰を与えないといけなかったからね」

「はい! ……この詰所にいる騎士団は低レベルでしたから。忍び込むのも、やってしまうのも簡単でした」


 やってしまう、という単語を置き換えると物騒な内容だが、彼女なら可愛いの一言に落ち着く。

 妹はふわふわした見た目に反して俊敏だ。あの程度の警戒レベルなら、朝飯前である。

 それに。



「……『彼』も、何故か見逃してくれたし」



 障害になったのは、詰所の最上階に滞在している人間だった。

 カイリ達と同じ日に到着し、けれど彼らに接触するでもなく、一歩も部屋から出ずに黙って事件を見守っていた存在。

 彼は、教会の中でも最高権力者に近い。

 そんな彼の目的は何だったのか。少なくとも、教皇の意図からは外れている気がした。

 故に、カナス達の狂った行動さえ見逃したのだろう。

 何が目的なのか。何が狙いだったのか。



 分かりはしないが、少なくとも今は『誰の敵でも』ない。



 存在だけは気に留めておくが、今は放置しておこう。

 それが、カナスと妹の結論だった。


「後は、憂いは無いよね。騎士も監視役も始末したし、カイリさん達も何とか自分達で誤魔化せそうだし」

「何か問題があったら、全てやってしまえば良いんです。私達なら簡単でしょう?」

「そうだね。……仮にも幹部なのだから一応権威はあるし、黙らせようか」


 今の『王』になってから、カナスも妹も幹部に昇格した。

 それでも、普段は縛られずに気ままに世界を放浪している。それを今の『王』は、とがめるどころかむしろ大いに推奨してきた。

 本当に緩い組織だ。こんないい加減で、が強い自分達でも幹部になれるのだから。


「……『王』には一応報告しなければならないけれど。きっと僕達の意図は組んでくれると思うよ」

「もちろんですわ。……知れば、きっと一考して下さる価値がカイリ様にはあります」

「そうだね。カイリさんの聖歌の効力の強さや、十二分に発揮できる条件下……。詳しく調べなければならないから、多分すぐに拉致したりはしないだろう」

「はい! それに、……カイリ様には、出来れば彼の意思でこちら側に来て欲しいです」

「そうだね。狂信者は教会と違って良いところだって、教えてあげないと」

「ええ、当然です。……彼のためなら、何だって出来そうです」

「うん。……」


 だが、カイリは今時かなり珍しいくらいまともな人間の様だ。

 いきなり狂信者側に誘っても、来るわけもなし。例え第十三位が全員死んで、教会側のせいに見せかけても、なかなか落ちて来ない気がする。

 洗脳が一番手っ取り早いが、通じるかどうかもはなはだ疑問だ。それに、彼の意志が無くなった時点で、妹の好きな彼ではなくなる。

 それに。



 ――彼の歌は、どこか心地が良い。



 今まで歌に何の感慨かんがいも湧かなかったのに、彼の歌には興味をそそられた。まるで優しい熱に包まれる様な錯覚に陥ったとは、絶対に妹にも言えない。

 そんな優しい彼の歌の未来を、彼自身の足で歩くのを見てみたい気もした。

 故に、妹のため、自分のため。

 そして、妹を任せられる『かもしれない』彼のために、洗脳という手段は省いておこう。


「まあ、しばらく様子を見よう。いざという時は、騎士の手助けもしちゃおうか」

「そうですわ。何をしようと私達の勝手」

「虫けらに責められても、首をねれば良いしね」

「はい! ――私たちをどうこう出来る人間は、『王』しかいません」


 はっきりと、妹の顔に憐憫れんびんが混じる。

 馬鹿な人達と見下す妖艶な視線に、カナスの背中にぞくりと震える様な感覚が走った。


「ああ。いいね、……その顔」

「お兄様……」


 うっとりと見上げてくる彼女の潤んだ瞳に、吸い込まれる。

 目元にキスを落とし、カナスは幸せを堪能した。


「さあ、そろそろおいとましよう。カイリさんを引き込む手段を、色々考えないとね」

「はい! お兄様、大好きです!」

「おやおや。情熱的だね。僕も大好きだよ」


 可愛らしく抱き付いてくるシエナに、カナスも笑って答える。



 さて、どんな風に調理しようか。



 義弟になるかもしれない人物を思い浮かべながら、カナスは妹からの口付けを扇情と共に受け入れた。











「お疲れ様です、ロードゼルブ卿」


 フランツ達第十三位が遺体を引き取りに帰った後。

 詰所に待機していた騎士達が、部屋を訪ねてきた。

 がちがちに緊張している彼らに笑いが込み上げてきたが、仕方がないだろうと諦めている。何せ、自分は枢機卿だ。

 今回第十三位の監視役として密かに追尾していたが、なかなか面白い余興が見れた。


「第十三位は、詰所より帰ったか」

「はい。後は自分達が埋葬し、報告も上げると」

「そうであるか」


 ここまでは、予想した通りだ。

 殺された二人は、教会騎士の中でも腐った人種だった。自分としても、彼らがいなくなったところで痛くもかゆくもない。


「……切り裂き魔の事件も解決した。明日、わしも発つ」

「はい。……ご足労頂き、感謝致します」


 びしっと敬礼をし、騎士達が答える。

 彼らはまだまだ未熟ではあるが、騎士としての心得や誓いは失っていない様だ。一時腐ってしまったルナリアの詰所だが、少しずつ信頼も回復していくだろう。他の枢機卿にもそう報告出来ると安堵する。


 犯人である元切り裂き魔は、あの第十三位の手となり足となるだろう。


 かつて、教皇が犯した過ちの欠片かけら。気にはかけていたが、意外な決着だった。

 どちらにせよ、こちらの手を離れた今、もう関係ないことだ。

 彼らが、教皇に立ち向かおうが崩れ落ち様が、全ては彼らの努力次第である。それに口出しするつもりもない。



 ――カイリが、教皇や狂信者の魔の手にかからなければ、それで構わない。



 あの狂信者の兄妹が、どの様な意図で騎士二人を始末し、周りにいた狂信者も討ったのかは分からない。

 だが少なくとも、『今は』カイリの敵となることはないだろう。

 だから、見逃す。しばらくカイリの役に立ってくれるのならば、何も問題は無い。

 しかし。



「……あの子に手を出す、その時は」



 葬る。



 強く、短く、決意する。

 近くで聞いていた騎士達が怯えた様に顔を強張らせたが、それだけだ。気概きがいで持ち直そうとするその姿は、敬服に値する。

 本格的にここに憂いは無くなった。安心して旅立てる。

 そう思いながら、カイリがいるであろう孤児院の方角へと窓から視線を投げた。

 切り裂き魔の安否を偽り、教皇に立ち向かうだろう彼。



 彼の心中は、如何いかなるものか。



 次に会う時が楽しみだと、ゼクトール・ロードゼルブは誰にも分からないほど微かに口元を緩ませた。

 そう。



 ――目的を達成するまでは、生きていてもらわねば困る。



 もう遠くない未来を見据え、ゼクトールは引き締めていた緊張を、ようやく襟元を緩める様に解いたのだった。


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