第107話
ぱちぱちと、優しくて静かな火花の音でカイリは目を覚ました。
起き上がると、ぱさりと何かが体の上から落ちる。フリンジが付いた真っ黒なロングコートを目にして、フランツのものだとすぐに分かった。
慌てて周囲を見渡すと、星が小さく瞬く夜空の下、それぞれがゆったりと談笑しているところだった。カイリが目覚めたことに気付いて振り返ってくる。
「カイリ。目が覚めたか」
「よう。良い夢見れたか?」
フランツとレインがかけてくれる声が、いつもの調子そのままだ。
その気遣いが、カイリには嬉しくて心の底から安堵した。
「はい。おはようございます。……すみません、フランツさん。上着、お返しします」
「いや、良い。そのままかけていろ。夜は冷えるぞ」
「でも」
「俺にはこの筋肉がある」
どんな主張だ。
突っ込みたかったが、大真面目にフランツは
気持ちはありがたいし、正直自分より大きいサイズと言うこともあって安心してしまったのだ。――レインが横で肩を震わせて突っ伏していたが、カイリは見なかったことにする。気を抜くと、カイリも噴き出しそうだ。
「カイリ様、レイン様お手製のホットココアです。体、温まりますよ」
リオーネもフランツの主張を華麗にスルーし、紙製のコップを手渡してくれた。手馴れている。
しかし、レインは任務先にまで自家製のココアパウダーを持ってきていたのか。どこまでも調理に貪欲なその姿勢に感嘆した。
お礼を言って受け取ると、温かさも調整されている。熱過ぎず、冷め過ぎず、絶妙な加減は彼らしい。
「いただきます」
「おう。今度はしっかり味わえよ」
ばちんとウィンクされて、カイリは首を
こくんと、一口含むとほろ苦い甘さが喉を通っていく。心に
「美味しい……」
「ですよね! レイン兄さんのココア、最高っす!」
「褒めてくれても男じゃなー」
「レイン様、美味しいです♪」
「そうそう。これだよ、これ」
「……馬鹿ですわ」
おどけた会話が耳に優しい。
切り出そうか迷ったが、迷惑をかけたのは事実だ。眠らせてくれている間に、村からも遠ざかっている。今のカイリでは、強がっても辛さが増すだけだったからありがたかった。
「あの、ありがとうございました。……お見苦しいところをお見せしました」
「本当ですわ。泣き虫ですわ」
「うぐっ、……否定できない」
シュリアに呆れられ、カイリはぐうの音も出ない。どれだけ泣けば気がすむのだろうと、カイリ自身も頭を抱える。
「……もう大丈夫か?」
「はい。泣いて叫んだら、少しすっきりしました。自分がどう感じていたのかも分かって、……良かったです」
目を伏せて告げれば、それ以上彼らは何も言わなかった。
気持ちの整理が出来たわけではない。未だに黒く渦巻く憎悪や悲しみが腹の底に溜まっていて苦しくて堪らなかった。
だが、その正体を知らないままだともっと苦しかったはずだ。
そして、フランツに、その薄汚い感情を持ったままでも良いのだと許されて、少しだけ楽にもなった。
許さなくても良い。
そんな残酷な気持ちを持っていても良いという許しは、カイリにとっては目から鱗だったのだ。
だが。
〝君を試すために聞いたけど、彼の命を助けることはないだろう〟
――やっぱり。俺は、穢いな。
クリスからあの言葉をもらった時、カイリはどこかで心を打ち切った。
エリックが、もし狂信者を抜けようとしていたとしても――。
否。
どちらにしても助からないと知って、カイリは心のどこかでそれを免罪符にした。
もし、これが両親が相手だったら、カイリは最後まで
狂信者を抜け出そうとしていたのならば、クリスの説得もフランツ達の制止も振り切って、何が何でも助けようとしていた。
仮に抜けようとしていなかったら、カイリは死に物狂いで説得したり、こちら側に来る様にあらゆる手を考えようとしただろう。
どちらにしろ、最後の最後まで、それこそ彼らが死ぬ瞬間まで諦めなかったはずだ。
けれど。
カイリは、エリックに関しては早々に諦めた。
それこそが、カイリの本音だったのではないかと思い知らされて苦しい。彼を許さなくて良いと認められると同時に、やはり己は酷い人間だと自覚もしてしまった。
本当に、カイリはフランツの言う通り、彼を許したいと願っているのだろうか。
