第49話


「ケントは、前妻との息子なんだ。政略結婚でね。というより、エリスときちんと付き合っていたのに、父が……ケントの祖父が、直前になって猛反対し始めたんだ」


 穏やかにクリスは切り出したが、内容は初っ端から苛烈だった。思わずカイリは「え」と口に出してしまう。


「あ、ごめんね。ビックリしたかな」

「いえ、すみません。……でも、どうしてか聞いても?」

「単純な話だよ。その頃、俺は第一位で聖歌騎士だった。実を言うと、副団長になってね。カーティス殿が団長に就任したから、次の副団長にって抜擢されたんだ」

「……副団長」


 父が団長に就任した頃に、クリスは副団長になった。

 恐らく、副団長は次期団長として対外的にも見られているのだろう。だとすれば、かなりの大出世に違いない。


「爵位もその時に伯爵に上がったし、それで、まあ俺の父が調子に乗ったのさ。もっと格式の高い者を嫁に迎えろって」

「……っ」

「エリスも貴族の娘ではあったんだけど、子爵でね。結果、無理矢理引き裂いてくれたんだ。……今でも、あの頃の自分の力の無さと愚かさを悔やむよ」


 額に手を当ててうなるクリスと、隣に座っている双子の瞳に一瞬暗い炎が宿った気がした。見えなくても、怒りで揺らいだのがカイリに肌で伝わってくる。


「唯一感謝しているのは、ケントのことかな。前妻がいなかったらケントが生まれていないし。……でも、ああ、今でも……」


 ぐしゃっと前髪を握り、言葉も一緒に握り潰す。

 だが、その顔に宿った感情は真っ黒だった。見ているだけで心臓を鷲掴わしづかみにされそうな恐怖に、カイリの体がすくむ。

 クリスは、一度落ち着ける様に深く呼吸を繰り返してから、真っ平らな声音で過去を告げてきた。



「ケントは物心つく前から、四歳になるくらいまで……前妻と祖父に虐待されていたんだ」

「……っ、……え?」



 虐待。



〝あんな子、死んでくれてせいせいしたわ〟



 不意に浮かんだあの前世の葬儀での出来事に、カイリは思わず拳を強く握り締めた。


「俺は当時、仕事が忙しくて気付くのが遅れた。不甲斐ないよ」


 当時を回顧したのか、彼の声音には悔恨が溢れ出るほどに満ちていた。聞いているだけで苦しくなってきて、カイリは握っていた拳に更に力を強める。


「……前妻はとにかく子供が嫌いでね。自分の息子なのに……泣き声がうるさい、何も出来ない、言うことを聞かない、目つきが生意気だ、……もうあらゆる理由を付けて殴っていたそうだ」

「……っ、じゃあ、お祖父じい様、は」

「祖父は、前妻が虐待する様な子だから、出来損ないに決まっている、だって」

「――」

「何故生きている、まだ死んでいないのか、お前など息をしているだけで空気が汚れる、……。拳ではなく、言葉で罵り続けてケントの心を少しずつ、少しずつ、……ね。……そんな、風に……っ」


 がりっと、クリスの爪がテーブルを強く引っ掻く。震える様な吐息と見開かれた目は、怒りと憎しみで燃え盛っていた。

 もう良い、とカイリは言いたかったが、クリスは構わず語っていく。


「俺が気付いた時にはもう、ケントは壊れかけていた。何をされたか聞いても、何でもないっていつも笑って、……」


 それは、前世の時と同じだ。



〝カイリー! おはよう! 今日もむっすりしてるね! 笑って笑って!〟



 彼は、ずっと傷付いていたはずなのに。何処にも逃げ場など無くて、泣いていたはずなのに。

 それでも、カイリの前では笑っていた。影など微塵も感じさせず、笑って傍にいてくれた。

 この世に生まれてからも同じだったのか。

 前世の時に気付けなかった自分を思い出し、苦しくて情けなくて、叫びたくて堪らなかった。


「でも、何とか聞き出せてね。……、……ようやく吐き出してくれた一言が、……」


 がっと、クリスが引っ掻いたテーブルに傷がつく。

 そして。



「前妻は、こう言ったそうだ。『言えば良いじゃない。――どうせ、父親にも嫌われるわ』」

「――」



 それは、究極の脅しだ。

 子供にとって、最後の砦に嫌われることほどの絶望はない。



「そう笑いながら言われたって。『出来損ないが愛されるはずがないじゃない』って。ケントは全ての感情が抜け落ちた様な、諦めきった様な顔で告白して、……手だけがすがる様に、服のすそを握り締めてきたよ」