考えれば考えるほどドツボに
〝せめ、て、……君、の、手が、……良かっ……、…………っ〟
――俺は。
「カイリ?」
「――っ」
フランツの呼びかけに、カイリははっと我に返る。
嫌な思考に沈んでしまっていた。恐らく酷い顔をしていただろう。フランツ達が心配そうに各々見つめてきていた。
ぎゅうっと、紙のカップを握り締めそうになって――潰す前に慌てて力を緩め、カイリはぎこちなく頬に力を入れて笑って見せた。
「……。そういえば、フランツさん。任務先の孤児院って、どこにあるんですか?」
無理矢理だが話題を変える。せっかくいつも通りで迎えてくれたなら、そこに戻りたかった。
カイリの企みに、フランツは乗ってくれた。
だが、ついっと視線を逸らした仕草にカイリは首を傾げる。考えてみれば、詳しい任務先を何故か今も聞けていない。何故だろうと疑問が大きく頭をもたげた。
「フランツさん?」
「ああ。うむ。……まあ、お前も知っている場所だ」
「はあ」
煮え切らない彼は珍しい。
救いを求めて周りを見渡すと、シュリアが心底呆れた様に溜息を吐いた。
「あなたが、ハリエットと初めて訪れた街を覚えていますか」
「うん? ああ、もちろん。今回も村に向かう時に通ったよな」
「あそこですわ」
「……はい?」
一瞬耳を疑った。
カイリが聞き直せば、シュリアは
「だから、あそこが今回の任務先ですわ。ルナリアです。……本当、信じられませんわ……」
シュリアが額を押さえて嘆息するのに合わせ、カイリは思わずフランツを凝視した。
彼は、依然としてあらぬ方角を向いている。よほど話題にしたくないらしい。
「……え。ルナリア、ですか? でも前にあの街に寄った時、一度も孤児院に挨拶しなかった様な……」
「ええ。しませんでしたわ。間違いありません」
「……寄る暇、無かったんだっけ?」
「いいえ。どうせ長期で休暇を取ったのですから、数分でも数時間でも立ち寄る暇はあったはずですわ」
見事に逃げ道を破壊していくシュリアに、カイリは頬を掻くしかない。これは完全にフランツの落ち度だ。
じっとカイリ達に見つめられ、フランツは渋々といった風に、もっともらしく断言した。
「何を隠そう俺は、あいつがこの世で一番苦手だ」
堂々と自慢することじゃない。
腕を組み、胸を張って、
「会わないでいられるのならば、会わないままでいたかった」
「……、す、すみません。俺のために」
「いや。お前のせいではない。全ては、……妻に妹がいたことに問題があったのだ」
存在を否定するなよ。
よほど妹が苦手なのだろうか。悟りを開いた様な笑みで夜空を見上げるフランツに、カイリはどう答えて良いかほとほと困り果てた。
フランツの横ではまたもレインが爆笑して突っ伏しているし、シュリアはもう呆れ尽くしたのか目も口も閉じて無言になっている。リオーネは意味深に微笑むだけだし、エディは「ココア、美味いっすね」と現実逃避をしているし、話にならない。
この騎士団は、肝心なところで全員逃避が上手い。
カイリはまた一つ学んだ。学びたくはなかった。
「……そういえば、フランツさん。その、奥さんの妹さん? と俺の両親って面識があったかどうかは分かりますか?」
「む」
素朴な疑問に、フランツが
カイリの両親が街に買い出しに行くとすると、最寄りの街はルナリアだ。いつも小豆やら酒やら大量に買い占める時はルナリアを利用していたに違いない。
だから、もしかしたら両親を知っているかもしれない。カイリも対応を考えておく必要があった。
だが。
「……うーむ。俺が妻と出会ったのは、カーティスが国を出奔してからだからな……。妻も妹もルナリアにずっといたはずだったから、少なくとも過去に面識はないはずだ」
「そうですか……」
「ただ、その後、カーティスが妹……アナベルと会話をしたかどうかは分からんな。カーティスからの手紙にも特に書いてはいなかったし、俺達も互いに近況を知らせ合ったりもしなかった。あいつは、俺が結婚したことも知らなかっただろう」
「……そうなんですか」
親友だと言うのなら、こっそり連絡を取り合っていても良いのにと思いかけ、否定する。
父も母も逃げる様に国を出てきたのならば、居場所を特定される行為は控えただろう。親友とはいえ、いつどこで手紙を目撃されるか知れない。