「……っ」

「己の馬鹿さ加減を呪ったよ。……ああ、何が何でも、気付いたその時に聞き出すべきだったって」



 そう言って笑うクリスの顔は、ぞっとするほど黒かった。視線だけでも呪い殺せそうな殺気に、彼の心の傷の深さが見えなくなる。


「すぐに前妻とは離婚。反対した祖父はあらゆる手を使って遠方に飛ばした。当然、前妻は実家ごと叩き潰した。どちらも失意の内に死んだし、二度とケントに手は出せない」

「……っ」

「恐いと思うかい?」

「……。……はい。少し」


 素直に肯定すれば、「正直だね」と笑われる。

 だが、彼を責められるかと言えば、それはカイリには無理だ。

 カイリだって、もし村を潰した黒幕と顔を合わせてしまえば、――どうなるのか。分からなかった。


「ケントが四歳の頃にエリスと再婚したんだ。……初めは、もうケントは震えてしまってね。俺にしがみ付いて泣いて大変だった」

「……」

「でも、エリスが根気強く愛情を注いでくれてね。おいでー、おいでー、って。両手を広げてケントが来るまでずーっと待ってた」


 ふと、クリスの顔が柔らかくなっていく。

 彼女から始まる想い出は、きっと優しいものばかりなのだろう。双子の空気も和らいだから、間違いが無い。


「無理矢理抱き締めに行くことはしなかった。最初、ケントが発狂して泣き出してしまったからね」

「……ケントが」


 今の彼からは想像が付かない。

 だが、物心つく前から痛めつけられていたのだったら、おかしくはない。唇を噛み締めていると、クリスが「でも」と続ける。


「エリスは諦めが悪くてね。というより、諦めなくてね。もう、日々ケントを追いかけ回してね。逃げるのに疲れて震えているケントに、遠くから『おいでー』って。ずーっと毎日一日中やっていたそうで」

「……それは、究極の追いかけっこですね」

「うん。俺もそう思う。食事とかおやつも、同じ部屋で対角線上に座って一緒に食べていたそうだ。セバスチャンに部屋の中央にお皿を置いてもらっていたそうでね。ケントがお皿に近付く時は、エリスは彫像の様に動かない。エリスがお皿に近付く時は、ケントも石化した様に動かない。そんな風に食べていたそうだよ」


 ――何だか、凄い絵面だな。


 想像すると、違和感だらけだ。お互いにお互いを意識し合いながら、お皿に料理やお菓子を取りに行く感覚が、カイリには想像があまり出来ない。

 けれど、エリスにとっては真剣な作戦だったのだろう。ケントに少しずつ慣れて欲しいと色々考えたのは想像に難くない。



 最初から二人共自分のところにお皿を置けば、互いに近付く必要は無かった。



 それをしなかったのは、エリスだけでなく、ケントも彼女に近付きたいという心の表れだったのかもしれない。



「……そんな風に色々試行錯誤しながら、ずーっとエリスが笑顔で呼びかけるから、……次第にケントも震えなくなってね。今はあんなに仲が良い」


 扉の向こう側を見つめ、クリスが微笑む。その視線は、今キッチンにいるだろう二人に注がれているのだろう。

 とても優しい眼差しに、カイリも凍り付いた心が溶けていく。

 だが。



「でもね。傷は、消えない」

「――」



 細められた目に、悲しみが宿る。

 その変化に、カイリは揺れた。


「俺の家は第一位の団長になって、侯爵家にまで上がってしまってね。おかげでしがらみが多く、すり寄ってくる者達も下品でね。ケントもそのあおりを食らってしまった」

「……、それは」

「嘘におべっか、罠に穢い駆け引き。隙あらば追い落とそうとする連中も多かったし、誹謗中傷も侯爵家になってから数年は特に酷くてね。……まあ、様々な真っ黒い世界にさらされ、虐待の記憶も相まって、ケントは家族以外を信じなくなった。むしろ、他人をゴミみたいに思っているだろうね」


〝仲の良い人達はいたんだよ! 今もね。ただ、僕が友人だと思ってないだけ〟


 ケントの言葉を思い出す。

 あの時は驚いて酷いなと返してしまったけれど、後で思い返したり、こうして当時の話を聞くと何ら不思議では無い。彼の中では至極当然の結論だったのだ。

 己の無知が恨めしい。彼を傷付けただろうかと、不安になった。


「ケントはとても優しい子だ。けれど、人として欠けてしまったものがある。それは本人も分かっているし、私達が指摘しても直らなかった」

「……」

「息子は家族以外に残酷だ。必要があれば平気で人を陥れるし、困っている者がいても放置する。仕事でなければ、誰かに手を差し伸べることもないだろう」

「……」

「カイリ君。きっと、君はこれからケントと付き合っていくにつれて、そんな冷たい場面を目の当たりにすると思うんだ。その時に、君は……それでもケントと、友達でいてくれるだろうか?」


 うかがう様に見つめられて、カイリは逆に別のことで考え込んでしまった。

 クリスは、どうして自分にそんな話をしたのだろうか。聞いているだけで苦しくなるくらいに酷い傷だし、知られたくない闇なのは間違いが無い。

 打ち明けられなければ、カイリは知らないままだった。ケントだって馬鹿ではない。己の欠点が分かっているのなら、上手くバレない様に付き合うだろう。

 それに――。



「……やっぱり、恐いかな?」

「え?」



 クリスの深い、けれど少し悲しそうな笑みの意味が、一瞬分からなかった。

 だが、すぐに誤解されたのだと気付く。質問したのに反応が無ければ当然だ。己の愚かさを罵りながら、慌てて首を振る。


「い、いえ、違います! いや、恐い……とか、実際に目にしたら苦しくなったりはすると思います、けど。でも、……そうじゃなくて」

「うん」


 クリスは短く相槌あいづちを打ってくる。焦れているだろうに、急かさない彼に申し訳なく思った。

 カイリが何を考え込んでしまったのか、彼はきっと知りたいだろう。誤魔化して余計に傷付けるのは嫌なので、素直に疑問を吐露することにした。



「その、……ケントは」

「うん」

「ケントは、……どうして俺と友人になりたいって言ってくれたのかなって。……今の話を聞いて、逆に俺の方が不思議に思ってしまったんです」

「――」



 聞けば聞くほど謎だ。



 クリスの言う通り、彼とは出会って十日も経っていない。しかも友人になったのは初対面の時だ。出会って程なくしてすぐに言われた。

 家族以外を信じていない。周りをゴミの様に見ている。

 それが事実だとするならば、初めて会うカイリのことだって信じられないはずだ。いくら懐かしい気持ちになったって、即座に信じることにつながるわけがない。例え仮に前世の記憶があったとしても、カイリは彼に酷いことをしていた。益々信じることは出来ないだろう。

 それなのに。


「……んー。……本当のところは分からないけど、……そうだね」


 クリスが目を閉じてあごに手をかける。

 数秒ほど思案して、困った様に微笑んだ。



「私でも、君が相手だったら、友達になってみたいと思うかな」

「……、はい?」



 全く理解不能な発言に、しかしクリスはさも当然と言う風に明言する。


「君はね、何ていうか……空気がれていないんだよね」

「……空気? 擦れていない?」

「そう。自慢じゃないけど、真っ黒な世界に幼少期からかっているとね、嫌なことに、人の空気をよく読み取れるんだ。あ、こいつ嘘吐いてるな、とか。自分のこと嫌いだな、とか。何か企んでいるな、罠にめようとしているな、とか。大体読めちゃうんだよね。もう腐った空気に飽き飽きしちゃって」