故に、街の中でも名前を出すことさえ避けていた可能性がある。
それなのに、父はカイリのために危険を冒してまでフランツに連絡を取ってくれたのだ。益々下を向く生き方は出来ないと決意を新たにする。
「まあ、何を聞かれても『知らなかった』で通せ。ポーカーフェイスの訓練だと思えば良い」
「ぽ、ポーカーフェイス……」
「あー、大事だなー。カイリ、お前少し顔に出やすいからな。大丈夫な時もあるけど、この際だから意識してやってみろよ」
「……はい」
暗に、「足引っ張るから身に付けろ」と言われている気がする。策を
つくづく策士には向かないと実感していると、フランツはまたも遠い目をして。
「……明日が、二週間後になっていれば良いのだがな」
感傷に浸る様な面差しで呟かれ、カイリ達はこぞってスルーをするしかなかったのだった。
は、はっ、と荒い息を上げながら女性が街中の夜道を走る。背後から同じ速度で走ってくる足音に急き立てられながら、女性は必死に駆けた。
夜も更け、もはや点灯している家屋も少なくなっている時間帯だ。いつもはもっと早い時間に帰宅するのに、今日は体調の悪い友人の代わりにと仕事で遅くまで残ってしまって、これほど遅い時間になってしまった。
それが、運命を分けたのか。
「だ、誰か……!」
息も絶え絶えに叫ぶも、顔を出す者は一人もいない。だんだんと袋小路に追い詰められていく道だと分かっているのに、他に道が見つけられなかった。
女性の走る音と、追いかけてくる足音の速度が全く同じであることに、尚更恐怖を覚えた。まるで狩りを楽しむ様な追い立て方に、絶望さえ取り巻く。
「嫌、……っ、いや……っ!」
とうとう行き止まりに辿り着く。気持ちごと真っ暗になっていく視界の中で、女性が壁を叩きつけると同時。
――ざしゅっ。
背中に、灼熱の激痛が走る。
ぎゃあ、という悲鳴を後ろから口を塞がれた。そのまま、どっと、腹に差し込む様な痛みを捻じ込まれる。
ぼろぼろと、痛みと恐怖で涙が溢れる。口元からも熱いものが吐き出されるのに、塞がれた大きな手の平のせいで満足に吐き出せなかった。
「……あー、オンナぁ……っ」
ぐいっと無理矢理振り向かされ、女性は残酷な現実を直視する。
にたりと口が裂けた様に笑う男性は、狂った様に目をぎらつかせていた。月明かりさえ差し込まないこの路地裏で、血の様に赤い眼光だけが
「オンナ、やっぱり、オンナだ。……切り刻むのは、オンナしかいねエ。オンナは、コロす。みんな、コロす。……なァ? オンナぁ?」
どしゅっと、最後の命を刈り取る。
そのまま、女性は崩れ落ちる様に男性の腕の中で倒れた。まるで寄りかかる様な態勢に、ひゃはっと壊れた笑いを男性が零す。
「キョウカイも、セイ歌も、……ああ、はあ……っ」
女性の頭を掴み、男性の血の様な赤い目から一瞬光が抜け落ちた。
しかし、すぐにぎらぎらと輝き始め、思い出した様に天を仰ぐ。
「そう、……そう。みんな、死んで、オンナが、いるから、みんな、死んで、……。……あー、そうだ。オンナに、死を。しばらくこのシマで、オンナを狩らなきゃ。なァ?」
ごとりと、女性が落ちる音がする。
途端、男性の目から笑みが消えた。ごっと頭を踏み付け、ぐりぐりと潰す様に力を入れる。
「……女はぁ、コロすに限る……。なあ? ヴィクトリア……」
がっ、ごっと頭を何度も踏み付けて、男性は最後に蹴り飛ばす。
そのままごろごろと転がって倒れた女性の遺体に、更に刃を突き刺した。生暖かい飛沫が飛び散ったことに満足し、引き抜く。
「あー、……またヨゴれた。なあ、ヴィクトリア」
手にする刃に語りかけながら、男性は丁寧に剣身の血を拭き取っていく。
そうだ。殺すに限る。
女は、全員殺すために存在している。
そうだ。殺す。殺さなければならない。
全ての女を狩り尽くす、その時まで。
あいつの、代わりに。
女を、全て。
「……オレはぁ、死なないゼぇ……? ……ひゃははははははははははあっ!!」
狂った様な哄笑が夜の静寂を引き裂く。
だが、そこに教会騎士達が駆け付けた時にはもう、男性の姿は煙の様に消え去っていた。
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