 はは、と疲れた様に笑う彼に、気苦労が多い世界だと改めて悟る。カイリは本当にのほほんとした優しい世界で育ってきたのだ。


「カイリ君は、言っては何だけどそういう、足の引っ張り合いが当然の穢い世界ってあまり見たことがないよね?」

「……、まあ、それは」


 前世でも孤立はしていたし、陰口もよく叩かれていたが、今し方耳にした世界には足元も及ばない。

 だから、曖昧だが頷けば、クリスは苦笑交じりに目を伏せた。


「妙に達観しているかと思えば、純粋だし。全てを話すほど愚かではないけど、嘘は吐けない」

「……っ」

「だからかな。安定剤ではないけど、清涼剤って言うか。穢いやり取りに疲れてきた身からすれば、ああ、君なら信じてみても良いかなって。ちょっと思っちゃうんだよね」


 まいったよ、とクリスが頭を掻く。そして、更に白状を重ねてきた。



「正直ね。ケントから手紙を受け取った時はね、君のことを疑いまくっていたんだよ。全員」

「……、え」



 とんでもない暴露をされた。

 あまりの暴言にカイリが頭を真っ白にしていると、クリスが頭を掻いて視線を泳がせる。


「いやあ、ケントに迫る毛色の違う極悪人種かも、とか。ケントの方が、逆に君に価値があるから利用しようとしているのかも、とか。まあ、色々考えちゃって」

「そうなんです。ごめんなさい、カイリ様」

「ごめんね、カイリさん」


 双子も舌を出して謝ってくる。

 ならば、あの出迎えは演技だったのだろうか。信じてもらえないのは当たり前かもしれないが、あの暑苦しい歓迎が嘘だと思うと正直ショックだ。

 しかし。


「でも、実際会ったら、いやあ、……何か、目が痛かったよ」

「はい? 目が痛い?」

「そう。空気がほら、擦れていなくてね。ケントもすっごく楽しそうだし。……ああ、これ本当かもって。疑いまくっていた自分が久々に恥ずかしくなったっていうか。ねえ?」

「そうですね。カイリ様、可愛いですし」

「そうだね。カイリさん、泣いちゃうし」

「うぐっ! もう、忘れてくれ……」


 先程の失態まで持ち出されて、カイリは激しく突っ伏した。村でも大泣きしたが、まさかここでも少しだが泣いてしまうとは。恥さらしも良いところである。


「……あ、でも」


 ぽん、と手を叩いてクリスが悪戯っぽく人差し指を立てる。



「一つだけ、印象と違ったことがあったよ」

「え?」



 何だろう、と思わず顔を上げると。


「カイリ君は、割とはっきり物を言うよね」

「……、はあ」

「それに、やられっぱなしでもないし。さっきはケントの背中叩いちゃうし」

「っ、そ、それは、……すみません」

「雰囲気だけを見ると、流されそうで、言いたいこと言えないまま利用されちゃいそうだなーって思うけど。すぐにそうじゃないって分かったから、意外だったんだ」

「ケントお兄様に突っ込んだり、遠慮なく背中を叩ける人なんて、いませんでしたから」

「だから、嬉しかったです。ありがとう」


 まさか、背中を叩いて喜ばれるとは。


 意表を突かれたが、ようやく彼らがマゾもどきの発言をした理由が分かった。

 ケントには、素でぶつかれる相手がいなかった。ぶつかってくれる人もいなかった。

 だから、カイリの様に白い目を向けたり突っ込む相手が歓迎されたのだ。理由が分かるとまた、彼らの発言が違った風に聞こえてくる。



「……それで、どうかな? ケントのこと、……任せても、良いかな」



 話が戻ってきた。

 クリスが、触れられたくないだろう傷を明かしてくれたのは、信頼の証と捉えて良いのだろうか。



 逆に言えば、これで怖気おじけづくなら今すぐ友人を止めて欲しい。



 そういうことだろう。

 確かに、カイリは穢い世界を見慣れていない。ケントが冷たい一面を見せるたびに驚いて、悲しくなったりするかもしれない。

 だが。



〝僕とも、友人になってくれる?〟



 あの時、彼の手を取った時から。

 自分には、手を切るという選択肢は無い。


「あの」

「……、うん」

「もし、ケントが人を見捨てようとしたり、道を踏み外す様なことをしたら、……遠慮なく、あいつのこと殴っても良いですか?」

「――」


 カイリの問いに、クリスは大きく目を見開いて。



「――っ、……もちろん!」



 くしゃりと顔を歪めて、カイリに頭を下げてきた。

 頼むよ、と手を握ってくれた彼の手が微かに震えていたのを、カイリは一生忘れない。

 改めて、ケントの手を取る決意をした瞬間だった。


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